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ゲームが人生のようなのか、人生がゲームのようなのか。(後編)【連載:川田十夢】

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前編では、ビデオゲームの起源と進化、コントローラーの変遷。つまり前史について考えた。後編となる今回は、偉大なるゲームクリエイターが築いた初期宇宙を巡り、現実とリアリティを直列でつなぐ次世代コントローラーの可能性について、いよいよ具体的に定義してゆく。

かざすしかないARも、入力窓しかない検索も、全部クソゲーでした。

新しい設計のコントローラーには、新しい定義のゲームが必要だ。かつて、十字キーとファミコンの組み合わせで考え得る最高のゲームタイトル『ドラゴンクエスト』を作った堀井雄二が、まだライター業を兼務していた1986年に、『こんなゲームがつまらない(ベスト7)』という見出しの文章を書いている。要するに、クソゲーの定義を自らの感覚で明文化しているのだが、いま改めて読んでみると、コントローラー部分を含むゲームソフトを設計する上での重要な掟のようにも読み取れる。1位から順に紹介してゆこう。

第1位:遅い
プレイヤーを、不用意に待たせてはいけない。
第2位:プレイヤーに無駄な手順を踏ませる
たとえば、新しいヒントを手に入れるたびに、一度話を聞いた町人全員からもう一度話を聞かないといけないというのは、いけない。
第3位:ゲームバランスが悪い
最初からゲームが難し過ぎてはいけない。ゲームの進展とともに、プレイヤーの習熟とともに、難易度は段階的に上げてゆかなくてはいけない。
第4位:ラストがあっけない
エンディングは、プレイヤーの苦労に応えるものでなければいけない。
第5位:ゲームに変化がない
単調ではいけない。ストーリーや、テンポや、クライマックスに変化を与えなければならない。
第6位:操作性が悪い
アクションゲームなのに色んなキーを使うとか、RPGで使うキーの位置がバラバラとか、あってはならない。ゲームそのものの面白さに集中できない。
第7位:絵が下手
とくにアドベンチャーなんか、絵(グラフィック)が下手だとやる気がしない。

解説を加えるうちに、なんだか具合が悪くなってきた。だって、かざすしかなかったARも、入力窓に入力するしかないインターネット検索も、全部クソゲーの定義にぴったり当てはまるからだ。処理能力がどうとか、通信速度がどうとかは、全く言い訳にならない。クソゲーの定義を明文化した堀井雄二は、8ビットのCPUと1Mbitのロムカセットというファミコンのロースペックで、あの名作ドラゴンクエストⅡを完成させたのだから。

ドラゴンクエストがクソゲーにならないように、堀井雄二が考えたこと。

低い処理能力で、高いゲーム性を確立させるには、それ相当の具体的な問題解決が必要だ。堀井が一体どんなアイデアでロースペックの壁を越えたのか。著作から読み解いてみた。まず、コマンドの発明がある。いまでは当たり前になったRPGに於けるコマンドの存在だが、堀井雄二が発明するまでは存在しなかった。厳密にはドラクエではなく、堀井がドラクエ以前に手掛けたアドベンチャーゲーム『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』で初採用されたものだが、これがなければ、ドラゴンクエストは確実にクソゲーになっていただろう。学生時代からの友人で、のちに桃太郎電鉄を生み出すことになるゲームクリエイター、さくまあきらの「いちいち文字を入力してゲームを進めるのは面倒くさい」という、非パソコンユーザーからしたらごくごく真っ当なアドバイスがきっかけとなった。

ゲームの続きを楽しめるようにするよう、単なるパスワードを『ふっかつのじゅもん』と名付けたのも、プレイヤーをただ待たせないという意味で、重要であった。ドラクエⅠで悪かった操作性を、ドラクエⅡで修正したのも大きかった。Ⅰまでは、「話す」たびに方角を「東西南北」から選ばなければならなかった。Ⅱからは、プレイヤーが向いている方向の先に、話し相手がいるものとした。

そして、何よりも驚くべきはシリーズ冒頭の設定である。王様と勇者がいる部屋から、ドラクエは始まる。RPGでまだ遊んだことがないプレイヤーは、何をどうしたらいいのか分からない。発売前のデバッグの段階で、そのような声が多数寄せられた。堀井はそれを受けて、扉をあけたり、話をきいたり、鍵をつかったり、最初の目的を知ったり、一通りのことを覚えないと、部屋から出られないようにした。

