【READYFOR米良はるか】29歳で半年間会社を離れた起業家が出した結論「20代は自分に無限の期待をかけるべき」
どれだけ頑張りたいと思っても、人生には立ち止まらねばならない時がある。結婚、出産、病気、介護、家族のさまざまな事情。これからの時代、自分の気持ちだけで全力で走り続ける人生を送るのは難しいものだ。
日本初・国内最大級のクラウドファンディングサービスである『Readyfor』を立ち上げた米良はるかさんも、そんな壁にぶつかった一人。29歳の時、手塩にかけた事業の経営から一度手を引いた。しかし31歳になった今、米良さんはまた立ち上がり、READYFORの未来を作るために奮闘している。「今振り返ると、私がまたこうして走り出せたのは、20代の頃にひたすら高い目標を追い続けたからこそ」と微笑む彼女に、“イイ20代の過ごし方”を聞いた。
「20代が終わるまでに、人生を1周させたい」
目の前の仕事にがむしゃらだった私
私は22歳の時にスタンフォード大学に留学していたのですが、その時に衝撃的な出来事がありました。24歳の女性起業家が「自分の事業をGoogleにバイアウトして、これからまた次のチャレンジをする」と瞳を輝かせて発表していたんです。
同世代の女性が、自分が作ったものを世の中に出して、もう次のステージへ進もうとしている。「この人は私と年齢もそう変わらないのに、もう人生が1周したんだ」と、強い焦燥感に駆られたことを覚えています。
そして「私も20代が終わるまでに、彼女みたいに“人生を1周”させたい」と思ったんです。
その後すぐに、インターネットやビジネスについて猛勉強。以前、自ら立ち上げたチャリティーサイト『チアスパ!』を通じて「バンクーバーパラリンピックのスキーチーム日本代表のワックス代100万円を寄付で集める」というプロジェクトを実施しました。その経験から、誰かのやりたいことを応援できる仕組みをインターネットによって実現できないかと考えて。支援される側・する側が長期的にリレーションをつくって、喜びを分かち合うようなサービスをつくりたいと思ったんです。
当時、既にアメリカでは200以上のクラウドファンディングサービスが立ち上がっていたので、それらを研究・分析し、論文にまとめました。そして準備を重ねて、24歳の大学院生の時に『Readyfor』を立ち上げたんです。
そこからは四六時中、仕事のことで頭がいっぱい。丸ごとオフの日なんて一日もないくらい働いていました。クラウドファンディグというビジネスのことも、『Readyfor』のことも、世界で一番自分が時間を使い、魂を込めてやっているという自負がありましたね。
その時は、「20代が終わるまでのあと6年で、早く人生を一周させなきゃ」と焦っていました。別に事業をバイアウトしたいとか、最年少で上場したいとか、そういう明確な目標があったわけではありません。何をもって「1周した」ことになるのか、何をどうすれば「自分の目標を達成した」ことになるのかも分からず、漠然とした目標に向かって走り続けていたという感じ。早く、もっと早く、って常に焦燥感に駆られていました。特に、30歳が近づいてきた、20代後半はずっとそんな感じでしたね。
そんな私の人生が変わったのが29歳の時。何となくずっと調子が悪いなと思って病院に行ったんです。病名が分かるまで2カ月くらい検査を受け続けて、最終的に「悪性リンパ腫」という血液のガン宣告を受けました。
すぐに治療に専念することになり、これまで私の全てを捧げていた仕事を、全てストップせざるを得なくなった。その時は「なんで私が……」と、目の前が真っ暗になったような気がしましたね。
「私がいなくても会社は成長する」
自分と事業を切り離したからこそ見えてきたもの
治療に専念すると決めてからは、メールやSlackも見るのを止め、当時COOだった樋浦を共同代表に据えて私は完全に経営から離れました。
