今のアメリカを知るならこの本!ピュリッツァー賞受賞ジャーナリストが書いた『熱狂の王 ドナルド・トランプ』

2016年にアメリカ大統領に就任して以来、話題を欠くことのないドナルド・トランプ氏。そんな彼の生い立ちや人生を描いた一冊を要約しました。著者はピュリッツァー賞を受賞したジャーナリスト。「ドナルド・トランプ」という怪物の誕生秘話を覗いてみませんか?

熱狂の王 ドナルド・トランプ

タイトル:熱狂の王 ドナルド・トランプ

著者:マイケル・ダントニオ 著/高取 芳彦、吉川 南 訳

ページ数:368ページ

出版社:クロスメディア・パブリッシング

定価:1,922円(税込)

出版日:2016年10月01日

 

Book Review

2016年のアメリカ大統領選挙は、民主党のヒラリー・クリントン氏と、共和党のドナルド・トランプ氏(以下敬称略)に絞られ、最後の最後までデッドヒートが繰り広げられた。どちらが次のアメリカ大統領になるのか、世界中の人々が選挙の行方に注目していた。それは、アメリカとの関係が深い日本でも、けっして例外ではない。
本書は、ピュリッツァー賞受賞ジャーナリストによる、トランプに関する評伝の決定版だ。トランプの強烈な個性と生き様が、「これでもか」というぐらい鮮明に描き出されており、読んでいるだけで頭がクラクラしてくるほどである。
また同時に、トランプについて知ることは、現代のアメリカの情勢を理解することにもつながるかもしれない。わざわざ言及するまでもなく、トランプの人格ややり方は、さまざまな方面から批判を浴びている。それは絶え間ない訴訟騒ぎや舌戦の様子を見れば明らかだが、一方でトランプを支持する人も多い。1992年に彼と離婚した、一人目の結婚相手であるイヴァナ・トランプですら、選挙戦でトランプを全面的に応援する姿勢を打ち出していたほどである。
彼は間違いなく、ある種の魅力を持った人物であり、それを見誤ると、昨今のトランプ現象を理解することは難しい。いかにして「ドナルド・トランプ」という怪物が誕生したのか、本書を読んでその真相に触れていただきたい。

「ドナルド・トランプ」ができるまで

勝利は絶対である

ドナルド・トランプは、父フレッド・トランプと母メアリー=アンの次男として、1946年に生まれた。メアリー=アンは気が強く活発な女性で、パーティの中心的な存在だった。一方、不動産業を営んでいたフレッドは社交性に欠けていたが、家でも毎晩のように仕事の電話をするなど、熱心に仕事に打ち込んだ。
フレッドはよく、子どもたちをオフィスや建築現場に連れていった。そして、野心や規律、勤勉さの重要性を強調し、「食う側になれ」とくり返し教えた。とくに、幼いころから自分に似ていたドナルドには大きな期待を抱いており、「お前は王なのだ」と何度も言い聞かせた。
ただ、小学生のころのドナルドは並外れた問題児であり、自分の思い通りにするためであれば、「ありとあらゆる方法」を試すような子どもだった。フレッドもドナルドの素行不良には頭を悩ませ、ついに1959年、8年生になったドナルドを、軍隊式教育で知られる私立の全寮制男子校、ニューヨーク・ミリタリー・アカデミー(NYMA)に転入させる。
ドナルドがいた当時はNYMAの全盛期で、同級生にはウォール街の銀行家や中西部の工場経営者、南米の独裁者、マフィアの息子がいたほどだ。厳しい規律と競争社会に囲まれたNYMAという環境のなかで、「勝つことがすべてだ」と悟ったドナルドは、強靭さや男らしさがものを言う環境にうまく適応していく。野球にも精を出し、地元新聞の見出しを飾るほどのスター選手にもなった。ドナルドは今でもよく、このときの成功体験が自己形成のうえで重要な意味をもっていたと語る。
NYMAを卒業すると、ドナルドは地元ニューヨークのフォーダム大学に進学する。父の仕事を継ぐつもりでいたため、自由な時間はたいてい家業を手伝った。そして、不動産業というのは取引と策略の世界であり、負け組とは「自分には理解できないゲームで他人が金持ちになっていくのを、指をくわえて見ている人間」のことだと考えるようになった。

