27歳、SHOWROOM最年少部長が直面したコロナ禍の“エンタメ危機”。新規事業『smash.』立ち上げで乗り越えた壁
2020年10月、SHOWROOM株式会社が新しいバーティカルシアターアプリ『smash.』をリリースした。
その第1弾で登場したのは、オンライン初解禁のHey! Say! JUMP。その後も乃木坂46、GLAYなど従来のインターネットコンツンツのスケールを打ち破る第一線級のアーティストやアイドルによるコンテンツをつくり出し、話題をさらっている。
その事業責任者が嵐亮太さんだ。27歳にしてSHOWROOMの未来を背負う事業を任された嵐さん。「大きなことに挑戦するのは、もともと得意ではなかった」と話す。
そんな嵐さんが、人生最大の挑戦である『smash.』の立ち上げを通じて学んだことを聞いた。
仕事のことを楽しそうに語る友人。自分は「このままでいいのか」
――SHOWROOMでは、新規事業の立ち上げに自ら手を挙げて参加したそうですね。ただ、チャレンジするのはあまり得意ではない?
もともとはそうですね。昔から「挑戦」という言葉は好きでしたし、「挑戦する人」はカッコいいな〜と思っていました。でも、自分が何でもかんでも挑戦できるタイプかというと、そうでもなくて……。
20代半ばくらいまでは、ずっと自分に自信がなかったんですよ。だから、何か大きな判断をするときほど、つい腰が引けちゃって。
――リクルート出身と聞いていたので、意外でした。
リクルートに入ったのは、いずれ起業したいという気持ちがあったからでした。そのための素地をつくるという意味ではリクルートはすごくいい会社なんですよ。教育体制が整っているから、どんな人でも一定の成果を出せる環境が整っているし、ギリギリ手が届かないレベル感の仕事を任せてくれるし。
ただ逆に言うと、僕が積極的にアクションを起こさなくても環境のおかげである程度の成果を出すことができた。そこにちょっと引っかかる自分がいて。
――なるほど。
しかも、代理店やベンチャーに勤めている友人はめちゃくちゃ仕事に打ち込んでいて、久しぶりに会った時とか、すごい楽しそうに仕事の話をするんですよ。それで、「今の自分でいいんだろうか」という危機感が湧いてきて……。
――ええ、分かります。
当時の僕は、何をやるかという領域に対する絶対的なこだわりもなく、「やりたいこと」と言われてもそれがよく分からなかった。でも、よくよく考えてみると、子どもの頃から大のテレビっ子で、エンタメ業界への憧れがずっとあったんですよね。
果たしてこのままエンタメ関連の仕事に挑戦せずに、30歳になってもいいんだっけ? という葛藤がどんどん膨らんできて……。
――その悩み、分かるとしか言えない……。
そんなこともあって、自分で何か新しい事業を立ち上げるならエンタメかなと思って興味を持ったのが、ライブ配信でした。その中でSHOWROOMのことも知って。
だから、どちらかと言うと最初はSHOWROOMに転職しようと考えたわけではなく、ライブ配信について知りたくて、調べていくうちに面接を受けてみた、という感じなんです。
ここで挑戦しなければ、もう「挑戦の道」を選べないと思った
――実際に、SHOWROOMに転職しようと思った理由は?
代表の前田(裕二)と話をした時に、今のまま働いても絶対に30歳になった時、この人みたいになれていないなぁ、と思っちゃったんですよね。それぐらいカッコ良かった。
たぶん僕が前田をカッコいいと思ったのは、確固たる自分への自信がみなぎっていたから。自分に自信を持てない僕だからこそ、まっすぐにビジネスのこと、自分のことを語る前田に惹かれるものがあったんだと思います。
――とは言え、当時(2018年)のSHOWROOMはまだ知る人ぞ知るスタートアップ。リクルートのような大手から飛び込むのは勇気がいりませんでしたか?
僕、内定をもらってから入社まで4カ月かかってるんですよ。その間、ずっと周りから止められていて。たぶん前の上司とは12〜3回は会議室で話したと思います。リクルートにいた方が安泰だぞ、っていう助言ももらいましたし(笑)
――最終的に決断の決め手になったのは何だったんですか?
