30代著名ベンチャー社長に聞く
私のビジネス人生を変えた『20代の転機』 |
チャンスはみなに平等に訪れている。 問題はそれを活かせるかだ。 ここでは、偶然の転機をチャンスに変えて成功を収めた成長企業の社長に偶然をモノにする技術について聞いた。 《2004年10月号より抜粋》 |
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どん底になっても起き上がらずにはいられない不屈の精神が転機をチャンスに変えた | ||
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ネットとの出会いが人生を変えた 僕の人生は70転び80起きくらい(笑)。20代はいばらの道どころか、有刺鉄線の上にいたという感じでした。ほんとうに転機だらけです」 そう語るのは、携帯電話に特化したサービスやソリューションを手掛けるサイバード社長の堀主知ロバート氏。設立後わずか2年で株式を公開。現在では、売上高は百億円を超えるまでに急成長している。 ネット・モバイル関連企業の数少ない成功者となった堀氏の最大の転機は、94年にはじめてインターネットを見た瞬間だったという。 「最初に検索したのはF1のサイト。瞬時に膨大な情報が集まり、ネットを教えてくれた友人に”お前がこの情報を集めたんか!“と聞いてしまった(笑)。それまでの僕にとってパソコンはアホな機械だった。人が教えたプログラムを実行するだけの箱だから。しかし、ネットは違った。子供のころに見た鉄腕アトムに出てくる”何でも教えてくれる機械“と同じ。衝撃を覚え、世の中が変わる、儲けられるとワクワクしました」 すぐにネットの猛勉強を始め、AOLのような会員制ポータルサイトを立ち上げた。人気サイトとなり、これが足がかりとなってサイバードが誕生する。堀氏が20代の長い茨の道で光を見出した瞬間だった。 商売人のDNAを受け継ぎ20代から多くの起業を経験 堀氏は、大阪の商売人一家に生まれた。なかでも祖父は、清水寺の小坊主から、野菜の行商、タクシー運転手、歩合制の営業マンとして大金を貯めて旅館を買収、その後さまざまな事業に乗り出した立志伝中の人物だった。 「小学校のころから祖父に”おい、主知、商売ちゅうのはな…“と、商売の話ばかり聞かされてきた。実際、祖父が商売をしている姿を見ながら育った。一方、両親は異常に厳しく、あの学校に行きたい、スポーツがしたいと、何を言っても、”あかん“と。自分を認めてもらうには、祖父や両親と同じフィールドで成果を出さないといけない。それで自然と彼ら以上の商売人になることが目標になったのです」 大学に入ると四六時中商売のネタを考えるようになり、ブランド品の並行輸入や大学生向けのマーケティング調査など、さまざまな商売に挑戦した。 大学を卒業後は、ロンドンに留学して社会福祉とマーケティングを学んでいたが、ここでもやはり商売がしたくなった。当時、ブームになっていたゲームソフトをアメリカで作るというビジネスを思いつき、帰国。四季報に載っているすべての会社の社長に”直アポ“電話を掛けまくり、出資を募った。うまくいくかに見えたが、やがてさまざまな問題が発生し頓挫。 「それが最初の大きな挫折になった。友達の前でニコリともできないくらい打ちのめされ、東京に出てきました」 学生時代の友人が浅草の呉服屋の若旦那を紹介してくれた。その若旦那が始めるおもちゃ屋の経営を任される。表参道に店をオープンさせたが、ちょうどバブル経済の崩壊と重なり、呉服屋が倒産。おもちゃ屋の経営もオジャンになってしまった。心の洗濯をしようとマウイ島に遊びに行くと、母から電話がきた。ホテル建設の仕事が忙しいから手伝ってくれとのことだった。 商売人である堀氏の母は、南紀・白浜に400億円以上の資金を投入し、世界遺産に登録されるようなホテルを作るという壮大なプロジェクトを手掛けていた。この仕事を手伝ったことで、堀氏は商売人として一皮むける貴重な教訓を得た。 「世界中から、その道のナンバー1と呼ばれる最高の職人さんをたくさんコーディネートしました。今でも忘れられないのは、関わった人全員が何かに取りつかれたように朝から深夜まで最高のモノを作ることに没頭した、不思議なエネルギーを感じたことです」 堀氏もこのエネルギーに引き込まれる中で、人を巻き込むことの重要性と醍醐味を知ったという。 何が何でも諦めない心が成功の女神を呼び込んだ 建築プロジェクトが一段落したあとは母と会社を設立。新事業として、製薬会社に勤めるドイツ人の友人と組んで、競争馬の栄養管理を行う事業を軌道に乗せた。ほかにも、ゴーカート場を作る計画などを温めていた。しかし、たまたま友人から「ネットカフェを作りたいので協力してくれ」といわれ、はじめてネットを見たことで堀氏の人生が大きく動き始める。 94年。インターネットが認知され始めると、大きな商機を見た堀氏はネットに強い友人2人を巻き込み、パラダイスウェブという会員制ポータルサイトを運営する会社を立ち上げた。 