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青木 宣親 |
あおき・のりちか 1982年生まれの25歳。早稲田大学卒業。2005年にセ・リーグ初の200安打を達成し、新人王のタイトルを獲得。
積極的な打撃と、50メートル5秒台の俊足を活かした内野安打が特長 |
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変化することが僕のこだわり、
上を目指すことが進化のはじまりなんです
今季でプロ4年目を迎える東京ヤクルトスワローズの青木宣親外野手。プロ2年目の2005年には、イチロー外野手(シアトル・マリナーズ)が1994年に記録した210安打に迫る202本の安打を放ち、「リーグ最多安打」に「首位打者」、そして「新人王」のタイトルを獲得した。3年目の昨シーズンは、前年の活躍を評価されWBC日本代表メンバーにも選ばれ、ペナントレースでは、またしても「リーグ最多安打」に輝き「盗塁王」の称号も手にした。進境著しい25歳である。
社会的な位置づけで見れば、25歳はキャリア構築の真っ只中。または、試行錯誤を繰り返し、適所を求めて駆け出したところか。だが、青木は年を重ねるごとに確実に足場を固め、とてつもない早さで前進している感がある。しかし、そんな華々しい印象の裏には、「アマチュアで1回、プロで2回。壁というか、転機がありました」と3度の試練があったと明かす。
宮崎県に生まれ、高校まで地元で過ごした青木。その後は早稲田大学に進み、念願の野球部に入ったが、「阪神に入団した鳥谷敬などがいたんですが、周囲は高校時代から名のある選手ばかりで、体格やバッティングの完成度、肩の強さなど自分と全く違いました」と周囲と自分との間にある大きな差をいきなり突きつけられた。
だが、「僕は高校時代練習をしていなかったので、逆にここからやれば伸びしろは十分にある。考えるよりもまずは行動を起こさなくてはいけないと思いました」と現状を素早く整理。続いて過去のマイナス面も分析し、入学当初から怪我に見舞われることが多かった体を、一から作り直すことに取り組んで、練習量も増やした。結果、大学3年のリーグ戦では首位打者を獲得。早稲田大学野球部の優勝にも貢献した。
卒業後の2004年は、現在の東京ヤクルトスワローズへと歩みを進めるのだが、1年目の最初に出たオープン戦で1本もヒットを打てず2軍行きを余儀なくされた。だが、青木の自己を分析するアンテナはどんな状況でも、どんな場所でもフル回転する。
「最初は、『俺、本当に落ちたな』と思ったんですが、『あきらめるな』と言い聞かせてとりあえず、バットを振り続けました。沢山の人の話にも耳を傾けました。2軍でもすごく打っている選手がいると、年齢とか関係なく質問をしました。『どういう感覚?』『何で強く振れる?』と、何でもいいから自分が疑問に思ったことを聞きましたよ。そして、試す、ダメだったら捨てる。その繰り返しをしていったんです」
成果は数字となって現れ、青木はイースタンリーグの「首位打者」を獲得。翌年には、1軍へ抜擢された。決意新たにシーズンに臨んだが、青木の強い思いとは裏腹にバットは空を切るばかりで、ヒットは遠ざかった。それでも、青木は2軍時代と同様に、「自分に何が足りないのか?」「改善点はあるのか?」という自己分析を怠ることなく、様々な人物から助言を仰いだ。
「古田監督にバッティングの指摘をしてもらいました。よく聞くと、構えた時にバットがピッチャーのほうに向いていた。その状態で打っていると1軍のスピードについていけなかったんです。バットの振り遅れには気づいていたんですが、大幅にフォームを変えるのは決断しづらかった。ただ、結果が出ていなかったから、まずは試してみて、ファームに落ちたらまたやり直せばいいと踏ん切りつけたんです。そこから、試合でも面白いようにヒットが打てるようになりました。やはり、相手がいることだから自分も変化しないといけないんだなって、意識が変わりましたね」
壁に当たって初めて見える自分の姿。青木の成長はその姿から目をそらすことなく、しっかりと向き合った結果、もたらされたものなのだろう。また、積み上げてきたものが多ければ多いほど、人は変化を嫌う。ステップアップのためには、時にはこだわりを捨てる勇気を持つことも大事だと、青木の生き方には記されていた。
「逆に変化することが、僕のこだわりかもしれない。物事って一つのことに固執していると見失う。色々なところから正解を持ってくるという考えがありますね。だから、僕はまだ上へ上へといけると思っています」 |