世界で最もマーケティングに卓越した企業といえば、真っ先に名が挙がるのが米国コカ・コーラ社。その日本法人が現在、未曾有の変革のさなかにあるという。
05年1月より、従来はボトラー(瓶詰め会社)14社に分散していた生産・物流・調達の機能を一元化。さらに健康やライフスタイルを軸にした新商品開発にも力を入れ、営業面でも着実に新機軸を打ち出しつつある。まさに「日本上陸以来の大改革」を進めている。その陣頭指揮をとるのが、01年に代表取締役社長に就任した魚谷雅彦氏だ。
米国コロンビア大学でMBA取得。26年ぶりの日本人社長≠ニして社内の構造改革を推進――そのプロフィールから、怜悧な豪腕タイプの経営者を想像していた我々の予想は、心地よく裏切られた。白い歯が似合う日焼けした顔に終始微笑を絶やさず、柔らかな関西弁で人をそらせない。
「高校時代、落研(落語研究会)に入ってたんです。いつか人前で話す仕事につくだろう、という予感がありましたから」
その人間的魅力は魚谷氏が夢を一つひとつ実現させる過程で培ってきたものでもある。夢を追いかけ、それを実現すること――そのプロセスこそが魚谷氏のキャリアを形づくってきたといっても過言ではない。
社内の常識を破り入社2年目で留学資格を取得
「世界をまたにかけて、国際的な仕事がしたい」――魚谷氏の原点は、まさにこの言葉に集約される。
英語教育が盛んな高校に通っていたこともあって、魚谷氏は若い頃から海外に飛躍する夢を温めていた。同志社大学文学部英文学科に進学し、在学中に難関の英検1級も取得。いよいよ就職活動、という段階になって、第一志望の大手商社が文学部出身者に門戸を閉ざしていることを知る。
そこで77年、社内留学制度があるライオンに入社。「入社後3年で留学対象資格が得られる」という制度に応募する日を夢見て、周囲に気兼ねしながら英会話学校に通い、TOEFL受験も重ねた。しかし、実際に留学していたのは30代の中堅社員ばかり。入社1年目の自分はといえば、営業としてライトバンで得意先を回り、歯磨き粉や歯ブラシなどを売り歩く日々。このままでいいのか、と悩んだ。
「明快な目的を持って努力していただけに、挫折感は大きかったですね。自分の思いが遂げられる日は来るのかと、夢と現実とのギャップに焦りを感じました」
将来への不安がピークに達した8月頃、魚谷氏は思い切った行動に出る。会社の顧問を務める知人を訪ね、悩みを訴えたのである。「新入社員のくせに、君は何を甘いことを言っとるのか」――頭ごなしに一喝されるのは覚悟の上だったが、魚谷氏の話を聞くと彼はこう言った。
「君の気持ちは理解できる。前向きな気持ちを持っている人間ほど悩むものだ。だが、君はまだ22歳。とにかく1年間がむしゃらに仕事してみなさい。1年後、それでも夢が実現できそうにないと思ったら、あらためて決断すればいいじゃないか」
思いやりと見識に満ちた励ましの言葉が、魚谷氏の心に響いた。とりあえず目の前の仕事を1年間がんばってみよう、素直にそう思えた。
「不思議なものですよ、人間って。気持ちを前向きに持つと、そこから道は開けるんですよ」
魚谷氏は見違えるようにいきいきと働き始めた。「毎度!」と大きな声で取引先に挨拶をするようになり、心の交流が生まれるにつれ注文も増えていった。営業成績が急上昇した魚谷氏に人事部も感じるところがあったのか、入社2年目で社内留学試験を受けることが許され、2回目のチャレンジで見事パス。自分の将来に悩みながらも、努力を続けた末につかんだ夢の第一歩であった。
どんな難局があっても乗り越える自信をつける
81年、米国コロンビア大学ビジネススクールに進学。念願の留学生活だったが、その実態は過酷そのものだった。一日5冊のリーディング・アサインメントを徹夜でこなし、無我夢中で勉強する日々。青息吐息で課題をこなすうち、要領や優先順位のつけ方も覚えた。何より役立ったのは、「どんなに厳しい状況に直面しても乗り越えられるだけの自信」がついたこと、と魚谷氏は言う。
「新製品を出しても売れない、改革がうまく進まない――ビジネスの現場は苦しいことだらけで、日々課題を見つけて対処しなければならないのが現実です。でも、どんなに困難な状況でも乗り切る自信がついた。それは大きかったですね」