ここで一歩踏み出す選択をすることができなかったら、今後の人生、もう挑戦の道を選べないなと思ったからです。
これだけ一生懸命考えても、自分で自分の背中を押せないなら、きっと死ぬまで挑戦しない人生になる。
やっぱり僕は挑戦が好きだし、挑戦する人に憧れていたから。そんな自分になりたくて、不安はいっぱいあるけど、ここで挑戦してやるんだって心に決めました。
悲願の新規事業。そこで訪れたコロナ禍の危機
――今、嵐さんはバーティカルシアターアプリ『smash.』の事業責任者として活躍されていますよね。『smash.』に関わるきっかけとなったのは?
忘れもしない、2020年の僕の誕生日です。前田から「誕生日おめでとう」ってDMが来て、その続きに「『smash.』に興味ない?」って(笑)
――フランク(笑)。で、なんて返したんですか?
「興味あります! やらせてください!」って。
ただ、これも周りの人からめちゃくちゃ止められたんですよ。と言うのも、『smash.』の構想自体はもうその1年半前から動き出していたんですけど、いろいろな理由でなかなか前に進んでいなくて、正直うまくいっていなかった。だから、関わるとちょっと大変そうだし、やめといた方がいいんじゃない? って。
ただ、『smash.』は前田が人生を懸けて取り組んでいる新事業で、携わっている人たちも日本トップクラスの方たちばかりです。
どんなにカオスな状況でも、その中心に立って仕事ができたら、未来の自分にとって必ず血となり肉となると思った。だったら、やるしかないなと。
――そして、事業責任者になるわけですね。
はい、ところが、ちょうどその頃、新型コロナウイルスの感染拡大が深刻になり始めて一回目の緊急事態宣言が出ました。
ご存じの通り、コロナ禍はエンタメ界に多大なダメージを与えました。業界全体がひっくり返ったような状態で、『smash.』も、このまま推し進めるのではなく、サービス提供の予定時期を後ろ倒しにして、事業計画やサービス概要を再考する決断をしました。
――コロナの影響って、ある種、人の力が及ばないところがあるじゃないですか。そうした不可抗力にどのように立ち向かっていったのでしょうか?
『smash.』というアプリに限らず、SHOWROOMという会社が、エンタメ業界を立て直すために何ができるかという根本のところを、改めて一社一社ヒアリングするところから始めましたね。
当時は緊急事態宣言が発令されて、ライブイベントは軒並み中止。これからこの業界がどこに向かって進んでいけばいいのか誰も分からない状況でした。
だからこそ、まず知るべきは、今現場で何が起きているのか、われわれに対して何が求められているのかということ。
経産省の方や業界団体の方ともコンタクトを取って、『smash.』をつくるための話ではなく、SHOWROOMという会社がひっくり返ったエンタメ業界をどう立て直すかという目線で対話を重ねていきました。
――そうした対話から見えてきたものは何ですか。
ライブ配信の価値です。ライブイベントが行えない中、多くのエンタメが無観客ライブをはじめとした配信に活路を見出すようになりました。
ライブ配信で言えば、SHOWROOMには設立以来培ってきた一日の長がある。特に、集客力の高いグループやタレントがライブ配信を行うとしたら、それに対応しうるだけのサーバや配信技術が必要。
それをSHOWROOMとしてしっかり提供していくことで、既存のエンタメ業界になかった新しいマネタイズ手法を提供できれば、と考えました。
信頼獲得の理由は、パートナーとして業界の話をし続けたこと
――ご自身は転職先で初めて「事業責任者」という立場になったわけなので、チームマネジメントも最初は難しかったのでは?
そうですね。コロナ禍でリモートワークも始まり、メンバーとのコミュニケーション量は放っておくと減ってしまうので、とにかく毎日会話することは意識していました。1日のうちにメンバーと電話を20~30件はしていたんじゃないかな。
画面越しとはいえ、今まで以上に顔を見て話す機会を増やすことで、メンバーの状態をなるべく細かくキャッチできるように心掛けました。
――すごいですね。嵐さんにとって、『smash.』をリリースするまでに最もチャレンジングだったことは何でしたか?