荒廃するニューヨークのなかで

荒廃するニューヨークのなかで

フレッドの経営する会社は、ニューヨーク屈指の不動産物件保有数を誇るまでに成長していった。だが、1950年代から60年代のアメリカの多くの都市は荒廃しており、ニューヨークもその例外ではなかった。人種対立の影響が長期化する一方、中心市街地では企業が倒産し、雇用が失われ、人々の姿が消えていった。70年代に入ると、ニューヨークの人口は10%減り、史上初の2桁の減少を記録した。月に100棟を超える物件が放棄され、犯罪も増え、あらゆる地区がめちゃくちゃになった。
ドナルドはこの頃、フォーダム大学からペンシルベニア大学に編入しており、不動産のことを学びながら、週末はニューヨークで父の会社の仕事をするという生活を送っていた。そして、マンハッタンを見据えながら、世界一有名な高層ビル群をどういう姿に変えてやろうかと構想を練っていた。自分の能力に絶対の自信があり、心から成功を確信していたドナルドにとって、それは期待でも夢でもなんでもなかった。問題は、実現するかどうかではなく、いつ実現するかだけだった。
ドナルドは好機を待ちながら、その間、エンターテインメント産業に手を出し、ブロードウェイのミュージカルを共同プロデュースする。作品の評価はいまひとつで、上映期間も短かったものの、「ブロードウェイのプロデューサー」という肩書きを手に入れたドナルドは、有名な会員制のレストランやバー、ディスコに出入りするようになる。そこで、年長の実力者たちや美女たちと顔見知りになり、自身の影響力を高めていった。

交渉の天才、あるいは悪魔

ニューヨークの観光産業は、1969年から1975年まで縮小を続けていたが、それでも毎年10億ドルを超える収入を市にもたらしていた。当時のニューヨーク市長だったエイブラハム・ビームは、観光の再活性化を決意し、1977年と1978年の予算に会議場開発を盛り込み、建築候補地を3ヶ所指定した。その最右翼だったペン・セントラル鉄道の操車場の開発権を押さえていたのがトランプだった。
トランプの権利獲得の経緯を見ると、これまで築いていた人脈、かたくなな態度、本人の個性を頼みとする彼のやり方がよくわかる。中身より格好を重要視するトランプ流の交渉術は、その後の人生でも繰り返し使われることになる。政界人脈と内部情報を駆使して、初めての大仕事をものにしたドナルドは、自分が他人より優れているという確信を強め、有利な状況にある者は、それを利用してかまわないと考えるようになった。
次にトランプが狙いを定めたのがコモドー・ホテルだ。コモドーは1919年に開業し、数十年にわたり繁盛したものの、ライバルホテルの出現によって客足を奪われてしまい、1972年の時点で、客室は半分しか埋まらなくなっていた。しかしトランプは、潰れかけのコモドーにチャンスを見出す。
荒廃がつづくニューヨークでの開発には、多くの不動産関係者が二の足を踏んでいたが、トランプは世界金融の心臓部として優秀な実業家がひしめいていたマンハッタンを高く評価していた。そして、コモドーを復活させ、ニューヨークに商談に訪れた企業幹部や営業担当者が必要なものをすべて提供させれば、十分儲けを出すことができるはずだと考えた。
トランプはここでもたくみな話術を用い、必要であれば嘘を用いたり脅しをかけたりしながら、次々と交渉を進めていった。野心的な目標を定め、常に目標に集中し、障害があってもためらわない。そして自分が成功することを、信じて疑わない。その結果、トランプは見事コモドーを手中に収めたのである。

