侍ジャパンを追いかけた元新聞記者→トップ営業へ! 20代で“憧れの仕事”を捨て、フルコミッションのプロの世界へ進んだ男の話
学生時代に憧れていた仕事。だけど就職活動を経ていざ社会に出てみると、やりたい仕事が他に見つかったり、新しい夢が生まれてくることもある。
勇気を出して挑戦するか、今の仕事で頑張ってみるのか。迷える20’s読者へのヒントとして、ある男のキャリアを紹介したい。
野球日本代表『侍ジャパン』担当のスポーツ新聞記者から、外資系生命保険会社の営業マンへと大胆なキャリアチェンジを選択した中村大悟さん。就職時の倍率も高く“自分の希望とも合致していた仕事”であったはずのスポーツ記者だが、彼はなぜ20代で異職種への挑戦を選んだのだろうか。
“1位を取れない男”がスポーツ記者でトップを目指した
中村さんが社会人として最初に選んだ職業は、スポーツ新聞の記者。これは、学生時代までのプロフィールを見れば納得の選択だ。野球推薦で名門・早稲田実業学校に入学。大学から始めたレスリングでは短期間で日本トップクラスに上り詰め、全日本大学選手権で準優勝を果たした。輝かしい結果を残しているが、本人の心中は複雑だった。
「高校時代、私の代は西東京大会ベスト4で終わりました。早稲田実業といえば“ハンカチ王子”こと斎藤佑樹選手が一年下の後輩。彼らは甲子園に行って優勝したので、『あと1年早く頑張ってくれよ』なんて思ったりしましたね(笑)。私はというと、大学から始めたレスリングでも全国2位で終わった。『やるからには1番になりたい』と思ってきたので、それが果たせなかったという心残りがどこかにありました」
そんなジレンマを抱えつつ、「社会人になってもスポーツに関わりたい」という動機で選んだ就職先がスポーツ新聞社。そして、入社翌年には北海道日本ハムファイターズ担当の記者になった。
「担当になった理由は、私が斎藤の先輩だったから。この年に彼が北海道日本ハムファイターズに入団して“佑ちゃんフィーバー”のまっただ中でしたから、上司から『中村は先輩なんだから話せるよな?』と言われて(笑)」
斎藤投手とのつながりからスタートした北海道日本ハムファイターズ担当記者の仕事だったが、そこから中村さんは他の選手たちや球団関係者とも人脈を広げ、他紙が書けないスクープ記事をいくつも連発するなど記者として頭角を現していった。
「新聞記者の仕事は、いかに取材相手と信頼関係を築くか。特に選手の結婚や引退といったスクープ記事は、選手本人の許可がなければ書けません。だからこそ、『君なら書いていいよ』と選手に選ばれるような記者になるため、他紙の記者が誰もいない朝早くから球場に通いつめるなど差別化を図っていきました」
「自分の実力で勝負する世界に飛び込みたい」
プロ選手を見ていたら、勝負師の血が騒いだ
地道な努力と実績が評価され、入社5年目には読売ジャイアンツの担当に抜擢された。これは同紙(スポーツ報知)でも担当記者の人数も厚めに配される重要なポジション。さらに中村さんは野球日本代表チーム“侍ジャパン”の担当も任され、若手記者のエースとして地位を確立していく。ところが、侍ジャパンの担当になったことが、彼のキャリアを大きく変えることになる。
「日本を代表する超一流の選手たちに一日中張り付き、間近でその様子を見るようになって気付いたんです。『彼らは、常に5万人の観客からのプレッシャーと戦っているのだ』と。一見すると華やかな世界にいるようなプロ野球選手ですが、日本代表に選ばれるほどのトップ選手であっても“生きるか、死ぬか”という重圧に押し潰されそうになりながら勝負をしている。それに比べて、狭いマスコミの世界で周囲からちやほやされていい気になっている自分が恥ずかしくなりました。私も彼らと同じように、自分の腕一つで勝負するような厳しい世界に飛び込んでみたい、そう思うようになったんです」
自分と選手たちのこの差は、どこから生まれるのか。そう考えて気付いたのが、報酬体系の違いだったという。自分はサラリーマンだから、結果が出ても出なくても毎月の給料はもらえる。だが年棒制の野球選手たちは、結果が出なければ翌年は報酬が大幅にダウンし、最悪の場合は解雇。まさに「All or Nothing」の環境に身を置いているのが、“プロ”と呼ばれる人たちだ。中村さんはそう考えた。