そうやってREADYFORから離れてみると、「米良はるか」という自らの名前を丸ごと失った感じがしたんです。「READYFORがなかったら、私って一体何者なんだろうなあ……」とアイデンティティーを喪失してしまったような。つらい、苦しい気持ちでいっぱいになってしまって。それまでは自分がいなければ会社は成長しないし、会社を成長させなければ自分の目標にも辿りつけないと思っていましたから。
でも、そういうふうに考えるってことは、それまでは私自身と会社を同化させて見ていたんだなあと気付いたんです。このままじゃ苦しいだけだから、意識的に会社と自分を切り離そうと思って。
そうして客観的に会社を見ると、READYFORはたくさんの人に愛されて、たくさんの人が成長させてくれている、「私とは別の人格」になっていることに気付きました。会社は私の手を離れても走り続けていけるんだと、安心するような寂しいような気持ちになりました。
療養中の私にできることがないのなら、これまでやってみたかったことを片っ端からやろうと思ったんです。私の場合は、同じ病気になった人の5年生存率が85%~90%だと分かったので、闘病中はむしろポジティブで。歴史書を中心に本を100冊くらい読んだり、朝ヨガをしたり、ペン字の通信講座も受講したし、それまでほとんどしたことのなかった料理も始めたんですよ(笑)
でも、そうやって「やりたいことをやろう」と過ごしているのに、気付くといつも頭に浮かんでいるのは新しい事業やアイデアのことばかりだったんです。「こんな事業もやってみたい。こういうビジネスもかたちにしてみたい」って。
その時に「あぁ、READYFORから離れても、私は結局アイデアを考えてそれを形にしていくことが好きなんだな」って気付きました。しかも30歳になった私は、20代の時に全力で仕事をした分、自分が得意な仕事やワクワクできる作業が何かが分かってるし、協力してくれる周りの人たちもたくさんいる。もしこれから何か始めたとしても、きっとそれをカタチにしていけるんだろうなと思えたんです。それが、また私の新しいアイデンティティーとして備わっていくんだろうなって、心が晴れていくような気持ちになりました。
20代の頃に「正解がない目標」に突き進んだから、今もこうして走り出せる
今振り返ると、29歳で一度立ち止まって自分を見つめ直せたからこそ、自分ががむしゃらに突き進んできた道は間違ってなかったって再認識できたし、自分がこれから進むべき道も明確になっていったと思うんですよね。おかげで今では、自分のやりたいこと・やれることと会社のあるべき姿がちょうどクロスしたところで、より一層思いを込めて仕事ができています。
闘病中には「今まで頑張りすぎたのかなあ」と思ったこともありましたけど、それでも私は20代の頃に、自分に無限の期待とプレッシャーをかけてきてよかったと思っています。
若いときって、自分のことをよく分かっていないから、何でもできそうだし、何にもできなさそうじゃないですか。だからこそ「今月はこれをやり遂げます」みたいな目の前の具体的な目標じゃなくて、「20代で人生を1周させる」なんてあいまいな目標を自らに課せたんだと思います。
正解がない分、成功する可能性だって無限に広がってるし、どれだけ頑張るかも自分次第。私の場合は「どうやったらそこへ到達できるんだろう」って試行錯誤しているうちに、自分の好きな仕事や得意なことが分かるようになったし、協力して応援してくれる人をどんどん増やすことができたんだと思います。
そして一般的なキャリアでいうと、20代後半から30代って、結婚や出産をする人がいたり、中にはつらいけれど、私のように病気にかかってしまう人もいるかもしれません。長い人生ですから、自分の意志に反して働くことを中断せざるを得ないタイミングがくるかもしれない。
だけど20代のうちに、とことん自分の可能性に期待して、いろんな経験をしてみる。そうして自分の強みや武器となるものを磨き続けていれば、例えキャリアが中断したとしても、何度でも立ち上がって走り出していけるんじゃないかと思います。
取材・文/石川 香苗子 撮影/吉永和久
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