80歳で不動産会社を興した専業主婦――亡き夫への無償の愛を顧客に向け、営業として生きる/和田京子不動産
営業という仕事は楽しいばかりではない。会社を休みたいと思うことなんて日常茶飯事だろう。そのたびに、ふと頭に浮かぶのは「自分は何歳まで働くのだろうか。一体いくつくらいまで営業という仕事への情熱を持って働き続けることができるのだろうか」という漠然とした不安ではないだろうか。
そんな営業マンの不安と憂鬱(ゆううつ)を吹き飛ばしてくれるような人がいる。和田京子不動産株式会社の代表取締役社長、和田京子さんだ。
和田さんが起業をしたのは80歳のとき。それまでは営業経験どころか社会で働いたこともない専業主婦だった。現在85歳にしてキャリアは5年目。「働くことが楽しくて仕方ない」と語る彼女の笑顔は、私たちに営業マンとして働く喜びの本質を教えてくれた。
社会人経験なしの専業主婦が80歳で社長になった理由
転機は、最愛の夫の死だった。77歳のときに長年連れ添った伴侶と死に別れ、和田さんは文字通り抜け殻状態だったという。
笑顔を失った祖母に、日々の楽しみを見つけてもらいたい一心で、孫の昌俊氏が提案したのが「学校へ行くこと」だった。1930年生まれの和田さんにとって、学生時代の日本は戦火のさなか。校舎は焼け、教師は徴兵された。今では当たり前の学校へ行くことすら和田さんにはままならぬ夢だったことを思い出し、資格取得を考えたのだった。
「職歴と呼べるものは何もない。そんな私でも目指せるのが宅建の取得でした」
宅地建物取引主任者試験に年齢制限はない。和田さんは専門学校に通い、勉強を始めた。宅建は暗記力がモノを言う。80歳を目前に控えた和田さんには、若い時分以上に困難だったはずだ。しかし、和田さんは「もう夢中でした」とうれしそうに振り返る。教室に通うこと。板書をとること。青春時代に学ぶ機会を奪われた和田さんにとって、それは60年越しのスクールライフだったのだ。
夢中になって勉学に励んだ和田さんは、奇跡を起こす。79歳にして、合格率16%の難関試験に合格。80歳で自宅に「和田京子不動産株式会社」の看板を掲げ、8畳の客間で不動産業を始めたのだ。これまで家庭を守ることだけに人生を捧げてきた、一人でお茶も映画も行けない、古き日本の女性。パソコンも扱えなければメールも打てない和田さんは、電話対応さえ最初は及び腰だった。しかし、彼女は「相手を幸せにしたい」という一心で、瞬く間に顧客の信頼を獲得していった。
そもそも和田さんが不動産業に関心を抱いたのは、自らの体験がきっかけ。和田さんは過去7度、家を購入したが、度々悪徳業者にだまされ、欠陥住宅を買わされた経験がある。一生に一度の大切な買い物で、こんなことがあってはならない。その想いが、和田さんを動かした。
顧客の幸せを守ることが使命
相手を幸せにしたいがあまり、儲けは度外視。目指すのは世界一良心的な会社だ。その証拠に、和田さんは買主から仲介手数料を取らない。一般的に、不動産会社は買主売主の双方からの仲介手数料で収益を挙げている。当然、利益は半減するが、和田さんは全く気にしない。
「仲介手数料0を掲げていますが、お客さまも最初は半信半疑みたいで。『和田京子は本当に手数料を取らなかった』って評判がお客さまの間で広まって、全国からいろんな方がご相談をくださるようになりました」
また、いついかなるときでも顧客からの電話に対応できるよう、和田さんは愛用のiPhoneを肌身離さず持ち歩いている。食事の時も入浴の時も、寝る時でさえコールが鳴ればすぐに目を覚まし電話に出る。その理由について和田さんは次のように話す。
「何か相談したいなと思った時に、お店が閉まっていたら困りますでしょ。実際、お勤めの遅いお客さまで22時過ぎに事務所を訪れる方もいらっしゃれば、夜中に相続税に関する相談の電話が来ることもあります。時には、不動産には何の関係もない人生相談の電話もありますが、もちろん出るようにしています」
24時間営業、年中無休の不動産会社。なぜここまでできるのか。その答えもまた和田さんの経験によるところが大きい。
「10年間、昼夜を問わず病に倒れた夫の看病に徹してきました。その間、寝間着に着替えたことは一度もありません。夫亡き後、その献身の対象がお客さまに移っただけ」
和田さんが営業をする上で最も大事にしていることは、「嘘をつかないこと」。そして、起業してからの5年間で身に付いたものは、「人を見る目」だと言う。
「不動産仲介業は、お客さまにとって防波堤の役割を果たさなくてはいけないんです。知識不足に付け込んで買主に不利な条件で契約しようとする業者からお客さまを守ることこそが、私の使命だと考えています」
もしもその物件や業者が信頼できないと感じたら、たとえそれが契約の直前で顧客が買いたいと言っていても、『買わないでください』と言えるという。
「私が損をするだけならいいんです。でも私が黙っていたら被害に遭うのは、一番大切にしているお客さま。見過ごすわけにはいきません。それでもお客さまが聞いてくださらない時は『私は売りたくないのでよそで買ってください』ってお願いするようにしています」
営業がつらかったら、ちょっと休んだっていい
商売人と呼ぶにはあまりにも不器用。しかし、人間としては誰よりも誠実。そんな和田さんの人柄を信頼し、多くの良質な顧客が和田京子不動産株式会社を訪ねるようになった。
「一番嬉しいのは、京子社長って名前を呼んでもらえること。それまでは、ずっと『奥さん』や『お母さん』。名前を呼んでもらうことはほとんどありませんでしたから」
仕事は自分という人間を認めてもらえるもの。だから楽しい。とはいえ、85歳の身体で仕事を続けるのは並大抵の気力ではない。和田さんも余暇のない毎日に「栄養が枯れて、心身ともに細ります」と打ち明ける。それでも、昔よりもずっと明るくなったと家族は口をそろえ、和田さんも「今が一番楽しい」と笑顔だ。その情熱の根底には何があるのか。
「私は結核を患って、22歳の時に肺の一部を切除、肋骨も4本失いました。その頃からずっと専業主婦として生きていく道しかないと思っていました。ですから、こうして働けるだけで楽しくて仕方ないんですよ」
これだけ働き者の和田さんと自分を比べて、恥ずかしくなる人もいるのではないだろうか。だが、和田さんは「それでいいじゃないですか」とどこまでも温かい。
「私が好きなのは、大塩平八郎の『身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐れるのみ』という言葉。つらい時はつらいと言ってもいいじゃないですか。嫌なら嫌って言ってもいいじゃないですか。心が死ななければそれでいいんです。だから、嫌になったら一日くらい会社を休んだらいい。そしたらまたやる気になります。そして、そのうち休みたいなと思っても、次の日に後ろめたい気持ちで出社する億劫さを思えば、今日頑張ろうって気になります(笑)。人間は自分で自分を育てていくもの。だから自分で自分を大切にしてください」
和田さんの夢は、100歳まで元気に働くこと。彼女の営業マンとしての情熱の炎は今まさに燃え始めたばかりなのだ。
取材・文/横川良明 撮影/赤松洋太
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