次世代リーダー候補者たちへ
《type特別企画》トップマネジメントが語る20代のキャリア |
一通りの仕事を覚え、自分の得意分野を見い出す20代後半。 この時期からの10年間いかに濃密な仕事をするかでその後のビジネス人生は決まるといっていいだろう。 ここでは、ビジネス界をリードする先駆者3人に 20代後半からの仕事について振り返って頂いた。 彼らのエピソードから、ビジネス人生を充実させるヒントを見つけて欲しい。 《2004年8月号より抜粋》 |
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20代で築いた戦略性、営業力、決断力が 今日の楽天成長を導いた | ||
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現在39歳の三木谷氏だが、約10年前の28歳というと、ちょうど興銀の社内留学制度でハーバード・ビジネススクール(HBS)に留学し、帰国した時期に当たる。そして、この留学経験が現在につながる最初の大きな転機となったと三木谷氏は振り返る。 「興銀に入行したのは、大きな会社で偉くなるのがビジネスマンの王道だと思っていたから。しかし、留学してそんな価値観はガラリと変わりました。アメリカでは優秀な人ほど大企業に行かずに、事業を起こす。ジョン・キムという韓国系アメリカ人と仲良くなったのですが、彼は自分の会社を経営しながら余裕で講義に出ていた。アントレプレナーシップ≠ニいう言葉すら知らなかった私は、大きなカルチャーショックを感じ、まるでジョン万次郎と同じような状態でした」 HBSでは「いつかは会社を興したい」という夢を抱いたが、すぐに起業するつもりはなかった。「興銀には仁義の上でも5年はいよう」と思ったからだ。帰国後は本店企業金融開発部に配属され、メディア関連のM&Aを担当。ここで、ソフトバンクの孫正義社長、CCCの増田宗昭会長、パソナの南部靖之代表らと出会った。 著名企業家と接し、M&Aの構造を考え、交渉をまとめるという醍醐味のある仕事だった。しかし、30歳のときに突然として転機が訪れた。キッカケは阪神大震災。兵庫県出身だったため、震災直後に地元に帰ってみると、須磨の公民館に遺体が500体も並んでいたのだ。 「その光景を見て、自分もいずれ死ぬ。死んだら、ビジネスマンとして成功しても、そうでなくても関係ない。お金と肩書きは、もうどうでもいい。それよりも、人生を後悔しないことが大事なんだ、と価値観が変わったのです」 ドブ板営業も辞さない行動力と緻密な戦略性が飛躍のカギ いてもたってもいられず、すぐに辞表を提出した。とはいえ、起業のネタは何もない。金融コンサルティングで小銭を稼ぎながら、アメリカで流行している地ビールのレストラン、パン屋のチェーン展開……と様々な事業を模索した。 「でも、ビジネスの広がりがイマイチ。企業の失敗パターンは、市場規模を無視してビジネスを拡大してしまうこと。だから、広がりが大きなビジネスをやろうと思った。自分が飽きさえしなければ、『オレは絶対に勝てる!』と思っていた(笑)」 こうした観点から照準を定めたのが、ネットショッピングだった。だが、この分野は当時は野村総研、IBM、三井物産などがすでに参入していた。しかも、この分野での成功は不可能だとさえいわれていた。しかし、三木谷氏は『イケる!』と直感していた。 「デモ版を作ってみたら、モノを買う面白さがネット上で表現できるとイマジネーションできた。このお店が5万円で出せるなら、店舗もお客さんも集まるいいサイクルが実現すると確信した。とはいっても、まだネットが普及していないころの話で、誰にも理解してもらえない。雑誌に載っているお店に片っ端から電話をかけて、とにかくアポを取って訪問する『ドブ板営業』に飛び回る日々が続きました」 アポが取れると、汗をたらし、息を切らし走って駆けつけ、必死にネットショップの説明をする。お店の経営者も、ハーバード大出のエリートの熱血漢ぶりに驚いたという。こうして、当初は『自分を売る』ことで契約を徐々に獲得していったのである。 それから3年後に上場を達成。一見スムーズに一人勝ちを実現したように見えるが、「障害は数え切れないほどあった。起業とは、いいサイクルに入るために障害を取り除くことに尽きる」 創業後の修羅場は従量課金制への移行 その障害の中でも、もっとも修羅場だったというのが、2002年の従量課金制への移行だ。