バブリーダンス生みの親・akane「挑戦は“情熱ファースト”で。人生を変えるだけの熱量は、一生でそう何度も湧いてくるものじゃない」
2017年、あるダンスが日本列島を席巻した。まだ鮮烈に覚えている人も多いだろう。女子高生たちがソバージュにボディコン、濃いめのメイクでキレッキレに踊る大阪府立登美丘高校の“バブリーダンス”は日本中に衝撃を与え、その年の紅白歌合戦に出場するなど一大旋風を巻き起こした。
この“バブリーダンス”の生みの親・akaneさんは今や振付師としてさまざまなCMやイベントの振り付けを手掛けている。競争の厳しいダンスの世界でプロになる夢を叶えた彼女は、20代も後半に差しかかってきた今だからこそ、こうきっぱりと断言する。人生を変えるだけの熱量は、そう何度も湧いてこない、と。
生徒の前でも平気で「もうあかん」「できひん」って嘆いてました(笑)
――akaneさんがダンスを始めたのは3歳からとのことですが、小さい頃から将来はダンスに関わる仕事がしたいと思っていたんですか?
そうですね。ダンスの先生になりたいって言っていました。
――とは言え、ダンスだけで食べていける人ってごくわずかですよね。
周りに言っても、「それでご飯食べていけるん?」っていう感じでしたね。高校を卒業して大学に進学したのも、「せめて大学ぐらいは出てた方がいいんじゃない?」っていう親の希望からで。でもダンス以外やりたいことはなかったので、舞踊学科がある東京の日本女子体育大学に進学を決めたんです。
――東京の大学在学中に、母校である大阪の登美丘高校ダンス部のコーチをされていたんですね。コーチ時代にメディアに出ている姿を見ましたが、akaneさんってすごくパワフルなイメージで、弱音を吐いたり迷ったりしなさそうですよね。
全然そんなことないですよ! むしろコーチをやっていたときなんて生徒の前でも平気で「もうあかん」「できひん」とか嘆いてましたから(笑)
――そうなんですか!? 練習中の厳しそうな姿を見てたから……。
作品ができると立場が逆転するんです。「私は良いものつくったから、後は頑張れよ!」って。でも振り付けを考えている間は「無理」「もう嫌や」ばっかり。それを見て、いつも生徒たちが励ましてくれていました。
踏み出す勇気が出ないときは、他人の力を借りるのも大事
――最終的にダンスの道で生きていこうと決断したのはいつですか?
22歳の頃だと思います。舞踊学科と言っても、約90人いる大学のクラスメイトの半分くらいは一般企業に就職を決めてて。一時期、私も就職を考えたんですけど、踊りながら会社員として働くのは無理やなって思って、一瞬で就活サイトのページは閉じました(笑)
――親御さんはなんと?
「大阪に帰ってこい」って。それはそうですよね。東京に残ったところで現実的にダンスで食べていける方法もないし……。それで、大学を卒業したら大阪に帰ることになって。とは言え、お金もないし、これからどうやってダンスを続けていったらいいんやろうって。あのときはしんどかったし、不安でした。
――その迷いや不安を吹っ切った瞬間はありましたか?
新しい目標を決めたときですね。
――目標?
『Legend Tokyo』という振付作品のコンテストがあって、「それに出場したら?」ってダンサーの先輩に勧められたんですよ。それが、大阪に帰ることを決めた22歳の年末のことで。予選会は、年が明けてすぐの4月。時間もお金もなかったからどうしようって、めっちゃ不安だったんですけど、先輩が「絶対大丈夫!」って背中を押してくれたんです。
その後押しがあったおかげで、やってみようと決めました。予選のエントリーが1月1日だったんですけど、ドキドキしながら「えい!」ってエントリーボタンを押したあの瞬間が、私にとって「一歩踏み出した瞬間」だったなって思います。
――一歩踏み出そうとするとき、一人の力では難しいことってありますよね。
そう思います! それに他人に背中を押してもらって、後戻りができない状況をつくるのも大事なんですよ。いつまでもウダウダ言ってても仕方ないし、やるって決めたならもう動くしかない。
あのときはお金もツテも何もなかったところからスタートしたので、コンテストに出るために「一緒に出てくれへん?」と全然知らない人にも声を掛けていました。自分でもよくやったなって思うくらい一生懸命やった。
でもそれは私一人じゃ決断できなかったし、あそこで出場するって決めてなかったら絶対ダラダラ過ごしてたなって(笑)。自分に全然自信がなかったからこそ、そうやって周りの人から「大丈夫!」って言ってもらえたことで一歩踏み出せたのかな、と思います。
挑戦は、一歩踏み出してからの方がしんどい
――先輩の「大丈夫」で背中を押されて、動き出せてからはどうでしたか?
正直に言うと、一歩踏み出してからが、一番しんどかったです。
――しんどかった?
