キャリア Vol.899

ホームレス→超有名外資からヘッドハント→25歳で年収1000万。“型破りキャリア”の男はなぜ、どんな環境でも結果を出せたのか?

【PR】

日本では長らく「いい大学を出て、いい会社に入り、一生勤め上げる」というのが模範的なキャリアとされてきた。

だがそんな時代に、“高卒・ホームレス”からスタートして、アクセンチュアやマイクロソフトなどの一流企業で華々しい実績を上げてきた人物がいる。それがアーカス・ジャパン代表取締役社長の松原晋啓さんだ。

これまで松原さんは、どんな環境でも結果を出し、世間の常識を覆してきた。なぜそんなことが可能だったのか。

その“型破りキャリア“を紐解くと、新しい時代を生きる20代が、変化に左右されない“強いキャリア”をつくるためのヒントが見えてきた。

アーカス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 松原晋啓さん

アーカス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 松原晋啓さん

アクセンチュアなどでのSE、コンサルタント、米国のソフトウエア会社・インフラジスティックスでのエバンジェリスト、マイクロソフトでのソリューションスペシャリスト(Dynamics CRM製品担当)を経て、CRMを専門に扱うサービスチームを率いてさまざまな企業で事業の立ち上げを支援。2014年に設立したアーティサン株式会社に代表取締役副社長&CRM事業部長として参画。20年7月1日、CRM事業部が分社化し、アーカス・ジャパン株式会社を設立、代表取締役社長に就任

親の借金のかたに自宅を取り上げられ、18歳でホームレスに

松原さんの人生に波乱が訪れたのは、高校を卒業して大学生になったばかりの頃。 父親が亡くなり、しかも莫大な借金を残していたことが判明したのだ。

親の遺産は一銭も手元に入らず、それどころか借金のかたに自宅を取り上げられ、松原さんは18歳にしてホームレスになった。当然、大学の学費も払えないので退学するしかない。松原さんの“型破りキャリア”は、そんなどん底の状態からスタートした。

「とにかく食べて行かなければいけないので、家を失ったその日から日雇いの仕事を始めました。当時は日給の最低賃金が4200円程度。しかも交通費はもらえないので、電車代を払うと手元には3000円しか残らない。そのうち2500円でカプセルホテルに泊まり、残り500円で牛丼を食べる。 そんな日々でしたし、ドヤ街に住んでいたので仕事がなくて、1日何も食べられないこともよくありました

アーカス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 松原晋啓さん

「ここには書けないエピソードもたくさんありましたよ(笑)」

もちろん松原さんも、そんなギリギリの生活を長く続けるつもりはなかった。ただ、ホームレスを抜け出して定職に就くには高いハードルがある。

「住所がなければ履歴書が書けない。だからまずは住所を手に入れなければいけないのですが、部屋を借りるための賃貸契約には住所に加えて保証人も必要になるんです。それであるお店に住み込みで雇ってもらい、数カ月間働いて敷金などの初期費用のお金も貯めて、ようやく自分で部屋を借りて。これでやっと就職活動を始めることができました」

たった一人で誰も頼ることなく、就職活動をスタートさせた松原さん。狙ったのは、IT業界だ。

「なぜかといえば、金が稼げそうだから(笑)。2000年当時はITという言葉さえ一般的ではなく、もちろん私もコンピュータなんて触ったこともなくって。ただ直感的に『これからはパソコンとかプログラミングが来る』と思った。人間は追い込まれると、生き残るための本能が働くんでしょうね

とはいえ、大学中退で一般企業での勤務経験はゼロ。「60〜70社は受けた」と振り返るが、履歴書の時点でほとんど落ちてしまったという。

ただ幸いだったのは、IT業界自体が黎明期で積極的に未経験者を採用していたこと。そして松原さんの面接での評価が抜群に高かったことだ。

「面接まで進めたのは3社だけでしたが、その全部から内定をもらいました。知識や技術などのハードスキルで評価されるなら、私はどこにも採用されなかったはずです。でも『ここで生き残るためなら何でもやってやる』という強い意志や、コミュニケーション力などのソフトスキルを評価してもらえて。実際、入社して分かったのですが、ハードスキルは後からいくらでも身に付けられるんですよ」

毎日深夜3時まで猛勉強。苦手な仕事をあえて引き受け、スキルの幅を広げた

松原さんが入社したのは、システム開発の受託企業。ここで新人エンジニアとしてのキャリアが始まった。そして先ほどの言葉通り、人一倍の努力を重ね新人の域を超えるハードスキルを身に付けることができたという。

「『ITの世界で生きていく』と覚悟を決めていたので、最初から目標は明確でした。一つは、エンジニアとして早く一流になること。もう一つは、30歳までに年収1000万円になること。就職した当時の手取りが月13万円程度だったので、周囲は『無理に決まっている』と笑いましたが、私はもちろん本気でした」

とにかく目標を達成することだけを考え、他のことには脇目も振らず猛勉強。仕事を終えて帰宅した後、大体夜10時から深夜3時まで、最低でも5時間は勉強するのが当時の日課だった。しかも担当業務に必要なことだけでなく、興味を持った分野に関して片っ端から勉強したという。

アーカス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 松原晋啓さん

「そのうち、プログラミングを勉強していたのに、なぜかマーケティングに詳しくなったり、セールスの話ができるようになったり、契約関係の法律まで理解できるようになった。自分の枠を決めずに何でも勉強した結果、エンジニアとしての知識や技術だけでなく、ビジネス全般で求められる幅広いスキルが自然と身に付いたんです」