5万円だった出店料を売上に応じて何倍にもするだけに、出店者が大量に離れる可能性も否定できない。 「しかし、ここを乗り越えないと楽天も、出店者さんも成長できない。『システムに再投資するので店舗も売上が増える』と全国を回って説明しました」 理解を得られず、罵声を浴びる場面もあった。しかし結果は、店舗の売上が伸び、店舗が儲かり、楽天も儲かる大きな成長のサイクルに入ったのである。 そして昨年は、旅の窓口とDLJ証券の大型買収に打って出た。買収額が高すぎるという報道もあった。だが、その後の成長性を緻密に計算した上での買収だった。「思いっきり決断はしていますが、実はリスクはほとんど取っていません」と三木谷氏。「手堅さと決断力」「緻密な戦略性とドブ板営業も辞さない行動力」、両立が難しいと思われるこれらの事をひとつずつ確実に実行し、不断の成長をモノにしてきたのだ。 「いいビジネスマンには、3つのファクターがある。ひとつは財務や教養などの知識。もうひとつは向上心や目標を設定するマインド。そして、人を動かすコミュニケーション力です。私は、数年前に理想のビジネスマン像とは何かを紙に書き出してみました。すると、自分に足りないものが見えてきた。やはり忙しくとも、一歩引いて自分を振り返る時間を持つことが重要です」 |
今、置かれている状況の中で一生懸命 頑張ることが、必ず次の展開に繋がる | ||
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金融ビッグバン以降の規制緩和を受けて、過酷なサバイバルゲームがをはじまっている。そんな中で、ブランド力では一頭地を抜くソニー銀行は、いかなる差別化戦略を打ち出そうとしているのか。石井茂氏は、こう語る。 「マーケティングのセオリーからいえば、競争上の優位性をつくっていくことが勝ち残る鍵でしょう。ただ、それに流されすぎてしまうと、我々が『本来あるべき姿』を見失ってしまうことになりかねない。違いは出していきたいが、単に相手との比較による差別化ではなく、正しくて進むべき方向はこうだから、私たちはこれをやりますということを固めていきたい。差別化戦略は、この理念に合致した事業展開をしていく中で、結果として現れてくるものと考えています」 研究所生活を経て経営中枢に参画 大学で経済学を専攻し、資本市場の重要性を知った。そんな知見との関連と、「手応えのある仕事をして生きていきたい」という思いから、就職先には証券業界を選択。四大証券の一角を占める山一證券に入社した。 入社後、すぐに山一証券経済研究所に出向。主に債券市場の調査・分析に携わり、未開拓の研究領域を切り開いていく仕事に没頭した。 最初の転機は入社7年目にエール大学ビジネススクールに留学したことでやってくる。理論と現実を乖離させない粘り強い思考、思いつきレベルのアイデアもばかにせず、きちんと育て、形にしていくことを学んだ。 「1987年に帰国したのですが、当時の日本はまさにバブル期。日本の株価水準が高すぎる、おかしいという趣旨のリポートを書いたところ、社内では『石井も2年間でボケたか』と言われ、誰も読んでくれませんでしたね。しかしその後ブラックマンデーが起こり、レポートを評価してくれる人が現れた。嬉しかったですね。分析が当たっていたという事実はもとより、初めて一つの切り口を自分でつくった、クリエイティブな仕事をしたという実感を得ました」 その後、日本証券業協会・協会長のサポートチームに推薦されたことをきっかけに、キャリアは大きく変わっていく。 「もともと『人物』、人の器みたいなものに対する興味がすごくありました。業界の主だった人たちが集まる会議にも出る機会が多くてとても面白かったですね」 これをきっかけに山一本体に戻った石井氏は、秘書役を経て部長職へと上り詰め、経営中枢に参画していく。 「部長職時代は、主に経営計画の立案に携わりました。その時、証券業界の将来像を描くために、米国のネット証券についての情報収集をしたことが、今の仕事に繋がったわけです。その経験から若い人に言いたいのは、今、置かれている状況の中で一生懸命頑張ることが大切だということ。そうすれば、必ず次が見えてくるし、繋がっていくはずです」 営業権譲渡の交渉が縁でソニーに入社 山一證券は1997年に経営破綻に追い込まれ、石井氏は自らの手で営業休止届を当時の大蔵省に提出するという経験をした。