仕事の達人

株式会社ライブドア
代表取締役社長
出澤 剛 氏
profile
1996年に早稲田大学政治経済学部卒業後、大手生命保険会社に入社。2002年、ライブドアの前身であるオン・ザ・エッヂに入社し、2004年執行役員副社長モバイル事業担当に就任。2006年6月、上級執行役員メディア事業部長に就任。2007年4月、旧ライブドア(現ライブドアホールディングス)から分社独立した新事業会社ライブドアの設立に伴い、代表取締役社長に就任
負の遺産を克服し、会社を再生に導いた新生ライブドアの若きリーダー
2007年4月、ライブドアは、メディア事業とネットワーク事業を統合した新事業会社に生まれ変わった。その代表取締役社長として立て直しを託されたのが、出澤剛氏である。大手生命保険会社を経てライブドアの前身であるオン・ザ・エッヂに入社。ライブドアの急成長と事件後の混乱の中で、何を学び、どう逆境に立ち向かったのか。
2007年4月、旧ライブドアのメディア事業とネットワーク事業を統合した新事業会社、ライブドアが設立された。
プロ野球球団買収やフジテレビとの攻防戦に端を発し、日本経済界に激震をもたらしたライブドア事件=Bその傷も癒えない中、新生ライブドアの舵取りを託されたのが、出澤剛氏である。
大手生保の営業を経てオン・ザ・エッヂ(ライブドアの前身)に入社。モバイル事業を高収益ビジネスに育て上げ、事件後は事実上のリーダーとしてライブドア・ブランドの復活に尽力してきた。
「私の場合、立派なキャリアストーリーは何もないんです。成り行きで、いつも誰かが『お前やれよ』と背中を押してくれました」
そう語る出澤氏は、強烈な個性で知られた元社長・堀江貴文氏とは対極にある。人の目を見て、じっくり丁寧に話す口調。着実でストイックな人柄は、まさに新生ライブドアの象徴といえるだろう。そんな出澤氏を、ある社員は「付いていこうと思わせてくれる人」と評する。社員に寄せる信頼が、そのまま社員からの厚い信頼となって返ってくる。出澤氏の強い求心力の源は、あくまでも自然体の彼独自のスタイルにある。
大手生保で体得した「営業」と「マネジメント」
1996年、早稲田大学政経学部を卒業。
「学生時代はのんべんだらりと麻雀ばかりやっていた。ゼミも取らない『ゼミなしっ子』と、ダメな学生の烙印を押されていましたね」
卒業後は「給料が良くて仕事が楽そうな」大手生保に入社。だが、甘い幻想は新人研修で早々と打ち砕かれる。研修では親類や友人を片っ端から回り、保険の契約を取ってこなければならない。和気あいあいとした研修所は、一転して同期の友人たちとノルマ達成を競う修羅場と化した。
1年間の研修が終わると支社で4年半、西東京エリアを担当。法人営業や新人セールスレディー向け研修のトレーナーを務めた。
「つらかったですね、ノルマの点でも人間関係の点でも……。個人事業主のスーパー営業ウーマンは、『このトレーナーは使えるか使えないか』という観点でしか評価してくれない。最初はなかなか売れず、とてもシビアな状況でした」
だが入社2、3年が経過したころ、出澤氏は営業のコツを体得する。トークの間合い、事前の情報収集、決断を迫る積極性。さまざまな経験値の積み重ねがブレークスルーをもたらし、それからは簡単に契約が取れるようになった。
さらに、組織マネジメントという点でも学ぶことは大きかった。古参の営業ウーマンをまとめていくためには、まず自分自身が相手に利益を与え、信頼を勝ち得なければならない。厳しい保険営業の現場でマネジメントの本質を体得した出澤氏は、いつしか約60人の営業チームをまとめる実質的なリーダーとなっていった。
転機が訪れたのは入社5年目のことだ。異動を待ち望んでいた出澤氏は、「営業から抜け出す裏技として」社外留学制度に応募。留学先の一つであったオン・ザ・エッヂに1年間の予定で出向した。
ここで出澤氏は運命的な出会いを経験する。堀江氏ら強烈な経営陣にも増して印象的だったのは、優秀なエンジニアの存在だった。同社CTO池邉智洋氏や米国シックス・アパート社で活躍する宮川達彦氏と出会ったのもこのころだ。
「いったんスイッチが入ると、彼らは3日ぐらいでシステムを作り上げてしまう。新しいものを創ろうという志に満ち、それでいてクールでさらりとしている。彼らと一緒ならでかいことができるかもしれない、そう思ったんです」
同時に、新しいメディアとなり得るインターネットサービスの可能性にも魅了された。根っからの文系人間であった出澤氏にとって、それは自分が本当に打ち込めるビジネスとの出会いでもあった。

