「交わした何千何万の名刺の中に、人生を変える出会いがある」ビール業界の革命児が語る営業職のオイシさ
営業職に就いている人の中には、「本当は営業なんてやりたくなかった」という人もいるだろう。「このまま営業を続けて、何か将来につながるのだろうか」と不安を抱いている人も少なくないかもしれない。だが、愚直に積み重ねた営業経験が、後のキャリアで大きく花開くことはある。
そう教えてくれるのが、株式会社ヤッホーブルーイング代表取締役社長の井手直行氏だ。今やスーパーやコンビニに行けば、『よなよなエール』『水曜日のネコ』など同社のヒット商品がズラリと並んでいる。
11期連続増収増益という成長企業の経営者も、かつてはいち営業マン。封建的だったビール業界を変えた名物社長は、果たしてどんな営業人生を送ってきたのだろうか。
カリスマも認めた、恐れ知らずの天衣無縫なキャラクター
井手氏の20代のキャリアは、紆余曲折だ。電気工学系の高等専門学校を経て、電気機器メーカーのエンジニアに。次に環境アセスメント会社に転職するも、わずか7カ月で退職した。そこからは全国をバイクで放浪する日々。収入源は得意のパチンコ。自分なりに将来について真剣に考えてはいたが、「一生をかけてやり遂げよう」と思える仕事には巡り合えていなかった。
そんな井手氏の転機となったのが、株式会社星野リゾートの代表・星野佳路氏との出会いだった。
全国放浪の旅を経て、長野県・軽井沢にある広告代理店に営業として入社。担当した取引先の一つが、星野リゾートだったのだ。そこで井手氏は「一緒にビール事業を始めないか」と星野氏から直々に声をかけられる。
なぜ一介の営業マンだった井手氏を、星野氏はヘッドハントしたのだろうか。
「直接聞いたわけではないのですが、星野曰く“経営者が相手でも物怖じせずに何でも言うから”だそうです」
井手氏はそう照れ笑いを浮かべる。社内で星野氏を見かけたら、「こんちはっ!」と気さくに挨拶をした。「今日は良い服着てますね」、「最近、家を買ったそうじゃないですか。星野さん、社長なんだからもっと高い土地買えばいいのに」。話す内容もまるで友人のようだった。地元の名士を前に萎縮も媚びも一切ない。
そんなオープンな性格が、業界のカリスマである星野氏の目に留まったのだ。
かくして井手氏は、ビール造りの経験もない中、ヤッホーブルーイングの創業メンバーの一員に加わった。1997年、当時29歳のことである。
友達感覚の個性派メルマガが、業績低迷の突破口を開いた
地ビールブームの波に乗り、同社の船出は順風満帆だった。積極的に営業をしなくても注文が殺到する。いち営業マンだった井手氏は、相次ぐ注文をさばくのに手一杯だった。
しかし、ブームの終焉と共に潮目は変わった。取引先を回っても門前払い。時には「忙しいから来るな」と罵声を浴びせかけられることもあったという。砂を噛み、泥水をすするような営業生活は3年間も続いた。
「ブームが去ったこともありますが、今思えば当時の僕にも問題があったんです。あの頃の僕は完全に素人営業。客先へ行ってもパンフレットを置いていくだけだし、何か頼まれても社内に一度持ち帰らなきゃ何もできない“伝書鳩”状態。先方にとってはわざわざ時間をつくって僕に会うだけのメリットがありませんでした」
県内でローカルCMを打ったり、スキー場で試飲販売を行ったりと、次々に打開策を出して起死回生を図るが、業績回復の特効薬にはならなかった。なぜなら、そのどれもが大手が莫大な予算と人員を投入してやっているものばかり。自分たちのアイデアは「大手のミニチュア版」に過ぎなかったからだ。
窮地に追い込まれた同社を救ったのが、独自のネット戦略だった。
「ネットショップ自体は1997年から楽天市場に出店していましたが、ずっと開店休業状態でした。そこで営業リーダーをやめて、僕がインターネットに専念することを宣言したんです」
