“オートレース界の彗星”が逆境から這い上がる日【スポプロ勝利の哲学】
完璧なレースなんてない。1着でも必ず課題はある
バイクに出会ったのは、3歳のときだった。2001年、16歳で全日本ロードレース選手権GP125に参戦。その後は数々のタイトルを獲得し、世界を舞台に転戦した。一方で、成績不振により近所のラーメン屋で皿洗いのアルバイトをするなど苦汁を舐めた時期もあった。走れなくなって初めて気付いた。自分にはバイクしかない、と。一生走り続けられる環境を求めて、オートレース選手に転向。「これがダメならバイクとは縁を切ろう」と26歳で臨んだ入所試験に合格し、2011年、船橋オートレース場で選手としてデビューした。これが、オートレーサー・青山周平の半生である。
「ロードレース時代はエンジンの調整はメカニックがやってくれて、僕は乗ることに集中すれば良かった。でもオートレースの世界では、部品の調達は自費で行い、マシンセッティングも全部選手自身がやらなきゃいけない。自分が走りで感じたことをどう変換すればバイクが良くなるのか。転向してすぐは何も分かりませんでした」
そんな戸惑いとは裏腹に、青山選手は史上初、デビューから無敗のまま初優勝、同時に史上最速となるデビュー35日目での優勝という快挙を達成し、2011年オートレース最優秀新人選手賞を獲得。オートレース界の彗星として注目を集める存在となった。彼が厳しいオートレースの世界で成果を残してきたのには、持ち前の勝利に対する貪欲な執念があった。
「完璧なレース、完璧なセッティングなんてないんです。たとえ1着で終わっても、必ず課題はある。だからレースの後は必ず映像で自分の走りをチェックし、反省をします」
頭の中で思い描く理想の走りと現実の違いを自分の目で見て確かめ、修正する。PDCAの重要性は、ビジネスの世界と何ら変わらない。
だが今、青山選手はかつてない低迷期に見舞われている。一時はオートレース界最大のタイトルであるSG戦において、デビューから最短優勝記録の更新も期待された。しかし、その夢は破れ、ここ最近はなかなか満足な結果を出せずにいる。そのたびにクランクやフレーム周りを交換したり、入念にセッティングを行ったり、自身の体重を落としたりと多方面から打開策を試みているが、まだ光は見えていない。もがく青山選手の姿もまた、数字に追い立てられるビジネスマンのそれと変わらないものがある。
自分の手の届く範囲に全力で取り組む
青山選手は今、この逆境に何を思っているのか。
「何をやってもうまくいかないときは投げ出したくもなります。だけど、諦めたら終わり。そこで辞めちゃったら、もう自分はそれ以上成長できませんから」
10年に1人と期待されたルーキーも、スランプを経験して気付いたことがある。
「大切なのは自分に集中すること。周囲からの評価や他の選手の成績は自分でコントロールすることはできない。だからレース前のエンジン整備など、自分の手の届く範囲を全力で取り組んでいます」
そしてもう一つ、青山選手ののめり込みやすい性格を案じた先輩から助言されたこともある。
「冷静になって自分と向き合ってみるのも一つの手だと、時間を置いてみることを勧められました。焦ってジタバタしても結果が良くなるとは限りません。僕はこれまで常に何かやっていることで不安を紛らわせていましたが、時として迷子になることもある。あえてじっと我慢することが結果として近道になるかもしれないということも先輩の助言で気付かされました」
逆境を知り、青山選手は変わった。それまでは周囲のアドバイスも聞き流すようなところがあったが、今は真摯に耳を傾け、ヒントを探す。低迷期は、新しいステージへ上がるための成長期にもなり得るのだ。
「良い時にはいろんな人が近づいてくるけど、悪くなればどんどん人は離れていく。でも、そんな中でも手を差し伸べてくれる人がいた。その人たちのおかげで、僕は自分の小ささを知ったんです。だからこそ、今は周りへの感謝の気持ちを常に持っていたいと思うし、周りから愛される人間でありたいと思うようになりました」
ゴールを見据え、覚悟を決める
意外なことに、青山選手には“営業経験”があるという。
「ロードレーサー時代、スポンサー獲得のために企業に飛び込み営業をしていた時期があるんです。『こんにちは! ロードレーサーの青山と申しますが、私のスポンサーになってもらえないでしょうか!』みたいな(笑)。断られてばっかりだったけれど、そこからいろいろ紹介してもらううちにつながりができて、新しいスポンサーを見つけることができた。地味なことでも継続していればきっとどこかで何かにつながることがあると思います。だから大きい目標を追いかけることばかりにとらわれるんじゃなく、目の前にあることをコツコツとこなしていくことを大事にしてもらえたら」
今、オートレースを取り巻く業界は決して甘くはない。ファン離れによる売上の低迷は深刻で、青山選手の所属する船橋オートレース場もオートレース発祥の地という伝統がありながら存続の危機にさらされている。
「オートに骨を埋める覚悟で転向した」と話す青山選手の夢は、自分の力で人を集めることで、オートレースを存続の危機から救い、いつか競馬のような人気の公営競技にすることだという。
「そのためにファンの人に喜んでもらえる走りをするのは最低限の義務。そこからさらに僕に何ができるかずっと考えています」
自らの勝利のため、そして愛するオートレース界のため、彼はここで終わるつもりはない。
「勝ったら嬉しいし負けたら悔しい。このドキドキ感とスリルが僕は大好きなんです。例えあるレースで優勝しても次のレースでまた勝てるかなんて分からない。日々勝ちを求められるというプレッシャーは大きいけど、僕からバイクを取り上げたら何も残らないんです。だからこそ、僕はこれからも、毎レースのエンジン整備に全力を尽くし、オートレース場に人が呼べるようなレースをしたいと思っています」
どんなビジネスマンもスランプに陥ってしまうことはあるだろう。何とか抜け出そうともがくうちに自分にとって本当に大切な夢や目標を見失いかけることもあるかもしれない。しかし、そんな時、青山選手は今の自分にできることに実直に挑み続けている。
彗星が輝きを取り戻す日は、きっとやってくるはずだ。
取材・文/横川良明 撮影/柴田ひろあき
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