「漢字は書けないが、汗・恥・命は誰よりもかける」5つの営業でトップに上りつめた高卒社長のリベンジキャリア論
良い学校を卒業して、良い会社に就職して、高収入を得る……というのが、世の中の王道エリートコース。そんな中、「名前を書けば入れるような地方の高校卒業、未だに漢字もうまく書けない」にも関わらず、何千万もの年収をたたき出す男がいる。プライム・アソシエイツの桑原正守氏だ。彼は、訪問販売の新規営業職として、5つの会社でトップに輝いた経歴の持ち主である。
なぜ桑原氏は、年収何千万も稼ぐスタープレイヤーになれたのか。彼のキャリアから、その成功マインドを学んでみよう。
「社長になりたかったら、5つの営業でトップになれ」
見知らぬ人の言葉から始まった営業人生
新潟県十日町市に5人兄弟の4番目として生まれた桑原氏。彼の両親は結婚当初、牛小屋の2階を借りて藁の上で寝食を過ごしていた程に貧しかった。その後、父が土建業を開業したことで、子ども5人をなんとか育てていったのだという。貧乏から脱却するために身を粉にして働く父を、家族全員が尊敬する。そんな家庭で育った彼にも自然と、‟稼いでいる人が一番偉い”という価値観が醸成されていった。
「今の時代には合わないかもしれませんが、我が家では‟稼いでいる父が世の中で一番偉い”という暗黙のルールがありました。自分たち5人兄弟には食べるものがほとんどないのに、父だけは肉を食べているような光景が日常茶飯事。だからこそ、幼い頃はとにかく早く大人になって社長になり、お金を稼いで肉をたらふく食べたいと思っていましたね」
ただ、桑原氏は子どもの頃から、大の勉強嫌い。不幸にも小学生の頃に事故で大けがをしたのがきっかけで、学校の勉強に全くついていけなかった。中学に入っても勉強は苦手なまま。そして県内で最も偏差値の低い、「名前が書ければ入れる高校」に入学することになる。王道のエリート街道からは外れた彼は、大学進学の道に進むこともなく就職を選んだ。
「卒業後は『東京に行けば社長になれるかもしれない』と思ってすぐに上京しました。とりあえずお金を稼がなきゃな、という安易な考えからウエイターの仕事に就いた。配属先が銀座だったので、おおなんか凄そうだな、ラッキーだなと。今思えば、行き当たりばったりなんですがね(笑)」
上京した高揚感と、ウエイターとしての楽しい毎日。それこそ最初のうちは“そこそこ上手く”やってはいたものの、今の仕事を続けていても社長になることはできない。漠然とした不安や焦りを抱えながら毎日を過ごしていた桑原氏は、何かを変えたいという一心で、大金をはたいて経営のセミナーに参加した。そこで、彼の運命が変わる出会いがあったのだ。
「その時出会った方にたまたま、『君、社長になりたかったらフルコミッションの営業で資本金をつくりながら、経営者に必要なメンタルや感覚を身に付けた方がいいよ』と言われたんです。その人は、未だにどこの誰だったのかも分からないんですけど、何をすれば良いのか分からず不安だった僕には妙な納得感があって。その人が『5つの会社でトップ営業になったらホンモノだ』と言っていたので、とにかく素直に聞き入れてみようと思いました」
そんな見知らぬ誰かからのアドバイスを真に受けるのも行き当たりばったりな桑原氏らしいが、何をすればよいか分からず焦っていた当時の彼は、藁をもつかむ気持ちだったのだろう。桑原氏はすぐにウエイターの仕事を辞め、営業職になるチャンスを求めて就職情報誌を買いに走った。
営業に大切なのは「発明すること」と「居座らないこと」
初めての営業の仕事は、新聞の販促員。個人住宅を一件ずつまわって、新規で新聞契約を取っていく仕事だ。精神的にも肉体的にもつらい仕事であることは想像に容易い。さらに営業マニュアルや研修などはほとんどなかったというが、そこで桑原氏は営業の才能を発揮することになる。
