31歳で塚田農場副社長になった“現場マニア”が、20代で接客の最前線から外れた理由
JR新橋駅にほど近い烏森神社の参道に暖簾を下げる『烏森百薬』。カフェと居酒屋という二つの顔を持ち、メニューは他店の名物料理を出すという斬新な経営で注目される人気店だ。
他にも特徴の異なる新店を次々にオープンさせ、コロナ禍でも勢いを止めないのが、ミナデイン代表の大久保伸隆さんだ。前職は、居酒屋チェーン『塚田農場』などを展開するエー・ピーカンパニーで、31歳で副社長まで昇りつめた。
「現場が大好きだったけど、20代半ばからはあえて接客の最前線から身を引いていた」という大久保さん流の「いい20代の過ごし方」とは?
「飲食店の現場が好き」入社3カ月で繁盛店の店長に
僕が独立してオーナーとして初めての店『烏森百薬』をオープンしたのが2018年夏のことです。その前は11年、地鶏居酒屋チェーン『塚田農場』を全国展開するエー・ピーカンパニー(以下、AP)にいたのですが、とにかく店に立つのが大好きな現場マニアで。
20代で繁盛店事業部長や営業本部長という役職に就かせてもらい、31歳で副社長になってからも、ずっと店長をやらせてもらっていました。役員になっても店長をしている人なんて、誰もいませんでした(笑)
なぜ飲食店の現場が好きなのか。その原点は大学生の時のアルバイト経験に遡ります。高校までスポーツに明け暮れ、大学に入った時点では特に将来の志望もなく、とりあえずアルバイトを手当たり次第始めてみたけれど、何も続かない。
1年で10種くらい辞めて、「自分に問題があるのかな」とモヤモヤしながら、次にトライしたのがたまたま居酒屋だったんです。
そこでは先輩に恵まれ、お客さんにも仕事の楽しさを教えてもらって、一生懸命働きました。そして就職が決まって迎えた最終出勤日、なんと30席ほどの店内が僕が仲良かった常連さんで埋まったんです。ネクタイやら名刺入れやら、たくさんの就職祝いをもらって、「こんなに人と温かい関係を築ける仕事なんだ」と感動しました。
すでに入社が決まっていたのは不動産系の大手企業でしたが、この出来事をきっかけに「1年で辞めて、飲食業界に転職する」と決めました。
配属された営業チームで、新卒トップの成績を取ってから退職。当時、まだ『塚田農場』をリリースする前だったAPに入社しました。当時APはまだ新しい会社だったので、営業以外の店舗運営の仕事もできるんじゃないかという期待もあったんです。
入社して3カ月後、いきなり『わが家葛西店』の店長を任されました。何も分からないところから必死に勉強しながら店長を務めたのですが、アルバイトで培った接客術が生きて店は大繁盛。1年後には、「新しくできる塚田農場錦糸町店に行ってくれ」とオファーをもらえたんです。
僕は1店目で実績をつくれたことで自信を付けていたともあり、意気揚々と新店準備をしたことを覚えています。
大好きだった「接客」を手放す決意
当時僕は20代半ばで、それまでの社会人人生は順調そのもの。しかしここで強烈な挫折を味わいます。僕が新店に移った途端、以前店長を務めていた葛西店の売り上げがガクッと落ちたのです。つまり、お客さんやスタッフが僕だけについていた。チェーン店の店長としてあるまじき失態です。
それから「やり方を180度変えないといけない」と反省し、以後は自分が前に出て接客することは一切せず、アルバイトさんに任せると決め、それを徹底的に貫くようにしました。
結果、覆面調査で「輝いていないスタッフ」のワースト1位に2回も選ばれちゃったんですけどね(笑)。でも、それが自分自身と店の成長のために必要な転換なのだと、何度も自分に言い聞かせました。
「接客とはなんたるか」を一人一人に伝えるために、研修をしたり、毎日メルマガを書いたり、朝礼で毎日喋ったり。現場の不満を聞いて、解消する方法を試してみたり。いろんな手段で、「自分以外のみんな」を動かせるリーダーになる努力をしました。
現場からマネジメントへ。お客さんとのコミュニケーションが好きな人ほど、悩む問題ですよね。20代から30代にかけてのターニングポイントとして、悩んでいる人も多いのではないでしょうか。
