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佐古 賢一 |
さこ・けんいち 1970年生まれ、37歳。大学卒業後、いすゞ自動車に入社し数多くのタイトルを獲得するも、いすゞ休部に伴い、アイシン シーホースに移籍する。ポジションはポイントガード。卓越したプレイから“ミスターバスケットボール”と呼ばれる |
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幾度困難に見舞われても
その手に夢を掴むまで突き進む
ファンから差し出された色紙には、決まってサインのほかに書き添える言葉がある。“夢を現実に”。プロバスケットボール選手・佐古賢一の座右の銘である。
「あるとき、『夢が自分を捨てるわけじゃなく、自分が夢を捨てている』という言葉を目にして、すごく共感を覚えたんです。それ以来、すごく好きな言葉になりました。転機が訪れるたびに何度もその言葉に支えてもらいましたよ」
大学や社会人でバスケットボール経験のある父親の影響を受け、小学校3年生から、バスケットボールを始めた佐古。中学校でもバスケットボール部に入り、高校は推薦入学を経て全国大会の常連校である北陸高校へ進んだ。その後は中央大学に進学し、司令塔的な役割を持つポイントガードとして日本代表に選出される。卒業後はいすゞ自動車に入団し、JBL(日本バスケットボールリーグ)優勝やMVPに輝いた。そして、2002年にはプロ宣言。アイシン精機へ移籍して、現在もチームの柱としてプレイしている。
その経歴は申し分のない、エリートコースのようにも思える。しかし佐古は決してそうではないと語る。
「ここに来るまで転機は1つ、2つと言わず、何度もありましたよ。中学時代はバスケットボールへの執着が薄れた時期もあったし、社会人3年目のときは、バスケットボールを辞めようと思ったことも。いすゞ自動車バスケットボール部の休部や、3年前には自分にとって初の大怪我となる左足のアキレス腱を切ったり……。バスケットボール一筋と優等生のように見えるかもしれませんが、実はそうじゃないんです」
それでも心が折れることなく、前へ前へと進み、最終的には日本トップクラスの選手へと登りつめた。その原動力は一体どこから来るのか。
「やはり、夢を現実に≠ニいう言葉の話になるんですが、『現実は夢のようにはいかない』と自分に言い訳をして、簡単に諦めてしまう人が多いと思う。皆、『なれなかった』のではなく『ならなかった』だけ。僕が自分の目標にたどり着けたのは、一重に叶えたい夢に近づく努力を惜しまなかったことに尽きると思う。その姿勢を貫いていると、困難に直面したときに不思議と誰かが手を差し伸べてくれるんです。その結果、一歩一歩目指すべき場所に近づいている気がします」
しかし、社会人3年目にバスケットボールから退こうと考えた佐古。家庭の事情により、大学に通う弟の学費の支払いを決意した。それと同時に自身の結婚も決まり、バスケットボールを辞めて、背負うものを支えようと転職を考えた。実際にある企業から内定をもらい、退職を会社に申し出ると、いすゞ自動車サイドから「選手契約制度導入」の話を提案され、契約選手として活動する機会を得ることとなった。
「個人レベルではなく、会社として自分を必要としてくれたことが嬉しかった。だからこそ絶対に結果を残したかったんです」
その年、いすゞ自動車はJBLで優勝を果たす。その後も休部となった2002年まで優勝4回、準優勝2回と常勝軍団としてその座を守り続けた。チームの中心に佐古がいたことは言うまでもない。
再び訪れたアキレス腱断裂という危機にも、「辞めるのは簡単。でもどこまで復帰できるのか自分を試したかった」とリハビリに取り組み、日本代表復帰を果たしてみせた。今年8月には、残念ながら北京五輪出場権は得られなかったが、日本代表チームのキャプテンとしてアジア大会に挑んだのだった。
どんな状況に追い込まれても不屈の精神力でバスケットボールと向き合ってきた佐古。今後のキャリアについて聞くと、こんな答えが返ってきた。
「五輪に出ること、日本一になること、いろいろなことを夢見てバスケットボールを続けてきて、周りの人の支えもあって一つずつ手に入れてきた。まだ、手に入れていないのが五輪だけど、それを僕の一生の夢で終わらせてしまうのか、それとも指導者という形で自分の教え子につなげていくのか、いまはまだわかりません。最後は自分の選択になるんですが、目指すべき夢はいつでも持ち続けていきたい」
37歳、目下現役。その瞳は何でも叶えてしまいそうな輝きを放っている。 |