「僕は勉強はできないけど、自分で考えたアイデアを実践してみることは得意だったんです。例えば新聞を売る時って、1件1件インターフォンを押して、新規開拓していきますよね。ほとんどの場合、居留守を使われるからお客さまに話を聞いてもらうことすら出来ないんです。でも、知らない人がいきなり訪ねてきたら無視したくなるのは当然。そこで僕は、自分のお客さまに『絶対に押し売りはしないので、隣の人の家のインターフォンを鳴らしてくれませんか』と頼むんです。顔なじみのご近所さんになら、居留守は使わないですよね。そしてお客さまが出てきたら、誠心誠意こめて話を聞いてもらう。そうすれば、新聞営業だって難しい新規開拓ではなく、比較的ハードルの低い紹介営業に変わります」
「そういったアイデアを考えるのは誰よりも得意なんですよ」、と桑原氏は笑いながら話したが、その発想は営業の本質を突くものだった。
「ちょっとしたアイデア一つで、全く売れないモノが面白いように売れていくようになるんですよね。これは僕の持論ですが、営業って『発明する仕事』だと思うんです。いかに発明して実践していくか、シンプルにそこが売上を上げるコツだと思っています」
とはいえ、新規開拓の営業と言えば、断られることも多くストレスフルなイメージも強い。そういった苦痛はなかったのだろうか。
「もちろん怒られたり嫌な思いをすることだってあるけど、『これをやらなきゃ社長になれないんだ』って思うとそんなことで立ち止まっていられなくなります。それを本気で信じていたから、モチベーションの高さが周りとは違ったんですね。そしてそんな前向きな気持ちになるためには、現状に満足して一つの場所に決して居座らないことが大事。慣れている仕事である程度成果を出しているからいいや、と自分の限界を勝手に決めてしまうのはもったいないです」
実際、桑原氏は1つの職場でNo.1を取ったら次の会社、というように転職を繰り返している。『5つの会社でトップ営業になる』という宣言通り、新聞の販促員に始まり、受験教材、エアコン・ステレオ、化粧品、情報商材……と、関わったすべての営業においてNO.1を達成していくのだ。
くすぶっている時こそ、生まれ変わるチャンスだ
「社長になる」という幼いころからの夢を叶え、現在も高い年収を維持している桑原氏。満足のいくキャリアを描けたと微笑む彼曰く、人生の成功には‟くすぶっている人”にこそチャンスがあるのだという。
「まず、自分は今くすぶっているんだ、という自覚があることが成功への第一歩だと思います。例えば今、ルビーを手元に持っているとして、別の綺麗なダイヤを持っている人を見たら、どう感じると思いますか? きっと『私のルビーの方がキレイだな』と慢心したり、『あんなダイヤを持っているなんて、何か悪いことでもしたのでは』なんて批判したりします。だけど、自分が持っている物が鉄くずだったらどうでしょう。『私もあのダイヤが欲しいな、鉄くずなんて嫌だ』と思いますよね。その例えと一緒で、自分の状況が良くないと分かっている方が状況を変えやすいんです。半端にルビーなんか持っていると、それを手放せなくなってしまうでしょう」
くすぶっている自分が嫌、という気持ちがエネルギーに変わっていく。だからこそ、良い学校を出たとしても、そこそこの居場所に落ち着いてしまう方が怖いのだと語った。
「その分、僕は勉強もできなかったし、学歴も経験も何も持っていなかった。東京に出てきただけで、ないないづくしの若者だったんです。だからこそ、今の状況を変えたいという強いエネルギーで、行動を起こし続けることが出来た。漢字は書けないけど、汗や恥や命なんかいくらでもかけてやれるぞ!ってね(笑)」
くすぶっていることを自覚し、決して現状に満足しないこと。そうすればどんな状況からスタートしたとしても、必ず“リベンジ”することが出来る。桑原氏のメッセージは、まさに「うまくいかない」と悩む若手営業マンの未来を明るく照らしてくれるものであった。
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取材・文・撮影/大室倫子(編集部)
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