僕も最初は不安でした。自分に自信がないから、常に自分が主役になっていないと不安だったのだと思います。でも、変わる決意をして真剣に試行錯誤していくうちに、だんだんそっちの方が楽しいと思えるようになっていきました。
その頃には店のみんなも楽しそうで、お客さんもよく入るようになっていて、「この方が自分もラクだな」と気付けたんです。
このときの経験から、失敗をしたら、その原因は何かとしっかり振り返って、同じ失敗をしないように工夫する。改善策をできるだけ具体的な行動にまで落として、実際に試して効果を見る。その繰り返しでしか、人間は成長しないことを学びました。
その後、副社長になって会社を辞めるまで、僕はずっと店長として影から現場を見守り、そこから得た気付きを経営にも生かすようにしていました。
20代で焦って将来を決めなくたっていい
APに入った頃は「30歳で独立して、自分の店を持ちたいな」とぼんやりとした目標を描いていましたが、会社がどんどん成長するにつれて見えてくる世界が面白くて、気付けば35歳までいましたね。今振り返ると、「焦って早く独立しなくてよかった」と思います。
店を出すだけなら25歳でもできたと思います。すでに繁盛店を作ったという実績はありましたから。でも、25歳の時の僕の視野と、35歳の時の僕の視野は、広さが全然違う。
店づくりだけなら25歳までの経験でできたかもしれないけれど、35歳までに経験してきたさまざまな学びがあったから、今の僕は異業種とのコラボレーションもできるし、新しい挑戦に貪欲になれるのだと思うんです。
おかげさまで自分の店を開いてから、軌道に乗せることができて、コロナ禍でも客足を落とさなかったのは、20代の頃に染み付いたPDCAのサイクルあってのこと。存続の危機に直面している地方の名店の料理を再現して支援する『絶メシ』の企画も、常連さんや新しいお客さんに喜んでいただけました。
といった僕の経験を踏まえて、今の20代の人たちに何か一つ、アドバイスをするとしたら、「焦らないでいい」ということですかね。焦って将来を決めようとせず、今いる場所でできることを続けていく。
突然何が起きるのか予測不能な世界に僕らは生きていて、10年経つ頃には、世の中の価値観も大きく変わっている可能性がある。そのときに判断しても何も遅くないし、僕がそうだったように、時間をかけて身に付けられる視点や学びはたくさんあるはずです。
若くしてすぐに活躍できるような特別な才能を持つ人は、ほんの一握り。僕も含めて大多数の凡人は、時間を味方にして成長していけたらいいのではないでしょうか。
どこに成長の時間をかけるのかは人それぞれですが、自分の仕事をじっくり観察してみると、「この部分なら、他の人より秀でることができそうだ」と発見できるポイントが何か一つはあるはず。それを探して磨くことに集中できるといいと思います。
何となく20代を過ごして、「この国って物価は安いけど、特に観光するところがないよね」みたいな、イマイチな観光都市のような人材になったら、残念じゃないですか(笑)。シンガポールやニューヨークみたいに「分かりやすいアイコン」がある方が、周りに人は集まりやすい。
だから、30代以降の仕事人生を楽しむには、「あの人にはこれがあるよね」とアイコンが立つ人材になるための力をつけられるといいんじゃないかなと思います。
僕の場合はそれが「店舗運営」でした。店舗が好きな気持ちは誰にも負けていないと思ったから頑張れたし、周りにも「現場のことはあいつに任せよう」と認めてもらえたのだと思います。
自分なら、どんなアイコンがつくれそうか。多分、そのヒントは身近にあります。僕も目の前の仕事の改善の繰り返しで、世界がどんどん広がりましたし、「自分にはコレだ」という自信をつけることができました。
今も、大好きな「店舗」を軸に、新しいプロジェクトも続々と仕込み中。20代の頃には想像もつかなかった広い世界を、最高に楽しんでいます。
取材・文/宮本 恵理子 撮影/桑原美樹
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