無論、いままでゲーム製作の現場に名前が挙がってこなかったような鳥山明やすぎやまこういちといった豪華な面々が、製作に参加したのも大きかった。鳥山明のキャラクターデザインは、ファミコンで表現出来るレベルにまで単純化したドット画でも十分魅力的だったし、すぎやまこういちの音楽は場面を単調にしない工夫に溢れていた。

こういったアイデアとキャスティングの積み重ねによって、ドラクエシリーズは絶妙なゲームバランスを保ってきた。堀井は自ら律したクソゲーの定義を、マホカンタの呪文を唱えるでもなく、見事に跳ね返したのだ。

検索はなぜ使われ続けるのか?セカイカメラは何故終わったのか?

クソゲーの定義を、改めて身近なインターネット/アプリ文脈になぞらえてみる。まず、ネット検索。ゲームシステムの歴史でいうところの、ドラクエ以前の入力形式に頼っているのに、未だに世界中で使われ続けている。この理由は何だろう。それは、ゲームではなく道具として必要不可欠だからである。ゲームでいうソフトに当たる部分は、いわゆる検索結果で補完されている。情報は常に新しくなり、民主的な根拠で優先順位を与えられている。ネット検索そのものがゲームでなくても、面白くなくても、検索という特化した機能が使えていれば、問題にはならない。むしろ、道具にいちいち物語やゲーム性が付随していたら、邪魔なだけである。

セカイカメラはどうだろう。2009年12月31日のローンチ以来、世界81カ国で展開、ダウンロード数が300万DLを記録するなど、一世を風靡したヒットアプリであったが、失速。2014年1月22日をもって、全サービスを終了した。ネット検索のように、道具化して面白くなくなっても生き残る術はあったように思える。しかし、セカイユウシャや様々なプロモーション施策など、用途と内容を求められるまま総意的にした結果、道具として使えないものに、全体としてつまらないサービスになってしまった。エアタグと呼ばれる人間の意識が剥き出しになった世界は、ノイジーで玉石混淆な、インターネットの悪い特性を可視化するに留まった。

セカイカメラ、名作とクソゲーの分岐点。

ARという概念を、広く世界に周知した最初のサービスであるセカイカメラの失敗。AR三兄弟という名前の開発ユニットを現役で続けている身としては、無視できない。堀井雄二のクソゲー定義に準えて、もう少し掘り下げてみよう。

セカイカメラを利用した最初の印象は、「重い」だった。初期のウェブサービスの多くが負荷分散との戦いになるのだが、セカイカメラも例外ではなかった。セカイカメラを始めるために会員登録しなくてはならないのも、ダルかった。これは総じて、プレイヤーに無駄な手順を踏ませるということだった。最初から何をしたらいいのか分からなかったし、習熟するうちに覚えてゆくフィルタリング機能は、最初からTwitterやFacebookなどを使えば済む話だった。つまり、ゲームバランスが悪かった。プレイヤーからするとどうでもいい、キャンペーンに巻き込まれる場面が多いのも、けして心地よくなかった。一般の人の、一般的な感覚だけを可視化するのでは、どうしてもワンパターンになってしまう。もっと、かざさないと明るみにならないような特定の人間の感覚こそ、可視化するべきではなかっただろうか。そもそも、かざすという行為に頼った操作性はどうだっただろうか。スマホのカメラで景色をみながら、通常のアプリケーションのようにすいすい操作できるほど、人類は器用ではない。加えて、街中でスマホをかざす行為は、不審者と間違えられないかどうか、ひやひやである。基本操作で、プレイヤーをひやひやさせてはいけない。苦労して投稿したり可視化したりできるエアタグも、けしてかっこいいデザインではなかった。そして、唐突のサービス終了。ラストがあっけない。つまり、クソゲー7原則全てに、うっかり当てはまっていたことになる。

第一人者の辿る道程は、つねに過酷である。ARという新しい考え方と操作性と世界観を、すべて同時にローンチして全世界に浸透させた功績は大きい。しかし、そんなことは、プレイヤーにとっては何の関係もない。おもしろいゲームは名作として残るだけ、つまらないゲームはクソゲーとして淘汰されるだけ、道具として使えそうであれば恒久的に使われるだけ、なのだ。

