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仕事の達人

株式会社アイ・エム・ジェイ 代表取締役社長 樫野 孝人 氏

株式会社アイ・エム・ジェイ
代表取締役社長
樫野 孝人 氏

profile

1963年4月神戸市生まれ。86年、神戸大学卒業後、リクルートに入社。人材開発部を経て、編集セクションへ。福岡ドームのコンサルティング、リクルートの子会社・メディアファクトリーを経て、2000年10月。アイ・エム・ジェイ代表取締役社長に就任。

リクルート流「組織の成長エンジン」の創り方と、 多様なメディアプロデュース経験を持ち込んだ、急成長企業の社長

学生向け雑誌の編集、福岡ドームのコンサルティング、ミニFM局の再生、映像事業の立ち上げなど幅広いメディアをプロデュースしてきた樫野孝人氏が、次なる挑戦のステージに選んだのがネットメディア。従来の価値観を刷新する事業展開に期待がかかる。

ウェブサイト構築の国内最大手であるIMJが、急速にその業容を拡大してきている。実に2カ月に1社のペースでグループ会社を設立。従来からのウェブインテグレーション事業に、モバイルコンテンツ配信やソリューションビジネスを推進するモバイルインテグレーション事業、およびリアル&ネット両面でのコンテンツを制作・プロデュースするエンタテインメント事業を加えた3事業体制を確立しようとしているのだ。

代表取締役社長の樫野孝人氏は自社が目指す方向を「インタラクティブエージェンシー」というキーワードを用いて、こう説明する。

「インターネットがテレビ、雑誌、新聞に次ぐ、4番目のメディアになった今、既存マス媒体とのメディアミックスの考え方は大きく変わろうとしています。テレビが現在のようなメガ媒体になる過程では、電通・博報堂などの代理店が大きな役割を果たしたように、我々は既存媒体とネットの特性をうまく組み合わせながら、ネットメディアのプロデュースカンパニーを目指します」

リクルートの人事部門で組織エンジンの仕組みを体感

大学在学中から、将来は経営者になりたいという夢を抱いていた。その夢を実現するため、早期からビジネス力を身につけられる企業を志望した。同氏が選択したのが、リクルートだった。

「面接で会った、あの人の下で働きたい」と神戸支社の人材開発部を希望。当時のリクルートは、年間約1000人の人材を80億円もの費用をかけて採用していた時代。1人あたり800万円。同社がいかに「人」にカネと時間を投じているかに驚愕し、人こそが根幹ということが樫野氏に刷り込まれた。

「私自身も年間1000人は面接しましたし、人に対する目利きが養われた時代でしたね。それと、採用の仕事をしていて痛感したのが、人の能力を引き出すのはキャスティング次第ということ。入社後の配属や異動を通じて、活躍する人、生き還る人をたくさん目にした体験は、今日に至るまで私の礎になっています」

同時に、どうやって人を組織にひきつけるか? どういう風にモチベーションを高く持って働いてもらうか? という表には出ない、見えない仕組み=「組織の成長エンジン」を体感し、その創り方を学んだ。「それがすべての仕事の基礎になっている」と樫野氏は語る。

転機は入社4年目に訪れた。いわゆる「リクルート事件」がきっかけである。事件は採用にも影響を及ぼし、内定辞退が相次いだ。

「こうなった以上、リクルート自身が事件について語る必要があるだろう」と、新卒者に向けて、メッセージパンフレットを作る企画に参加した。「これがすごく面白かった」という樫野氏は、その後リクルート全社におけるCI、イメージアップに携われるような仕事を希望し、東京へ異動。パンフレットの制作と並行して、全国の大学約30校を結ぶ衛星学園祭など、いくつかのイベントを手がけた。そこで俄然、クリエイティブの面白さに目覚め、編集部への転属を直訴。「キャンパスマガジン」誌の編集責任者となった。

同誌のコンセプトは、「紙媒体における双方向性の限界に挑む」。渋谷にイベント空間を持ち、すべての記事がイベント連動型で企画された。プランニングを学ぶための企画塾、アート・写真・演劇・音楽・映像の5部門で新しい才能を発掘するためのコンペティション――さまざまなイベントを仕掛け、紙と空間をミックスしたメディアプロデュースを経験し、その中で得た社外人脈は、貴重な財産になった。

「実は、編集部に異動願いを出したとき、上司に『あと半年で昇進なのだから』と引き留められました。しかし、私はやりたいことを先送りにはしたくなかった。出世が遅れてもいいですから、と言って選択した結果、有形無形のさまざまな財産を得ることができました。私は思うのですが、チャンスというものは案外、どこにでも転がっているものです。ただ、それを拾うには、常にアンテナを張り巡らし、漠然とでも何がやりたいかを考えていないとなりません。そして既得の『何か』を捨てる勇気が必要なのです」

福岡事業のコンサルから映像・電波のプロデュースへ

次なる転機も、また「事件」とともにやってきた。ダイエーによるリクルート買収劇である。当時のダイエーは上り調子で、福岡ドーム・ホテル・商業施設のいわゆる福岡三事業構想を打ち上げたところだった。ただし、ソフトビジネスを手がけるスタッフが社内にはいなかった。そこで、リクルートの人材に白羽の矢が立った。同社からダイエー福岡事業のコンサルティングスタッフとして任命されたのは5名。そのうちの一人が樫野氏だった。コンサルチームは異邦人の眼と命名された。福岡の人間でも、ダイエーの人間でもないよそ者が、どうやってドームを面白くするかがコンセプトだった。

福岡ドームでの野球試合は年間65試合しかない。残りの300日弱を何かのイベントで埋めないとドームの経営が立ちゆかない。野球のアジアカップや大物外タレのコンサート、その他イベント企画。九州周辺、アジアからの集客。ホテルのネーミングからフロアプランニングまで、紙媒体とは比較にならないスケール感の仕事に携わった。中内正氏の直轄プロジェクトだけに、会えない人はいないというぐらい自由に仕事をした。その一方で、ダイエーの人々といかに気持ちを合わせて、事業を成功させるかに時間を費やした。

「結局、中内さんを通じて、トップダウンでやっても、彼らのやる気はなくなりますよね。そんなやり方で失敗したら、『それみろ』と言われる。みんなが頑張ってくれないと、上手くいくものもいかない。だからこのプロジェクトの一番大事なところは、我々がよそ者じゃなくて、仲間だと思ってもらうことだった」

“樫野がプロデュースする仕事は頑張って売ろう”という思いを醸成し、力を合わせて成功させる。その結果が、“樫野が持ってくる仕事は何かいいぞ”という循環を生んでいった。

福岡事業が一段落すると、リクルート子会社のメディアファクトリーに異動となった。それまで未経験だった映像事業を立ち上げ、3年間で7本の映画をプロデュースし、十数本のビデオパッケージを世に送り出した。この時期は、銀座のコミュニティ・ラジオ局の再生を委託され、取締役を兼任しながら、電波メディアのプロデュースをも経験した。

「紙・空間・映像・電波とひとしきりメディアプロデュースに携わったところで、自分の中で一区切りができました。リクルートには38歳でのフレックス定年制という制度があり、あと11カ月待てば対象になれたので、これを期に自分で事業を興そうと思っていたのです。そんなタイミングでIMJの創業社長と出会い、後継者としての誘いを受けました」

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