スポーツ界の覇者が語る仕事哲学に学ぶ
プロフェッショナルの条件 |
常に最高のパフォーマンスが求められるスポーツ界のプロフェッショナルたち。自己研さんに励み、勝利にこだわり続ける彼らのストイックで柔軟な独自の“仕事哲学”に迫る。《2008年6月号より抜粋》 取材・文/槙野仁子、市谷 美香子(編集部)、撮影/能美 潤一郎(フェムト) |
人気も実力も絶頂期のさなか、2006年に命をも危ぶむ大病を患い、「引退」がささやかれながら、2007年12月に復帰を果たしたプロレスラー・小橋健太選手。周囲の声援と自身の信念を支えに、ひたむきに復活の道を歩んできた41歳の姿には、「プロレスラー・小橋健太」という代役が利かない看板を背負う人間のプロ意識≠ェ垣間見える。天と地を知る男が明かすプロフェッショナルの条件とは?
実績が評価され、これからというときにアクシデントが起こったら……。このようなことはビジネスの世界でも少なくないことですが、小橋選手にとっては、2006年がまさにそんな経験をされた年でした。絶対王者≠ニして活躍中での腎臓がんの告知。その時の心境、そして、その試練をどう受け止められたのでしょうか?
「実は2001年にも、復帰が難しいといわれるほどの両ひざと右ひじの手術をしたんです。『前例がないのだったら初めての人間になろう』と思って手術に踏み切り、2002年に復帰しました。ところが、再びけがに見舞われ『引退』の2文字がちらつくことに。それでもリングへ上がりたい一心で、再復帰に挑戦し、2003年にチャンピオンの座を獲得。2006年の6月にタッグのベルトを手にしたのですが、がんの告知はその矢先でした。死ぬかもしれないということより、プロレスができなくなるかもしれないことにがくぜんとしました。このままでは終わりたくない、再びリングに上がりたいという思いで、腎臓の摘出手術を決めたんです」
2007年に病気を克服され、プロレス界へ復帰されました。その高いモチベーションはどこからわいてくるのでしょうか?
「モチベーションというよりも、自分の中では『生きること=プロレス』なんです。ですから、主治医に復帰を大反対されても揺るがなかった。再びプロレスができる道があるのなら、その道に賭けてみたい。やってダメだったらあきらめがつくけれど、やりもしないであきらめることはできなかったんです。腎臓がんの手術の場合、10年間安静にして再発しなければ完治と見なす、『10年生存率』というものがあるんです。でも自分は10年間何もしないで生きるなら、たった1年間でもいいからリングの上で必死に生きたいと思ったんです。その時モチベーションとなったのはファンの後押し。ファンの声援に対して責任を持つことがプロフェッショナルなんだと思います。この『責任』はどの仕事にも共通していると思いますよ。自分は高校を卒業して京セラに入ったんです。仕事は工場での流れ作業でしたが、責任とプライドを持ってやっていました。置かれた状況や立場から逃げるのは簡単ですが、責任を持って次に進む。その一歩を踏み出すかどうかで、キャリアや人生が分かれていくと思うんです。強い人間なんて誰一人としていない。半歩でもいいから、踏み出す勇気が大切なんです」
勝負の世界では勝ち続けなければなりませんが、勝つために最も重要なことは何だと思われますか?
「自分の場合は練習ですね。それは勝負に向けた準備ということになるのかもしれませんが。どんなに忙しくても練習の時間は必ずつくるようにしています。一日一日、時間を有効に使うことで毎日成長できる。腎臓がんという病にかかって、改めて気付かされたのはこの時間の使い方ですね。どんな金持ちや権力者であっても、時間だけは買えない。誰であっても平等に過ぎていく。いかに有効に使って自分を成長させるかは、意識一つで違う。そう思ってから、その日何をしていたのか書き留めるように習慣付けています。何気なく振り返ってみると、自分の行動の穴≠ェ見えてくる。この分析を続けると、そのうち、自分にとってどんな練習が必要なのか、何をするべきなのか分かってくるんです。自分はプロとしてまだまだ道半ばにいます。ファンに喜んでもらえるように、そして自分も後悔しないように、道を極めていきたいですね」
格闘技の世界に生きる人間とは思えない、柔らかい面持ちから発せられる小橋選手の言葉はどれも深みと重みがあった。手術後は残った腎臓に負担を掛けないようにするため、プロレスラーとして非常に不利な体づくりをしなければならない。それでも小橋選手はあきらめない。今後の夢について聞くと「男は40歳から(笑)。それに筋力は50歳まで上げることができるんですよ。まだまだやることはあります」と力強く語ってくれた。
実績が評価され、これからというときにアクシデントが起こったら……。このようなことはビジネスの世界でも少なくないことですが、小橋選手にとっては、2006年がまさにそんな経験をされた年でした。絶対王者≠ニして活躍中での腎臓がんの告知。その時の心境、そして、その試練をどう受け止められたのでしょうか?
