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近未来の窓から、こんにちは。【連載:川田十夢②】

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AR三兄弟の微分積分、いい気分。

AR三兄弟・長男 川田十夢(@cmrr_xxx

公私ともに長男。日経BP社より、『AR三兄弟の企画書』絶賛発売中。TVBros.で「魚にチクビはあるのだろうか?」を隔号で、ワラパッパで「シンガーソング・タグクラウド」を、好評連載中。3月11日発売のWIRED vol.7で、『近未来は今』を具体化する内容の記事が4ページにわたって掲載されています。オフィシャルブログはこちら

どんな職業であれ、最初に世界に触れる時には、挨拶から始めなければならない。”Hello World.”。この言葉の中にある「World=世界」、これをどう定義するかによって、世界との接点が変わってくる。今回は、そういうお話。

十夢は整数の夢を見る、スリ夫はスリをはたらく。

名前は、プログラムでいうところの変数のようなもの。だから、命名された時点で、自動的にデータ型が決まってくる。渡せる値の範囲も限定されてくる。僕は、夢のある名前を与えられたから、夢みたいなことを口走っても許される。

例えば、名前に金が入っている「金太郎」だったら通貨型(Currency)になってお金のことばっか考えていただろうし、「真太郎」だったらブール型(Boolean)になって何を見ても真か偽かばかり気になっていたに違いない。

「0.1太郎」だったら、データ型が単精度浮動小数点型(Single)になって大変だった。「万が一」という何気ない表現でさえ、「1000が0.1」みたいに翻訳しないと落ち着かない。周囲も10倍、気をつかう。歌舞伎役者が名前を襲名する度に「ああ、元勘九郎が勘三郎になったということは、0.9が0.3になったということだから、0.6減ったのか。0.6減ってお客さんが1.8倍増えたのだから、襲名というファンクションには1.2倍の集客効果があるということだな」と、無駄にややこしい毎日を送るしかない。整数の夢がある名前でよかった。

最初に覚えた言語は、文学でした。

プログラム言語を覚える前に、誰しもまずは「言語」に触れるはずだ。狼に育てられた少女みたいに、プログラム言語に育てられた少年は、まだ発見されていない。僕の場合、偶然にも日本語を話す父親と母親に育てられたため、最初に触れた言語は日本語だった。

人と接するのが得意じゃなかったので、触れる言語は紙に記述されたものが多かった。いわゆる本というやつだ。具体的にいうと文学全集という名前のついたやつ。記述された言語が時を越えて、場所を越えて、人間の頭の中で再生されるやつ。

安部公房は無機質の中に人間感情の有機を潜ませるやり方を教えてくれたし、ジョン・アーヴィングは現実を根拠にする物語の分岐(悲劇と喜劇。あるいは、どちらにも属さないもの)について教えてくれた。そういう言語を、僕は最初に覚えた。

物語という物語に、介入。作家という作家が、ライバル。

最初に覚えた言語が文学だったおかげで、良かったことと悪かったことがある。

良かったことは、あらゆる作り事の世界が、他人事ではなくなったということだ。物語の中に没入できるので、登場人物の心情だとか波瀾万丈だとか平々凡々が他人事じゃない。同時に、主人公に失望を与えたり、人を裏切らせたり、それを記述しなくてはならない作者の気持ちも、他人事じゃない。とにかく、物語という物語が、他人事ではなくなった。

悪かったことは、物語のもつ力だとか作家の才能だとかに、不意に打ちのめされてしまうことがあるということだ。こんなにユニークな作家がいるのなら、もう僕の役割は残っていない。来世に期待するしかない。でも、死にたくない。そんな、自分本位な葛藤が常につきまとう。これは、今の僕の職業を考えれば、一概に悪いとは言えないが、一概に良かったとも言えないことだ。

ドラえもんで一番感情移入したのは作者、藤子・F・不二雄先生。

物語の筋よりも、作者がどう悩んで物語を書き下ろしたのかが、いつも気になっていた。だから、例えばドラえもんにしても、一番気になっていたのは他でもない。作者である藤子・F・不二雄先生の存在だった。

ドラえもんのアプローチは、じつに単純明快。フラットに続く日常、あんなこといいな、できたらいいなを、ひみつ道具の名前と形で具体化する。名前はデータ型に似ているという話を冒頭に書いたが、このひみつ道具の命名法も、まさにデータ型の宣言だと言える。

