伝説のプロダクトを生み出した“偉人”たちからのヒント


ザインエレクトロニクス株式会社
代表取締役社長 工学博士
飯塚哲哉氏
1975年、東京大学大学院電子工学修了後、東芝入社。90年、半導体技術研究所LSI開発部部長。91年、ザイン・マイクロシステム研究所設立。92年、ザインエレクトロニクス設立。2000年、日本半導体ベンチャー協会(2004年社団法人認可)会長就任。半導体ファブレスメーカーの草分け的存在として、同年、「第10回ニュービジネス大賞」アントレプレナー大賞最優秀賞を受賞。2001年にはJASDAQに株式を上場。2002年、「東洋経済賞アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」など受賞多数

飯塚哲哉。東芝でLSI開発部長まで務めた男である。約束されたキャリアに背中を向けて起業を選択。半導体業界の革命児としてファブレスメーカーという概念を日本に定着させた。飯塚氏の言葉は、自ら動き出すことでしか道は切り拓けないことを教えてくれる。

ザインエレクトロニクスの飯塚哲哉社長は1991年、16年勤めた東芝を退職した。当時43歳。前年には半導体技術研究所LSI開発部部長に就任し、将来の役員候補ともいわれていた。そんな約束された立場を捨てて、ザイン・マイクロシステム研究所を設立する。

「居心地のいい職場で、自由に研究開発をさせてもらっていました。ただ、80年ごろにシリコンバレーの技術者たちを見て、自分もいつかはという思いをずっと持っていましたから」

飯塚氏がシリコンバレーで仕事をしたのは、80年から81年のこと。東芝とHPとのエンジニア交換制度をスタートさせるべく自ら働きかけ、その対象者となった。望むベクトルに対して能動的に動いていくのが飯塚氏のスタイルだ。そして渡米後、すぐに刺激的な経験を味わった。

「一緒にがんばろうと言っていた研究リーダーが、1週間ほど経って『辞める』といってきた。『ベンチャーを立ち上げるから』と。当時の私にとっては、『ベンチャーって何?』ですよ」

数年後、その研究リーダーは成功してビリオネアになった。技術者のあり方を含めて日本の状況に慣れていた飯塚氏にとっては、大きなショックだった。

ザインエレクトロニクスは日本のファブレスベンチャーの草分け的な存在だ。生産工程は台湾などに委託し、半導体の設計で勝負する。ただ、独立当初は受託開発だった。

「コンサルティングなどを引き受けていましたが、東芝時代に学んだことがすぐに陳腐化することは目に見えていました。当時はかなり焦っていましたね」

起業という行動を起こした飯塚氏には、当然のように成功へのプレッシャーがのしかかった。最大の苦労は技術者が集まらないことだった。

「質のいい人は外に出たがらないのが日本の風土。大手メーカーからスピンアウトした私自身への偏見もあった。このころは孤独感がありましたね」と振り返る。

そうした苦境を跳ね返すべく自社ブランドのLSIを提供し続けた結果、ザインエレクトロニクスの液晶パネルLSIは世界シェア8割を占めるまでに成長。98年にはサムスン電子の持ち株をすべて買い取り、今日のザインエレクトロニクスの形ができあがった。

「21世紀は個と知の時代。知的財産を生む個人をいかに育てるかが、企業の競争力を左右する。モノやカネが余っている時代、差別化の最大の要素は人ですから」

優秀な技術者にとって、時代環境は明らかに追い風だ。だからこそ、現状に甘んじがちな日本の技術者に対して、飯塚氏は歯がゆい気持ちを持っている。

「居心地はよくても、逆にスポイルされる可能性がある。能力の旬の時期は長くない。技術者が優れた能力を発揮するためには、それを活かす企業文化がないと。脳が劣化する前に、起業でも転職でもいいから、自分を厳しい状況に置いてみろと言いたいね」

飯塚氏は「修羅場が人を鍛える」とも語っている。自身がもっとも鍛えられたのが起業後の苦しい時期だったことは、言うまでもない。


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