「実は2001年にも、復帰が難しいといわれるほどの両ひざと右ひじの手術をしたんです。『前例がないのだったら初めての人間になろう』と思って手術に踏み切り、2002年に復帰しました。ところが、再びけがに見舞われ『引退』の2文字がちらつくことに。それでもリングへ上がりたい一心で、再復帰に挑戦し、2003年にチャンピオンの座を獲得。2006年の6月にタッグのベルトを手にしたのですが、がんの告知はその矢先でした。死ぬかもしれないということより、プロレスができなくなるかもしれないことにがくぜんとしました。このままでは終わりたくない、再びリングに上がりたいという思いで、腎臓の摘出手術を決めたんです」
2007年に病気を克服され、プロレス界へ復帰されました。その高いモチベーションはどこからわいてくるのでしょうか?
「モチベーションというよりも、自分の中では『生きること=プロレス』なんです。ですから、主治医に復帰を大反対されても揺るがなかった。再びプロレスができる道があるのなら、その道に賭けてみたい。やってダメだったらあきらめがつくけれど、やりもしないであきらめることはできなかったんです。腎臓がんの手術の場合、10年間安静にして再発しなければ完治と見なす、『10年生存率』というものがあるんです。でも自分は10年間何もしないで生きるなら、たった1年間でもいいからリングの上で必死に生きたいと思ったんです。その時モチベーションとなったのはファンの後押し。ファンの声援に対して責任を持つことがプロフェッショナルなんだと思います。この『責任』はどの仕事にも共通していると思いますよ。自分は高校を卒業して京セラに入ったんです。仕事は工場での流れ作業でしたが、責任とプライドを持ってやっていました。置かれた状況や立場から逃げるのは簡単ですが、責任を持って次に進む。その一歩を踏み出すかどうかで、キャリアや人生が分かれていくと思うんです。強い人間なんて誰一人としていない。半歩でもいいから、踏み出す勇気が大切なんです」
勝負の世界では勝ち続けなければなりませんが、勝つために最も重要なことは何だと思われますか?
「自分の場合は練習ですね。それは勝負に向けた準備ということになるのかもしれませんが。どんなに忙しくても練習の時間は必ずつくるようにしています。一日一日、時間を有効に使うことで毎日成長できる。腎臓がんという病にかかって、改めて気付かされたのはこの時間の使い方ですね。どんな金持ちや権力者であっても、時間だけは買えない。誰であっても平等に過ぎていく。いかに有効に使って自分を成長させるかは、意識一つで違う。そう思ってから、その日何をしていたのか書き留めるように習慣付けています。何気なく振り返ってみると、自分の行動の穴≠ェ見えてくる。この分析を続けると、そのうち、自分にとってどんな練習が必要なのか、何をするべきなのか分かってくるんです。自分はプロとしてまだまだ道半ばにいます。ファンに喜んでもらえるように、そして自分も後悔しないように、道を極めていきたいですね」
格闘技の世界に生きる人間とは思えない、柔らかい面持ちから発せられる小橋選手の言葉はどれも深みと重みがあった。手術後は残った腎臓に負担を掛けないようにするため、プロレスラーとして非常に不利な体づくりをしなければならない。それでも小橋選手はあきらめない。今後の夢について聞くと「男は40歳から(笑)。それに筋力は50歳まで上げることができるんですよ。まだまだやることはあります」と力強く語ってくれた。