いち社員時代に、「偶然の出会いをチャンスに変えた」秘訣とは  

経営トップが語る「私を変えたあの出会い」

経営のポジションで活躍するトップたちは、どのような出会いを活かしてビジネスを成功に導いてきたのだろうか。第一線に上がるきっかけとなったエピソードから、「組織の中で偶然の出会いをチャンスに変える能力」を明らかにしていく。 《2006年6月号より抜粋》

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日本アイ・ビー・エム時代の仲間、そしてSAP時代のある上司との出会いが、松林亮氏のキャリアチェンジを後押しした。2つの出会いがなければ、現在の副社長というキャリアはなかったに違いない。

松林氏は1989年、日本アイ・ビー・エム入社し、汎用機を使ったシステム開発部門に配属される。入社3年目で、製造業向けのソリューション開発提案部門に異動。開発SEとしてのキャリアを積み重ねていた。

20代後半のとき、最初の転機が訪れる。当時の情報システムの世界は、汎用機型からクライアントサーバ型への変革期にあり、社内にクライアントサーバ本部が新設されたのである。松林氏は自ら社内異動を希望し、新組織の一員に加わった。

新しい組織には、社内の各部署から様々なバックグラウンドを持ったチャレンジ精神あふれる人材が集結していた。

「大企業の枠におさまらない、変化に対して柔軟な人が大勢いました。彼らを仕事やキャリア上のベンチマークと考え、良い部分を採り入れたいと思っていました」

そういった昔のよき同僚達との交流は現在まで続いている。松林氏はなるべく自分から呼びかけ、集まる機会を設けているからだ。彼らの中には、その後、「転職や海外留学、起業した人が多い」と言う。

そして松林氏も、96年に伸び盛りのSAPジャパンに転職した。大企業に残る同僚らからは「やめたほうがいい」との意見が圧倒的だったが、エンジニアとして成長できる環境に移る決断が鈍ることはなかった。


上司の事業部長から 支社立ち上げを任される


ERP市場が拡大を続けるなか、松林氏は自身の転機となるもう一つの出会いを経験する。

30代半ばを迎えたとき、会社が九州支社の設立を決め、松林氏はその立ち上げメンバーに自ら手を挙げた。設立後は当然、九州支社長を務めることになるのだが、当時コンサルタントだった本人は、「実はマネジメント層に進む気はなかった」という。家庭の事情などにより、「九州で仕事をすること」が志願した主なの理由だったのだ。

マネジャー経験こそあれ、強烈なマネジメント志向があるわけではない。初めて部下についた上司の事業部長はそうした事情を知りながらも、松林氏に支社設立とスタートアップに関する全権を与えた。オフィスの選定から人材の採用、顧客開拓に至るすべてを「全部自分でやれ。ただし、週に1度の報告は厳守」と送り出してくれたのである。

部下に全部を任せた上司ではあったが、必要なフォローも忘れていなかった。支社設立の直後、地元のパートナー企業、九州エリアの重要顧客数十社を紹介してくれたのだ。九州Uターン組中心の支社スタッフと一致団結してスタートアップに取り組んだ結果、支社長在任中の3年半で、当初計画以上の業績を上げることに成功した。


自分も部下も 役職が人をつくるを実践


「役職が人をつくることがあると実感しました。同じ目標と方向性を共有した上で、環境と権限を与えて任せると人が育ち、結果として組織も成長する。マネジメントに目覚めるきっかけになりました」

その後、松林氏は約10年間勤めた会社を退職。06年1月、さらなる成長と進歩を求めてIDSシェアー・ジャパンに副社長のポジションに就いた。

同社の親会社であるIDS Scheer AGは、ビジネスプロセスエンジニアリングに焦点をおいた製品・サービス、コンサルティングを提供。世界70カ国に支社またはパートナーの拠点を持ち、約6000社の顧客を有する。

IDSシェアー・ジャパンの社員数は約60名で、ビジネスと組織拡大の過程にある。松林氏はトップの右腕として直接リーダークラスのマネジメントを担当するほか、組織全体の管理・運営にも関わる。

「今は自分が見られる範囲のマネジメントがメインですが、大きな権限を与えられているので、早く会社と人の成長拡大に貢献したい」と語る。

松林氏のマネジメントスタイルはやはり、「役職が人をつくることがある」が基本。必要な報告を求める代わりに仕事は任せ、指示よりはアドバイスを重視する。マネジャー人材の発掘に関しても、本人の志向やプレイヤーとしての実績、経歴などに捉われず、「一度はチャレンジさせてみたい」という。

その中から、かつての松林氏のような人材が誕生しても、不思議ではない。




「セールスBPO」という独自の手法を武器に、営業のアウトソーシングサービスを提供するブリッジインターナショナル。セールス&コンサルティング事業本部長を務める日高滋氏は、日本アイ・ビー・エムから日本シーベル、アドビシステムズを経て、2005年より現職に就いている。

日本アイ・ビー・エムに入社後、30歳までSEとして働いていた日高氏。彼にとって、自分を営業へ引き抜いてくれた、当時の営業部長との出会いは大きな転機となった。

「声を掛けられた時、正直いって迷いました。私が所属していたのは、大手都銀を顧客とする部署。当時は銀行の合併が加速し、市場は縮小しつつあった。そこで営業をするのは辛いのではないかと考えました」