AR三兄弟はまだ、クソゲーにもなっていない。

僕はAR三兄弟として、300を越えるプロトタイプを設計してきた。忘年会のネタとして披露したもの、テレビを拡張するもの、映像作品として上映したもの、広告として流通したもの、展示作品として発表したもの、まだ要素技術に過ぎず発表のタイミングを待ちつつ特許だけ取得したものなど、多岐に渡る。しかし、ゲームとして発表したものは、まだひとつもない。AR三兄弟の見た目の雰囲気としては、クソゲーの名作として名高いサンソフトの『いっき』に最も近いのだが、実際問題としてゲームタイトルを一度も発表していない以上、まだクソゲーにもなれていない。

たとえば、AR三兄弟がやっているようなネタを追体験できるゲームはどうか。大学ノートから鳩を出したり、眼からビームを出したり、手紙に貼った切手から動画を呼び出したり、実空間で身体を使って検索したり。確かにおもしろくて便利なのだが、これまでのゲーム史からしたら、ゲームとは到底呼べない代物である。

一方で、まるで新しい無限の可能性も感じている。たとえばAR三兄弟ではない憧れの誰かになれるとして、そのまま数時間遊べるとして、経験値を体内に残したまま普段の生活に戻れるとしたら、どうだろう。会いたい人に本当に会えたらどうだろう。一度でもいい。あの小説の中で集まれたら、ゲームを越えたことには、ならないだろうか。カラオケの次に当たる、新しい遊びを発明したことにならないだろうか。

現実というゲームの背景には、場所と時間と気候。つまり季節がある。

現実とゲーム、決定的に違うことがある。それは「ままならない」ということだ。林檎も猿も、木から落ちる。ヒントを教えてくれる町人をプログラムしたところで、人件費が膨大にかかる。一度過ぎ去った時間は戻らない。時間を止めることもできない。人間はまだ、簡単に空を飛べない。どこでもドアで、瞬間移動することもできない。超能力で物体を浮かすことができない。透明人間になる薬も、まだ発明されていない。ままならない。

ままならないことは、けして悪いことばかりではない。言い方を換えると、「重力と時間と物理演算と経済が、デフォルトで厳密にインストールされている状態」である。「ままならなさを新たに定義しなくてよい」状態だとも言える。現実空間では、ボタンを押したか押してないかの判断を、コントローラーを介せずとも肉体を通じて脳までダイレクトに知らせることができる。視覚と聴覚を通じたリアリティの記録と再生についてようやくわかってきたものの、味覚・触覚・嗅覚に関するリアリティについては、まだまだ研究段階である。現実では、最初から肉体にゲームの外部センサーが搭載されているようなものであるから、研究段階の三つの感覚についてもセンシング可能である。加えて、幸運にも、現実では時間が均等に流れている。何人プレイヤーがいようが、個別の時間制御は不要である。パラレル構造の複雑な分岐プログラムを、ゼロから組む必要がない。

世界人口と同じだけのプレイヤーが参加するゲームの準備は、すでに整っているのかも知れない。あとは変わりゆく季節を背景に、何を移植するか。どんな設定を与えるか。ワンパターンにならないような驚きをどこに配置して、ラストステージには何が待っているのか。人生について考えるように、その都度、考えてゆこう。

AR三兄弟の微分積分、いい気分。

AR三兄弟・長男 川田十夢(@cmrr_xxx

1976年熊本県生まれ。1999年メーカー系列会社に就職、面接時に書いた『未来の履歴書』の通り、同社Web周辺の全デザインとサーバ設計、全世界で機能する部品発注システム、ミシンとネットをつなぐ特許技術発案など、ひと通り実現。2009年独立。開発者、そしてAR三兄弟の長男としての顔を持ちつつ、ユニークな文体で作家としても活動。2013年、情熱大陸 出演。編集者 佐渡島庸平と発明マネジメント会社トルク設立。作・演出・開発をつとめる舞台『パターン』を成功させるなど、ふたつの意味で活躍の舞台を拡張している。http://ar3.jp/