「ここで結果出さなきゃ未来がないんや」って必死でしたし。作品をつくるにもお金がないから親に頭を下げて貸してもらって。そのときも「お金がないのに作品つくるな」ってすごく怒られました。
バイトをしたらよかったんでしょうけど、やっぱり一つ作品をつくろうとすると、時間もパワーもすごくいるから両立は無理でした。お金がないってこんなにつらいんやな……って何回も思いましたね。
――めちゃくちゃリアルな話です……。
ただ、これは今の立場だから言えることなんですけど、そうやってお金もなくて、時間と情熱だけがあり余っていたあの1年が、私にとって一番エネルギッシュな1年でした。
登美丘高校ダンス部の振り付けは大学の頃からやってたんですけど、大阪に帰ってきたことで、今までより本格的に指導をするようになって。初めて日本高校ダンス部選手権で優勝したのもその年のことでした。これがそのときの動画です。
私がダンスの道で生きていくと決めたきっかけとなった大会『Legend Tokyo』でも、審査員賞をもらって結果を出すことができました。
Legend Tokyo終演!
審査員賞
国際ダンス・プロデューサーの視点
をいただきました!🙏💗支えてくれた家族と仲間たち
一生懸命頑張ってくれた生徒たちに
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。応援ありがとうございました! pic.twitter.com/ksf1ZieUte
— 𝕒𝕜𝕒𝕟𝕖 (@akachanmaaaaaan) September 23, 2015
この時期は、とにかく表現したいことがありすぎるっていう感じでした。自分の時間を全部創作活動のために使って、美術館に行ったり、いろいろインプットをしたのもこの年。2018年に発表した「万博ダンス」のベースを考えたのもこの頃です。
とにかくいっぱい作品をつくったし、その年につくった作品は「良いのがつくれたな」って今でもお気に入りです。
――でも大会に出るとか、公立高校のクラブのコーチを引き受けるって、それだけで生計を立てられるわけではないですよね。なぜそんなに一生懸命頑張れたんでしょうか。自分のキャリアの足掛かりにできればという考えもあったんですか?
大会は自分の振付師としてのキャリアに直結しますが、部活のコーチに関してはまったくなかったです! そのときは今のようにTVに出るような振付師になれたら、なんてことも全然考えていなくって。
でも強いて言うなら、絶対結果を出すぞという気持ちは本気でした。とにかく大会に出て賞を獲る。それだけを考えて、目の前のことに必死。でも、そうやって何か目標があったから、お金がなくても頑張れたんだと思います。
「湧いてくる熱」に正直であれ
――akaneさんの場合、背中を押してくれる人の存在が“始めの一歩”を踏み出すきっかけになりましたよね。そういう存在が周りにいなかったら、どうやって「一歩」を踏み出せばいいと思いますか?
簡単に「失敗してもいいから行動しようよ」とは言えないので、難しいですね……。特に今だからこそ、そう思います。正直に言うと、私自身が昔みたいに「とにかく何でもやってみよう」っていう熱が持てなくなってきているので。
――「とにかく何でもやってみよう」の熱が持てなくなってきた?
はい。何かにチャレンジするとき、「失敗してもいいから行動した方がいい」というのは、それは絶対です。たとえ失敗しても、意外と誰も見てないから気にしなくていいというのも本当。たぶん2〜3年前の自分なら、「まずは行動してみたら」って答えていたと思うんです。
でも、行動を起こするにはそれなりの熱量が必要で。その難しさが分かったからこそ、今は簡単に「行動したらいいやん」とは言えないです。
――熱量がないと行動は起こせない。なぜそう思ったんでしょうか?
すごくよく覚えているのが、バブリーダンスの次の年のこと。作品としては良いものをつくれた自信があったんですけど、大会で思うような結果を出せなくて。そのとき、「大会に負けてもいいから、自分たちが一番良いと思える作品をちゃんと見せることが大事」って生徒に言ったんですよ。
そのときはそれが本当の気持ちだったんですけど、後から考えたときに「そんなこと言うてたら大会では勝たれへんな」と思いました。自分が昔のように戦う気持ちになれていないことに気付いて、こんな自分じゃ生徒たちに教えることはできないなって。それで、コーチを辞めたんです。
――そうだったんですね……。一歩踏み出すことに対して自分の熱量が持てないなら、「行動すればいい」とは言えないと。
そうです。だから逆に言うと、ちょっとでも熱を感じるなら絶対に行動した方がいい。
私は今、28歳ですけど、10代後半から20代前半の自分の熱量はとんでもなかったな、と思います。吸収率も高かったし、周りの人のキラキラしているSNSを見て、「コイツには負けたくない!」って気持ちがすごかったですから(笑)。今はそこまで嫉妬とか負けん気って持てない。
ツンツンケンケンしてて、もしかしたら周りの人から見たら「尖っているな〜」と思われていたかもしれないけど、そういう時期って貴重だったなと思います。
それがいつ来るのかは誰にも分かりません。私にとっては10代後半から20代前半だっただけで、もしかしたら20代後半になって火がつく人もいるかもしれないし、それは人それぞれ。
ただ、そんなふうに人生を変えるだけの熱量は、長い一生の中でそう何度も湧いてくるものじゃない。そういう情熱を持てる瞬間は、本当に奇跡みたいなものなんですよ。だから、そのタイミングは見逃さない方がいいし、自分の熱に対して正直であることが大事なんだと思います。
取材・文/横川良明
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