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「社会は、技術だけでは変わらない」国産OS『TRON』を生んだ賢人、イノベーションを語る【連載:匠たちの視点-坂村健】

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プロフィール
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東京大学大学院教授 工学博士
坂村 健氏

1951年東京生まれ。日本を代表するコンピュータ・アーキテクト(電脳建築家)。純国産コンピュータ・アーキテクチャーである『TRON』の提唱者であり、プロジェクトリーダーとして知られる。現在は東京大学大学院で後進育成に携わるかたわら、執筆や講演活動も精力的にこなす。SF評論家、コラムニストとしての一面も。近著の『毛沢東の赤ワイン』(角川書店)が好評

「いつまでも、アメリカに“追いつき追い越せ”でいいはずがない。日本も独自のテクノロジーで世界に貢献しながら、覇権を取りにいく時期にきているのではないか。それが『TRON』をやろうと思ったきっかけでしたね」

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From TRONSHOW 2013
昨年12月の『第29回トロンプロジェクトシンポジウム』では、スマートフォンでの活用事例なども発表された

時は1984年。日経平均株価が初めて1万円の大台を越え、日本が経済大国への階段を軽やかに駆け上っていた当時、東京大学理学部情報科学科で助手を務めていた坂村健氏は、自ら思い描いた世界を実現すべく奔走を始める。

目指したもの。それは彼自身が“The Real-time Operating system Nucleus”の頭文字を採って名付けた、純国産コンピュータ・アーキテクチャー『TRON』による世界の再構築だった。

「あのころ、コンピュータの世界を席巻していたのはIBMの大型汎用機。日本のコンピュータメーカーの多くもIBMの互換機を売ることで業績を伸ばしていましたが、同時にアメリカで産業スパイ問題や知的所有権が取り沙汰されるようになっていました。こうした状況を見るにつけ、日本は経済的にも技術的にもある程度の水準まで来たのだから、アメリカの独壇場である大型汎用機市場にしがみつくのではなく、日本が得意とする自動車や家電という民生品寄りの分野に特化した組込みシステムに力を入れるべきではないか。そんな思いから、『TRON』プロジェクトの全体像を構想したんです」

惑星探査機『はやぶさ』にも使われたTRON系OS

今でこそ、手のひらのスマートデバイスで室内環境を自在に制御したり、数十キロ先の交通状況をカーナビでモニタリングしながら渋滞を回避することは、日常のひとコマになっている。

それが夢物語以外の何物でもなかった時代から、坂村氏はあらゆるものにコンピュータが組み込まれ、つながっていく“ユビキタス社会”を頭の中に思い描いていた。

「当時は『どこでもコンピュータ』と言っていましたが、そうした社会を実現するためには、これまでのように小さく、上手に、安く作ることだけに安住してはいけないと思ったんです。日本も世界で広く使われるインフラとなるようなテクノロジーを生み出し、早く次のステージに上がるべきだ。そんな思いもありましたね」

マイコンの進歩によって、従来はOSなしの直接プログラミングが主流だった組込みシステムでもOSの必要性が高まり、その需要に応える形で『TRON』プロジェクトは現実社会へ船出していく。

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まだ「オープンソース」という概念が一般に出回る前から、ソースコードの無料公開を実践していた

「TRONが目指していたのは社会インフラとして活用されることでしたから、メインユーザーである企業にとって使いやすい仕組みも併せて考える必要がありました。それで『TRON』にまつわるソースコードは、誰でも無料で使えるのはもちろん、改変を自由に認め、自分たちで工夫した部分については公開する必要がないことにしたのです。ここが今日、Linuxなどで採用されているGPLとの大きな違いですね」

改変した部分に知的所有権を認め、オープンにする必要がないことを明確に打ち出すことで、日々差別化にしのぎを削るメーカーにも安心して使ってもらえるはず。坂村教授はそう考えた。

だが、当時はバブル前夜。「金儲けこそが正義」という世相の中、当初はオープン&フリーというコンセプトがなかなか理解されなかったと振り返る。

しかし、やがて狂騒の時代は過ぎ、後に「空白の10年」と呼ばれる停滞期を通し、TRONは裏方として地道に普及していく。

組込みシステム向けのサブプロジェクトである『ITRON』と、その後継である『T-Kernel』によって制御される製品は、いまや自動車や家電製品にとどまらずデジカメや電子楽器、スマートフォンのような民生品にまでおよぶ。かつ、『はやぶさ』のような科学技術の粋を集めた小惑星探査機にも使われている。

リアルタイムOSの国内シェアは13年連続で60%超(2013年2月1日現在)。「世界は『TRON』で回っている」、と言っても過言ではない状況だ。

社会の要請に応えることで、現実に近づいてきたユビキタス社会

「最近はICタグを利用して、道路や洋服、食品や薬品のパッケージをネットワークにつなげようという試みも盛んになっています。もちろん、以前からこうなることは想像していましたが、構想が先行していた感じで、やっと現実的な普及がスタートしたと思います」

今も坂村教授のもとには、多様化、複雑化する社会状況を反映して日々さまざまな相談が寄せられている。中には思いも寄らない打診もあるというが、そうした要請にどう応えるかがプロジェクトリーダーとしての腕の見せどころだ。

「先に挙げた食品パッケージの例にしても、食の流通のグローバル化に伴い、自分が口にする食品に不安を覚える人が増え始めたことによって、初めて食のトレーサビリティが重要視されるようになりました。薬品も同様に、飲み合わせや処方ミスが人命を危機にさらすという懸念が社会の側にあったからこそ、それを解決する方策としてユビキタスコンピューティングの活用が検討され始めたわけです」

震災の経験を活かして動き出した『街角情報ステーション』

研究成果を社会に問うことで、おぼろげだった課題がぐっと明快になったり、思いもしない活用法を提案されて新たなイノベーションが生まれたりもする。ユビキタスコンピューティングの世界では、そういうことが頻繁に起こっている。

昨年11月、坂村教授が所長を務めるYRPユビキタス・ネットワーキング研究所が中心となって実証実験を行った『街角情報ステーション』も、そうしたスパイラルの中から生まれつつあるものの一つといえるだろう。
(次ページに続く)