「でも、当時はネット広告もなく、利益が出ない。”やったけど、ぜんぜん儲からへん。さあ、どないしよう“と。課金、課金、課金…。どうしたらカネが入るかと考え続けた」 たまたま当時からケータイのヘビーユーザーだったことが突破口となった。ケータイの請求書とネットの課金のイメージが重なり、ケータイでのネットなら課金もスムーズにできると確信したことが、サイバードの誕生につながったのだ。 当時はネットベンチャーが雨後の竹の子のように登場し、また消えていった。堀氏は、いかにしてこのチャンスをモノにしたのだろうか。 「起業家なら誰しも、もうあかん、お手上げやと思う状況があるはず。僕もそんな状況の連続でしたが、最後の最後まで諦めずに決着をつけるクセがあった。死んでも起き上がってくるゾンビのような(笑)」 事業計画書を何回も書き直しては出資してくれそうな会社に乗り込み、説明を繰り返した。この不屈の精神の源にあったのは、「過去にみんなで一緒にいい仕事をして、”よっしゃ?!“と快哉を叫んだときの”喜びの味“」だという。 「そんな喜びを一度味わった人間は、もっと大きな成功を望まずにはいられない。だから、僕は諦めずに商売をやっている。まずは小さくてもいいから、”よっしゃ?!“という成功体験を築くことが、転機をモノにするコツでもあると思います」 |
マネジャーとなりチームの組織変革に挑戦ここで大きな成果をあげたことが転機となった | ||
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日本の銀行初の外国人頭取。しかも43歳という最年少。タッド・バッジ氏は、組織つくりおよび企業カルチャー変革の経験と実績を買われ、03年に東京スター銀行の頭取に就任した。 「転機はたくさんある」と笑うバッジ氏。戦略コンサルタントを皮切りに、シティバンクの東京とアトランタ、GEのアトランタとGEジャパン、そして東京スター銀行への転身。その転職のすべてが転機だが、「最初の転機は期せずして日本にやってきたことだった」という。 学生時代、バッジ氏は、宣教師の経験をすることを選んだ。決定した赴任先が、たまたま日本だったのである。 「日本で宣教師をした2年間は私の人生でもっともタフな期間。しかし、人間的に大きく成長できた素晴らしい経験でした」 九州各地や沖縄に滞在し、飛び込みで民家を訪問することもあった。スケジュールは朝6時半から夜10時までぎっしり埋まっている。しかももちろん無給。 「それまでアメリカの西海岸しか知りませんでした。世界観が一気に広がり、国際舞台で活躍するビジネスマンが目標になったのです。20代のうちに海外に出るということは大事ですね」 大学卒業後も、得意となった日本語を活かし、難関のベイン・アンド・カンパニーの日本法人へ入社。だが、すでに子供が2人おり、ビジネス・ライフ・バランスを重視するバッジ氏に、海外出張も多いコンサルタントは忙しすぎた。そして、シティバンクの東京支店へ転職。 「でも、やっぱり忙しい(笑)。出張は減りましたが」 東京のシティバンクではリテールの戦略立案を担当した。そして32歳のときに、シティバンクのアトランタへ転勤。ここでの経験が大きな転機になったという。 転勤先はアトランタの債権回収センターのマネジャー。初めての現場仕事で、タッドが目の当たりにしたのは、電話を掛ける回数から勤務時間までをガチガチに管理するマネジメントスタイルだった。 これまでの経験から「人を大事にすること。人は権限と責任をもたなければモチベーションは上がらない」という思いがあったバッジ氏は、仕事の進め方を個人に任せる管理を提唱。しかし、パート社員も多いオペレーションセンターだけに、周りから大反対の嵐に見舞われた。 納得できず再三にわたって訴え続けると、バッジ氏のチームだけ自由なマネジメントが認められた。代わりに、他のマネジャー達からは無視され孤独になってしまった。しかし、結果はバッジ氏のチームだけ前向きに頑張る集団に変貌、大きな成果を出した。 「このとき、リーダーの役割に目覚めた。部下を大事にし、方向を示し、エンパワー(権限委譲)することです」 この後、業務縮小に伴うリストラという憂き目に遭い、GEへ転身を決意。97年にGEキャピタルの日本法人に転勤し、再び来日。クレジット会社などの買収を手掛け、買収先の組織カルチャーをGEスタイルに変革した。 チャレンジングな仕事だったが、これがその後、再生途上の東京スター銀行の幹部にヘッドハンティングされるという転機につながっていったのだ。 「大切なのは起業家精神。基本知識に加え、やりたいことがあり、成功を強く願うことです。そういう人が転機をモノにするのですが、そのためにはスピードのある会社に行くべき。スピードの速い会社は社員に権限を委譲するから思いっきり働ける。官僚的な会社に行ってはいけません」 |
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