どれだけ芸能事務所さんから信頼を獲得できるか、ですね。
今でこそGLAYさんなど日本を代表するプロのエンターテイナーの皆さんにコンテンツ配信をしていただいていますが、そうした面々にご協力いただくには、新興メディアで過去実績が何もなかったとしても、われわれのサービスを信頼してもらわないといけません。
やっぱり新しいメディアを使うのってどの事務所さんも不安なんですよ。そこに参入することで、タレント価値を落とすリスクもありますから。そんな事務所さん側の気持ちを理解した上で、どうやって『smash.』を信頼いただくかが、最大の壁でした。
――嵐さんは、その壁をどう乗り越えたんですか?
最後まで事務所さん側の目線に立って話をし続けました。
僕たちが言い続けたのは、「『smash.』を使ってください」ではなく「一緒に業界を立て直しましょう」ということ。その上で、還元率や初期コストも含め、事務所さんの利益を本気で考えて提案をし続けました。
そうすることで、コロナ禍という誰も経験したことのない危機を前に、同じゴールを目指すパートナーとして認めてもらえたんだと思います。
その結果、立ち上げの段階からジャニーズさんや乃木坂46さんといった錚々たる顔ぶれに参加していただけ、いいスタートダッシュを切ることができました。
挑戦は楽しいだけじゃない。でも、なりたい自分に近づけるもの
――インタビューの冒頭で「自分に自信がなかった」と仰っていましたが、『smash.』の立ち上げを経てご自身に変化はありましたか?
そうですね。今回やってみて思ったのが、自信をつけるための一番の方法って、「決断する機会」を増やすことなんだなと。
事業責任者という立場に就いたことで、今までの人生の中でこの数カ月が一番「決断する機会」が多かった。人は受け身ではなく、自分で考えて自分で決断した数だけ、自信がついていくんだと学びました。
――なるほど。ただ、自分に自信がないからこそ、決断ができない場合もありそうです。
そこで大事なのは、決断するときに何を見ているか、です。どんな判断でも、必ずプラスの面もあればマイナスの面もあります。
転職が分かりやすい例ですよね。例えリクルートからSHOWROOMに行く時も、カッコいい大人になりたいというプラスの面もあれば、リクルートという大きな後ろ盾を失うマイナスもあった。
絶対にプラスしかない決断というのはほとんどないと思うんです。
――確かに。
だから、何かを判断した後は、想定していたプラスのものが得られたかを評価の基準にする。
それ以外にマイナスのことが起きたとしても、思い描いたプラスをちゃんと手に入れられていたら、それはいい判断だったということ。そうすれば、一つ自分の自信になる。
何かを判断するときにマイナスのことをずっと考えていたら、いつまで経っても判断はできないし、判断した後に、それによって失ったものばかりを数えていたら自信にならない。
プラスの判断をすることで、人は自信をつけていけるんだと思います。
――では、嵐さんにとって“挑戦”とは?
今は「いいものだ」とはっきり断言できますね。だけど、必ずしも挑戦することが楽しいこととは限らない。正直、『smash.』に挑戦する前より、今の方が100倍苦しいです(笑)
それでも挑戦するのは、その先に「なりたい自分」があるから。今回、『smash.』に挑戦したことで、今までの人生で今が一番「なりたい自分」に近づけている感覚があるんです。
挑戦は、なりたい自分に近づくためのもの。だから、僕はこれからも挑戦し続けたいです。
――最後に、嵐さんが今なりたい自分とは?
僕の父親が元外資系の証券マンで。バリバリの仕事人間で、相当年収も稼いでいたそうなんですけど、目標の年収に手が届きそうなタイミングでリーマンショックが起きてしまって、結局その年収には到達できなかったらしいんですね。
そんな父が病気になりまして。一緒に過ごせる時間にも限りがあるなと思ったときに、父親が元気なうちに、父親の目指していた年収を僕が超えた姿を見せてあげたいと思っているんです。
だから、前田にも「来年までにこれだけの年収が欲しいです」って具体的に伝えているんですよ(笑)。
なので、今の僕が持てる力のすべてを『smash.』というアプリに注ぎ、このサービスをますます大きくして、自分自身もその年収に見合う人材になるぐらいまで成長していきたいです。それが、僕の新たな挑戦ですね。
取材・文/横川良明
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