さらに仕事では、嫌なことや苦手なことのカバーに励んだ。

自分が得意じゃないことは、仕事でやることにしたんです。仕事なら、どんなに嫌でもやらざるを得ないじゃないですか。だから苦手な仕事ほど、自分から手を挙げて積極的に引き受けました。私は根っからの理系人間で学生時代から英語はまったくダメでしたが、仕事では英語の文献も必死に読み込みました」

アクセンチュアにヘッドハント、マイクロソフトに転職。
圧倒的な成果を挙げ、目標の年収1000万円を達成

そして2年後、21歳の若さで松原さんはある企業からヘッドハントされる。それが世界最大のコンサルティングファーム、アクセンチュアだった。

松原さんが働いていた会社はいわゆる孫請けで、IT業界でも決して有名ではない。しかも当時のアクセンチュアは海外の一流大学や日本の一流大学院で博士号を取得した高学歴のエリート揃いで、最終学歴が高卒の人間を採用するのは極めて異例だった。

そのアクセンチュアから、なぜ声が掛かったのか。それは松原さんの実績が業界内で注目を集めたからだ。

「社会人2年目に総勢300人規模のある大型プロジェクトに孫請けとして入ったのですが、私が参加した時点で予定より1年近く進行が遅れていました。そこで私が勝手に仕事のやり方をあれこれ改善し始めたら、孫請けの上にいる会社から『君が陣頭指揮をとってくれ』と言われ、お客さまも含めたプロジェクト全体の推進チームのリーダーを任されたんです。私がアサインされて1年後には、1年遅れていたプロジェクトを当初より5カ月も前倒しで完了させることができました」

アーカス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 松原晋啓さん

その評判が知れ渡り、松原さんの手腕に目をつけたアクセンチュアからスカウトされたというわけだ。「実はアクセンチュアという会社をよく知らなかったんですけどね。『今の2倍の給料を払う』というので、転職することにしました」と笑うが、入社後も会社が期待する以上の成果を出し続けた。

こんな調子でアクセンチュアでもずば抜けた成果を出し続け、3年後には名実ともにグローバルでトップクラスのエンジニアに上り詰めた。「エンジニアとして一流になる」という目標を早くも達成した松原さんは、他のスキルを極めて自分の強みをさらに増やそうと思い立つ。

そしてアメリカのソフトウエア会社が日本法人の立ち上げを任せられる人材を探していることを知ると、「こっちの方が面白そうだから」とあっさりアクセンチュアを辞め、新しい道へと踏み出した。

「日本法人の代表はアメリカ人の通訳でしたが、日本のこともビジネスのことも何も知らないので、実質的な経営者は私。マーケティングから営業、プロダクトのローカライズまで、すべての領域を手掛けながら日本法人の経営を軌道に乗せました」

この時点でも松原さんはまだ24歳。その若さで経営のスキルを身につけ、年収は900万円にアップした。そして自分がいなくても日本法人のビジネスが回る体制を作り上げると、また新しい強みを身に付けられる場所を求めてマイクロソフトへ転職する。

「今度は組織として完成している業界トップの企業に入れば、経営や業務について体系的な学びを得られると思った。それがマイクロソフトを選んだ理由です」

本人はさらっと話すが、入りたいと思ったからと言って誰もがマイクロソフトへ転職できるわけではない。だが技術から経営まで一通りの経験を積み、しかもその全てで成果を出してきた人材なら、どんな会社も断る理由はないだろう。

そして転職後、25歳で年収は1000万円の大台を突破。19歳の時に掲げた目標を見事に達成した。

アーカス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 松原晋啓さん

「総合力」で自分をブランド化できたから、今のキャリアがある

マイクロソフトではCRM(顧客関係管理)製品の担当を任され、新たな顧客を次々に開拓。それまで苦戦していた売上を飛躍的に伸ばした松原さんは、その後も自分が組織した専門チームを率いて、さまざまな企業でCRMの導入や新規事業の立ち上げをリードした。

その後転職した企業から独立分社化し、現在代表を務めるアーカス・ジャパンでも事業を急成長させ、「どんな環境でも何をやっても結果を出せる経営者」としての評価を確かなものとしている。

「私がなぜ“高卒・ホームレス”から今のキャリアを築くことができたかといえば、20代で自分をブランド化できたからです。私のブランドは何かといえば、『総合力』。好きなことも嫌なことも全部やり、技術でもマーケティングでもセールスでも、一流と評価してもらえるだけのスキルをつくり上げました」

松原さんが早くから人の上に立つポジションを任されたのは、弱点がなかったから。そしてそれを実現できたのは、「どんな人生を送りたいのかを考えたから」だと続けた。

「自分が成し遂げたいことから、やるべきことを見定めて、貪欲に取り組む。つまり、自分の生き方をマネジメントしてきたからこそ、これまでのキャリアを築けてきたのだと思います」

そして20代の若手世代には、「何事も情熱を持ってがむしゃらに取り組んでほしい」とメッセージを送る。

「若いうちに『こんな仕事はやりたくない』と取捨選択していたら、その時点で可能性が閉ざされてしまう。仕事で経験することは全てビジネスにつながるのだから、無駄なことなんて一つもありません。全てを極めるつもりで何でも一生懸命にやればいいんです。それが30代以降のキャリアの選択肢を増やしてくれます」

アーカス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 松原晋啓さん

「情熱を持ってがむしゃらになれるのは、若さの特権です。体力も気力もあるから、全力で頑張れる。成功する人は、誰もが人並み外れた努力をしています。今は『自分らしく働こう』という考え方が主流だったり、そもそも残業ができない環境だったりするとは思います。でも、やっぱり『努力は絶対に裏切らない』というのは真理。そのことをぜひ若い人たちに伝えたいですね」

取材・文/塚田有香 撮影/桑原美樹


RELATED POSTSあわせて読みたい


記事検索

サイトマップ