自主廃業の決定後は、少しでも多くの社員を引き受けてもらおうと、山一證券の店舗と営業権を買ってもらうため、幾つかの会社を回った。その一つがソニーだった。 「当時、副社長を務められていた伊庭保(現ソニー銀行会長)さんが交渉相手でした。結局、営業権の譲渡話は断られましたが、伊庭さんのディシジョンの切れ味に、経営者としてのすばらしさを感じましたね。今思えば、それがソニーに来る大きなきっかけになりました」 伊庭氏の方も、石井氏の情熱と粘り強い交渉姿勢に強い印象を受けた。結果、山一證券を正式に退職した石井氏のもとに「財務部にネット金融を研究するプロジェクトチームがあるから、アドバイザーとして入らないか」と声がかかった。しかし、すぐに就職する気にならなかった石井氏は「少し頭を冷やしたい」と固辞。山一がなぜ自主廃業に追い込まれたかを「経営陣に一番近いところにいた身として、問題点を整理する義務があると思った」と、本にまとめる作業もしていた。そこで、午前中のみの派遣社員を条件に、誘いに応じることにした。 「入ってみると、プロジェクトチームの実体は、財務部の十時(ととき)君一人でした。ちょっと話がちがうなと思いましたね(笑)。そうこうするうちに様々な人と会うようになっていくと、名刺もない派遣社員ではいろいろ不便なわけです。十時君にどうにかポジションをはっきりとしてくださいよ、と言われまして、正式に入社することにしました」 こうして伊庭氏のバックアップを受けながら、2人は事業計画を練り上げていった。一般の個人顧客への、長期的な資産形成のためのサービスに焦点を絞り、ネット銀行の構想が固まっていった。銀行設立の事業推進室が立ち上がり、財務部からも独立した。しかし、スタートから半年後、円高の影響を受けてソニーの業績が一時悪化したことなどから、プロジェクトは一時凍結。チームは解散。石井氏と十時氏はその後半年間、財務部でディスクロージャー業務に忙殺された。しかし、その間も「凍結だから解凍はある」と2人は信じて疑わず、ようやく一段落した6ヵ月後、伊庭氏に「解凍」をお願いする形でプロジェクトは復活した。 フェアであること、自立した個人のためにあること ソニー銀行が開業したのは、2001年6月。ソニーの取締役会がGOサインを出してから、わずか1年半でオープンに漕ぎ着けたことになる。石井氏は「今だったら恐くてやらないですよ。いかに大変なのかを身をもってわかりましたからね。外貨取引を低コストで24時間行うというサービスを決断する時には、本当にできるのか、という気持ちにもなりました」と振り返る。 「結局は、自身の意志力を試されていたのです。本当に銀行をやる気なのか――そんな問いを常に突きつけられてきたという気がします」 さまざまな経緯を経て開業したソニー銀行。その経営に当たっては、「何よりもソニーらしさを前面に出したい」という。一つは、「フェアである」こと。そしてもう一つは、一貫して民生用品を取り扱い、個人顧客に相対してきた「マーケットに近い」企業であることだ。 「個人向け金融商品・サービスというのは、その内容がマーケットから離れたところで決定されることがあります。その中で、何がフェアであるのかを考えつづけ、自分たちの姿勢を示すこと――具体的な商品やサービスの提供を通じて、この姿勢に対する支持を集められたらと考えています」 ソニー銀行は、開業時に金融庁から開業3年以内での黒字化という課題を突きつけられている。そんなシビアな状況を十分に認識しつつ、石井氏は「預金量や口座数の伸びからみて当社の支持基盤が広がっているのは確実。よく健闘しているといえるでしょう。ただし、金融機関である以上、安定的な財務基盤を確立しないと、お客様を不安にさせます。いくらいいことを言っていても、結果がついてこないことには、受け入れられているとは言えません。現実を見失っているわけではないのです」という。 「山一證券の破綻は日本を大きく変えたターニングポイント。大企業も倒れるということを示した以上に、道理にかなっていないことは通用しない、ということが明確になった。そういう意味で、日本は良い方向に変わってきていると思います。ソニー銀行のコンセプトは、時代の大きな流れに沿っているはずだと信じています」 |
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