そんな日高氏に営業部長が言ったのは、「何ごとも経験だ」というひと言だった。自身もエンジニア出身だった営業部長は、迷っている姿を見て「いろいろやってみないと、自分の資質は分からないものだ」と話したという。その言葉が正しかったと知るのに、それほど時間がかからなかった。人と会う機会が増え、すぐに営業の楽しさを実感するようになった。その営業部長は、日高氏いわく「戦略的な部分と、人間的なあたたか味を兼ね備えた人物」。

「彼から学んだのは『逃げない』ということ。ご本人も、常々そのことを自分に課していると言っていました。その後、どんなにプレッシャーのかかる状況になった時も、その言葉がずっと私の中にありました」

日高氏は、ほどなく営業としての頭角を現すようになる。銀行がIT投資を控え始め、パソコンなどのハードウェアを売る営業としては厳しい時代。そこで日高氏は、個人向けローン会社との共同事業を企画し、銀行に持ちかけたのだ。不良債権を抱え、小口の貸し出しを増やしたいと考えていた銀行に、この新規事業はピタリとはまった。最終的には、その都銀とローン会社を引き合わせ、新会社を設立させた。当然その立役者である日高氏のもとには、パソコンの納入やシステム開発の発注が舞い込むことに。

「単にものを売るのではなく、組織が持つ“人・モノ・金”を使えばより大きなビジネスを手掛けることができる。この時に、仕事は自分で作り出すものだと気づきましたね」

自分の可能性を広げた日高氏は、日本シーベルやアドビシステムズでも営業部長として実績を残す。そして現在の会社でも、新たな出会いが待っていた。

「電話による非対面営業を行なう職種があるのですが、その多くが若く、営業未経験者たち。私がこれまで仕事をしてきたのは、大企業でトレーニングを受けた人たちばかりでしたから、それに比べれば彼らは素人に近い。でも、とても一生懸命だし、『どうすればより良い仕事ができるか』という意見を持っている。皆と話をするうちに、私も一緒に頑張っていきたいと思いましたね」

いくつもの出会いをきっかけとして、現在のキャリアを築いた日高氏。だが、「劇的な出会いを求めるより、日々の出会いを大切にするべき」と若手にアドバイスを送る。

「損得勘定で人とつき合うのもやめたほうがいい。自分というものを持っていれば、誰と会うこともプラスになるはずだと思いますよ」




バブル絶頂期に中堅不動産会社に入社し、社長秘書やバブル崩壊後の不良債権処理を経験。その後、紆余曲折を経て不動産会社イントランスを創業した。不動産と金融を融合させた新たなビジネス領域を開拓する業界の風雲児、それが上島規男氏である。

「会社をゼロから立ち上げるのは大変なこと。不動産仲介から、自力でビルが売買できるまでがどれほど大変か」と上島氏。それを可能にしたのは、彼の不屈の情熱と、優れた経営者たちとの出会いだった。

子供の頃から偉人の伝記を読むのが好きだったという上島氏。神戸大学在学中には学生企業団体の代表として、イベント企画やスポーツクラブの共同経営などを手掛けていた。そんな折、ある会で大手人材派遣会社創業社長(当時)と出会ったのを機に、本格的なベンチャー経営者の道を志す。将来の独立を目指して中堅不動産会社に就職。入社早々、秘書課のメンバーに抜擢され、創業社長の間近で薫陶を受けることになる。

「創業社長はバブルの絶頂期にアメリカの経済誌『フォーブス』で上位ランキング入りしたほどの億万長者で、時代を象徴する経営者の一人だった。本当に輝いていましたね」

ある時、創業社長に「会社経営の秘訣を教えてください」と頼み込んだことがあった。

「大事なことは知恵・信用・忍耐の3つ。会社がどんな困難に直面しても、知恵を使って考え抜けば乗り切れる。時には逆風が吹くときもあるが、すぐ投げ出さずに耐え忍び、最後には必ず信用を勝ち取りなさい」。それが創業社長の答えだった。

忘れられない体験もあった。秘書は経営陣がゴルフに興じている間、ゴルフ場の運転手控え室で待たなければならない。「これは仮の姿だ。俺はカバン持ちをやるために生まれてきたはずではない――」。創業会長から受けた薫陶と、秘書として味わった屈辱感。この二律背反する思いが、その後の上島氏のバックボーンを形作ったといっても過言ではない。

39歳での独立を目指して着々と開業資金も貯めていた上島氏。だが、ここで思わぬ誤算が生じた。連帯保証人になっていた父の会社の倒産で、多額の借金を背負い込んでしまったのだ。平日はサラリーマン、週末は引越しのアルバイトをしながら借金を返済する日々。そんな中で再びコツコツ貯めた1000万円を元手に起業を果たす。

だが起業後も道は平坦ではなかった。融資が受けられないなど辛酸を味わったが「知恵・信用・忍耐が大事」と自らに言い聞かせて耐え抜いた。会社の利益を着実に積み上げ、5年後には資本金が5000万円に。それが信用となって融資も増え、不動産売買を手掛ける第二の創業期≠迎えることができた。

経営者として確実に夢に近づきつつある上島氏。だが若いうちは、会社組織の中で経験を積み、様々な人と出会うことも大事だと語る。

「コロコロ職場を変える人は信用されない。まずは一つの会社でやってみるべき。そして、夢を叶えるためには目標を立てることです。目標ができればそこに道ができる。あとはその道を迷わず歩いていけばいい」

Intelligence(知恵)、Trust(信用)、Perseverance(忍耐)を組み合わせた社名に、人生を変えた出会いのエッセンスが凝縮されている。

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