「どこでもドア」は、場所に関してはどんな値を渡しても受け取ってくれる安心感がある。しかし、ドアである以上、ドアが開かない場所では使えない。漫画とかアニメーションとか、現実離れした世界に於いても、現実とどこかつながったニュアンスを、名前によって担保することができるのだ。

読者からすれば、ひみつ道具を使ってもうまくいかないことは、もはや他人事じゃなくなる。物語に没入するすべての子供たちにとって、共通の問題となってくる。ただの空き地が空き地じゃなくなる。ズルをして宿題を済ませても、どこか居心地が悪くなる。ひみつ道具には、物語の中の問題を解決させるだけではなく、現実に潜む普遍的な問題を喚起する機能がある。

子供たちは、物語の中で近未来を経験することで、ただ楽をするだけではうまくいかないことを学ぶ。こんな物凄い物語構造を発明した藤子・F・不二雄先生は、一体どんな本を読んできたのだろうか。

いろんな文献を漁るうち、F先生が相当のSFマニアであることが分かった。ドラえもんはあくまで子供用に描かれたアイデアSFであって、かなり気をつかって書いているということ。SF短編シリーズは完全に大人向けに書いているから、まったく気をつかっていないということ。が、分かった。

大人でありながら、子供のことを気遣いながら、大人の嗜(たしなみ)も継続していた。なんてかっこいいんだ。僕のドラえもんに対する興味は、すなわちF先生への憧れでもあった。

虚と実の間に存在する、拡張現実シアター。

自分が作った物語を読者に届けたければ、小説家になればいい。原作のあるゲームを作りたければ、プログラマーになればいい。作家と話をしたければ、記者か編集者になればいい。

僕は、物語に介入したいし、登場人物とも作家とも話がしたい。かなうならば、物語にも作家にも影響をフィードバックしたい。だから、AR三兄弟を作った。公私ともに、長男になった。

ドラえもんの話が出たから、最後に大山のぶ代さんと一緒に作った『近未来は今』を上映した時の話をしよう。

近未来は今 from ar3bros on Vimeo.

ご覧いただいたように、これはホログラフィック作品である。上映する間、僕はずっとスクリーンの向こう側にいた。

観客席とステージの間にある透明のシートは、肉眼では確認できない。反射鏡の原理で投影された映像は、空中に浮かんでいるように見える。驚きの表情を見せる観客たちを、僕はスクリーンの向こう側から眺めていた。

それはまるで、近未来の窓から、現代を眺めているようだった。もっと言うと、クラシックな昭和の映画を観ているようであったし、クラシックな昭和の人たちから観られているようでもあった。

物語の向こう側と現実の境界を行き来しているものの実感。芸能人とかタレントとか呼ばれている人にも、カメラの向こう側からの景色が見えているはずだが、ちょっと違う。自分が作った世界の中に、登場人物として飛び込む。そこから現実を直視することで、初めて見えてくることがある。

世界との接点は、視点でもある。

虚と実を行き来するものとして、感覚的に理解できないことがある。モーターショーとかで流れるコンセプトムービーだ。あれ、何であんなに白々しいのでしょうか。きっと、実現させるつもりも、責任もないからなのでしょうね。

要するに、現実に連なる痛覚も重力も存在しない。遠いだけの未来を描いている。何しろ、映像が綺麗過ぎる。街ゆく人々も、何か変な服を着ている。車体が何かキラキラしている。ボディカラーなんかも、その日の気分で変えられる。だから一体何だというのだ。藤子・F・不二雄先生が発明した、現実との同期をはかる方法を、なぜ使わないんだろう。せめて、新しい機能を使う必然を潜ませて欲しい。

メーカーとしての理想だけを掲げて、それをコンセプトにした車が登場して、わくわくするはずがない。車メーカーは、車そのものの性能だけではなく、ドライブするという体験ごと拡張するべきだ。それを受け入れる街から設計すべきだ。これから新しい物語を生み出そうとする作家たちに、ヒントを与えるべきだ。

拡張現実シアターの幕は、まだ下りていない。僕が定義した「World=世界」は、未来とつながっている。