それは、崖っぷちに立たされた井手氏の破れかぶれの一手だった。とは言え、当時の井手氏はパソコンもまともに使えないありさま。ネット販売の基礎を学ぶため、楽天が開催する講座に通った。
そんな努力が実を結び、2004年から本格化した同社のネット販売は徐々に売上を伸ばしていった。その原動力となったのが、井手氏によるメルマガだ。
「当初は『皆さま、いかがお過ごしですか』から始まるようなテンプレート通りのメルマガでした。でも、当時、楽天市場で人気の20代の女性店長がいて、その人のメルマガを読んでみたら商品の話なんて一切なくて、『今日はだるいから早退したい』とか、そんなのばかり(笑)。その愛されキャラが受けていたんです。で、これなら僕もできそうだな、と。そこからメルマガの内容をガラッと変えたら、今までなかったような反響が次々と返ってくるようになったんです」
仕事の話はまるでしない。まるで友達のようなカジュアルなコミュニケーション。それはかつて得意顧客だった星野氏にフランクに話しかけていた自身の営業スタイルそのものだった。営業仕込みの“顔が見える”コミュニケーションで、同社のネット販売は急拡大していった。
営業をやっていなければ今の僕はなかった
同社の爆発的成長を支えるもう一つの秘密が、個性的なネーミングやパッケージデザインだ。
実は井手氏、「こういうクリエイティブは苦手で、ずっとセンスがないと言われていた」と明かす。だが、同社のロングセラー商品『インドの青鬼』は、ネーミングもパッケージも井手氏のアイデアによるもの。センス皆無の烙印を押され続けていた井手氏を変えたものは、何だったのか。
「それはやっぱりインターネットのおかげです。結局、僕がネットでやっていることって、お客さまに商品を買ってもらうための“営業”なんです。突拍子もないメルマガを書いたり、くだらない企画でお客さまに喜んでもらったり。そういうことを一生懸命あれこれやってたら、いつの間にか自分の中にあった枠が外れて、考えることが楽しくなっちゃった。それが、ネーミングやデザインの企画を考える下地を作ったんだと思います」
顔が見えるか見えないかの違いはあるものの、お客さまを楽しませたいという心は同じ。このエンターテイナー精神が、井手氏の根幹を形成している。
「営業をやっていて良かったと感じるのは、お客さまが誰も相手にしてくれない時期を乗り越えたおかげで、随分と鍛えられたこと。年を取ってから厳しいことを言われると病んじゃうでしょ(笑)。どうせ厳しい目に遭うなら絶対に若い方がいい。経営者になった今も大変なことはいっぱいあるけど、営業でしんどい想いをしたから、これくらい全然平気だって思えるんですよね」
そして何よりの財産が、出会いだ。
「業界が下り坂の時期でも、僕の話を真摯に聞いて、アドバイスや役立つ情報をくれるお客さまが何人かいました。そういう人たちを見て、僕も逆の立場になったらこうありたいと学べたし、何より後々いろんなところで良い取引ができた。こんなダメな僕でも、営業をやっていたおかげで、いろんな縁に恵まれたんです」
そう言ってからひと息置いて、井手氏はこの日いちばんの笑顔を見せた。
「そういう意味で、一番のご縁は星野との出会い。長野の営業マン時代に星野と出会っていなければ、今の僕は絶対にありませんから」
営業をやっていれば、毎日、たくさんの人と出会う。交換した無数の名刺の大半は、そのまま忘れ去られてしまうものかもしれない。けれど、何千何万という名刺の中には、必ず人生を変える出会いがある。それが、営業の一番の魅力だ。
取材・文/横川良明 撮影/竹井俊晴
RELATED POSTSあわせて読みたい
“ワインは4種類に分かれる”って知ってた? ボジョレー解禁前に最低限学んでおきたいワインの知識!【男の美学塾】
大手食品卸会社の営業が実践する「コンシューマーへ商材を届ける近道」
リピーター率88.6%! とある旅館女将のすご過ぎる「顧客囲い込み」戦略
29歳『ミスターミニット』社長の仕事マインド「年長者とも互角に戦えるフィールドを自ら作る」