魚谷氏は後年、それをあらためて実感することになる。クラフト・ジャパンの代表取締役副社長に就任したときのことだ。
転職して1年後、同社が買収され、突如としてリストラの嵐が吹き荒れることになった。社員80数名のうち削減対象となったのは実に60余名。社長退任を受け、36歳の魚谷氏は突然、リストラの矢面に立たされることになる。
社員の人生を左右する辞職勧告という事態。突然降って湧いた難事に魚谷氏は頭を抱えた。だが、こうなった以上は前に進むしかない。4日間でリストに上った社員全員と面接。幸いバブル景気で再就職が順調に進んだこともあり、誠心誠意話し合いを重ねるうちに、光が見えてきた。難局にあっても、誠意を尽くして互いに理解しあえば道は開ける――そのことを身をもって体験した出来事だった。
「人間にとって経験は重要な要素。困難を乗り越えた経験が自分の中にインプットされていれば、何があってもどっしり構えていられる。『若い頃の苦労は買ってでもしろ』と言いますが、この言葉には一片の真実があると思いますね」
とはいうものの、MBA取得後の生活が順風満帆だったわけではない。人事部から帰国後の希望を聞かれ、「国際的ビジネスに関わりたい」との熱い思いも伝えてあった。しかし、意気揚々と成田空港に着いた魚谷氏を待っていたのは、「大阪の営業部に戻ってほしい」という人事部長からの伝言。まさに青天の霹靂、魚谷氏にとって二度目の挫折であった。
「その時思ったんです、前にもこういうこと、あったよなぁって。数社からの誘いもありましたが、とにかく1年間だけは元の職場でがんばってみようと。すると面白いことに、ちょうど1年が経った頃、東京本社の企画部門への異動を命じられたんです。思いは通じるんだなあ、と思いましたね」
本社企画部門に移ってからの活躍はめざましかった。世界に冠たる企業にするという夢に燃え、本社部門に新風を吹き込もうと努力した。30歳で最年少のブランドマネージャーとなり、将来の経営を担う幹部候補生としての道も開けてきた。こうして3、4年が経過した頃、思いがけず転機が訪れる。きっかけは妻のひと言だった。
「最近、言うことがずいぶん型にはまった感じがする。アメリカから帰国して意気揚々としてた頃と比べると、変わったんじゃない?」
妻の指摘に魚谷氏は胸を突かれた。考えてみれば、大きな組織のなかで意見の調整を続けるうちに、どこか保守的になっている自分がいた。(そろそろ外に飛び出して、やりたいことをやる時期かもしれない)――大企業の幹部候補生としての将来に未練はない。そう思えた折も折、人材エージェントから声がかかった。
36歳でクラフト・ジャパンの代表取締役副社長に就任。魚谷氏が日本コカ・コーラに迎えられたのは、それから3年後のことだった。
キャリアアップの原動力は「夢見る力」
「いま日本コカ・コーラはかつての強さを失い、大変革をする必要がある。魚谷さん、あなたの力で会社を変えてほしい」
当時の社長の熱心なラブコールを受けて、94年日本コカ・コーラの取締役副社長に就任。以来コンシューママーケティングのナショナルブランド部門を担当し、ジョージアやコカ・コーラの数々のキャンペーンを指揮して世間の耳目を集めた。その手腕が認められ、26年ぶりの日本人社長の座に就いたことは前述のとおりである。
魚谷氏のキャリアを振り返るとき、驚かされるのは「夢見る力」の強靭さである。「世界をまたにかけたい」という若き日の夢にかける思いの強さ。それこそが、人生という道なき道を切り拓く原動力となったように思える。
「何がなんでも夢や志は持つべきです。『こうなりたい』という夢を強く持てば、実現しないことはない。その上で、自分の夢を周囲に向けて発信することです」
だが、発信することで周囲の抵抗に会い、つぶされてしまう可能性もあるのでは――そう水を向けると、魚谷氏は即座にこう応えた。
「大事なのは夢を発信するだけでなく、目の前の仕事に誠意を持って取り組むこと。それが周囲に理解されれば、皆が夢への挑戦を応援してくれる。私が最初の会社を辞めた時、同僚や先輩たちが『がんばれ』と応援してくれた。それは本当にうれしかったですね」
05年、新生・日本コカ・コーラは魚谷社長の下で船出した。同社の数年後の姿こそが、魚谷氏の次なる夢なのかもしれない。 |