「自分もプロとして報酬を得られる仕事に就きたいと思って探した結果、見つけたのがフルコミッション(完全歩合制)の外資系生命保険の営業でした。営業の仕事は、自分の成績が数字で明確に順位付けされます。学生時代にやり残した『1番になりたい』という目標を今度こそ叶えるためにも、営業の仕事はぴったりだと感じました」
全く未経験の仕事で、しかもフルコミッションという厳しい世界へ飛び込むことに、「もちろん内心では不安や怖さを感じてました(笑)」と振り返る中村さん。それでも、「自分ならできる」という自信はあったという。
「営業の仕事もスポーツ新聞の記者と同じで、『相手と信頼関係を作ること』と『相手から選ばれること』が求められるから未経験でも自信があったのだと思います。『中村になら話すよ』と『中村からなら加入する(契約する)よ』というのは、どちらも根本では同じことじゃないですか。信頼関係をつくるということに関しては記者時代にひたすらやってきましたから、営業でもきっとできるなと。20代の今だからこそもっと挑戦して、自分の可能性にかけてみたいという気持ちが勝ちました」
営業でやることは「自己紹介」と「聞くこと」の2つだけ
その言葉通り、中村さんは入社後の1年間で新人としては圧倒的な営業成績を残す。社内表彰制度で初月および初年度の新人記録を塗り替え、新契約の契約高と年換算保険料でもルーキーチャンピオンに。生命保険・金融専門職の世界トップクラスのメンバーだけが加入資格を得るMDRT(Million Dollar Round Table)も、入社後10ヶ月という短期間で該当した。一体、中村さんはどんな営業スタイルでお客さまの支持を得たのか。
「営業でやることは、基本的に2つしかないと考えています。それは、『自己紹介』と『聞くこと』。これは新聞記者も同じですが、得体の知れない人間がいきなりやってきて話をされても、怖いだけですよね。だから私はまず、自分の人となりを知ってもらいます」
自分を知ってもらったら、次は相手のことを聞く。それも普通の営業なら相手の年収や家計の支出といった数字を押さえようとするが、中村さんは「その人が迷惑をかけたくない相手」と「その相手に関する思い出」をひたすら聞き出すという。
「聞くことについても、元新聞記者なので得意分野。結婚している方なら、たいていはパートナーが『迷惑をかけたくない相手』ですから、ご夫婦の出会いからプロポーズまで印象的なエピソードを聞いて、改めて”大切な人への想い”を思い出してもらうんです。その上で、『あなたにもしものことがあったら、パートナーはどうなるでしょうか?』と考えるきっかけを提供し、その解決策として、適切な保険をご提案する。生命保険の本質は『自分に万一のことがあった時に、遺された大切な人たちに経済的な保障を届ける」ことにあります。普通の商品とは違って『自分のためにお金を使う」買い物ではないんですね。生命保険の必要性を実感していただくには、日常の中ではなかなか意識しないお客さまの話から大切な人への“愛”や“感謝”などの感情を、しっかり見つめて再認識してもらうことが重要なんです」
「現状維持は退化」今が一番であれば、過去にはすがらない
営業と新聞記者に共通点を見出し、前職で身に付けた経験とスキルを存分に生かして活躍する中村さん。今では既に「営業を極め、真のプロになる」という夢の次を見据えていた。
「新人の中では1番になることができましたが、次はジブラルタ生命の全営業社員の中で1番になりたい。さらには会社の枠を越えて、生命保険業界をより良くできる存在になるのが目標です。自分が周囲に影響を与えられる人間になって、もっとお客さまの役に立つ業界に変えたい。転職のきっかけは『プロになりたい』という自分自身の想いが動機でしたが、今は人のために頑張りたいという使命感が一番のモチベーションです」
多くの人が憧れる仕事を20代で手放した中村さんだが、過去の栄光にすがる様子は全くない。過去を振り返らない理由は、「現状維持は退化だからです」。10代の頃からの念願だった「1番になる」という目標も達成した。転職のきっかけになった「プロになる」という夢も果たし、現在は人のために役に立つことも意識しながら日々の活動に取り組んでいる。後悔しないキャリアを歩むには「今日の自分が、今までで一番良い」といえるような成果を出し続けること。中村さんの生き様は、そんな大事なことを20’s世代に教えてくれる。
取材・文/塚田有香 撮影/大室倫子(編集部)
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