メディアの寵児としてのトランプ

トランプ狂想曲

トランプ狂想曲

トランプの名前が一躍有名になった大きなきっかけは、マンハッタンでのトランプ・タワーの建設だ。トランプは、トランプ・タワーの部屋を富裕層に売りたいと考えていた。金持ちは、必ずしも洗練された人ばかりではない――虚栄心や不安に訴えかける宣伝文句の効果を理解していたトランプは、イギリスのチャールズ皇太子とダイアナ妃が、トランプ・タワーの部屋の購入を検討しているという噂まで流した。これも、「世界で最も偉大な人々」のために建てられたというイメージづくりのためだった。
最終的にトランプ・タワーは完売し、購入者のなかにはマイケル・ジャクソンやスティーブン・スピルバーグといった大物も含まれていた。トランプ・タワーを買った多くの有名人たちと関係ができたことは、トランプにとって計り知れない価値をもたらした。これ以降、トランプは、どんなプロジェクトでも、自分の名前を冠することで、価値が上がると言いはじめるようになる。また、「有名であることが持つ力」を体感したことで、有名になることにそれまでの倍の力を注ぐようになった。毎日専属秘書に、自分に関する記事や映像のストックを続けさせているのは、トランプが「メディアに出ること」を重要視していることを示す格好のエピソードと言えるだろう。
トランプはあらゆるメディアに取りあげられるようになり、ドナルド・トランプという名前は、もはや富や野心の代名詞となった。初めての自伝である『トランプ自伝(The Art of the Deal=取引のアート)』を出版する際も、さまざまなメディアを惜しみなく利用し、ときには政治に口を挟むことで、注目度の向上を図った。そのかいあってか、トランプの自伝は数カ月にわたってベストセラー・シリーズに顔を出し、知名度を着実に高めていった。

この男、めげない

当然、人生はうまくいくことばかりではない。1977年、トランプははじめての結婚をする。相手はカナダのモントリオールでモデル業をしていたイヴァナという女性だ。だが、美人に目がないことを公言してはばからないトランプには、不倫の噂が常についてまわった。そして1985年、マーラ・メイプルズと出会ったことで、彼の結婚生活には本格的なほころびが出始めることになる。トランプとメイプルズは何度も逢瀬を重ね、当然それはイヴァナを怒らせた。トランプと2人の女性の関係は常にメディアで取りあげられるようになり、1992年、トランプとイヴァナは正式に離婚。その結果、トランプは多額の慰謝料を支払うことになってしまった。
また、新しく着手した航空事業や、カジノリゾートの「タージ・マハル」の運営が負債を生みつづけ、資産売却や追加融資の調達にも失敗するなど、この時期は仕事でも苦しんだ。さらに、腹心の部下であった3人がヘリコプターでの墜落事故で死亡したことも、トランプに追い打ちをかける。トランプはこの頃、彼の資産がゼロに近いかもしれないと主張する銀行家に表向きでは反論していたものの、メイプルズと一緒に道を歩いていたときに、ホームレスの横を通りながら、「あの貧しい男のほうが自分よりも資産を持っているかもしれない」とこぼしている。それでも、トランプは不安を決して表に出さずに、むしろ自分の能力の高さをひけらかし、責任を他に転嫁しつづけた。

初の選挙活動

初の選挙活動

さまざまなものを失ったトランプだったが、すでに彼にはアメリカで最も有名な男の1人というアドバンテージがあった。そして、有名であることを金に替える方法を、トランプほど熟知している者もなかなかいなかった。
トランプは自身の復活を宣言するカムバック・パーティーを主催し、1993年、メイプルズと正式に結婚する(99年離婚)。さまざまな所有資産を活用して債務を減らしていったことで、トランプの個人的財政は大幅に改善された。また、資金力のあるパートナーとともに興した新規事業が成功したことも、彼のカムバックを人々に印象づけた。
注目されることを何より大事だと考えていたトランプは、1999年に大統領選への出馬を決意。そのために、共和党の党員を辞めて、アメリカ改革党への鞍替えまで行った。トランプははじめ、左派的な主張を繰り返していたが、改革党の支持者たちにそれが受けないことがわかると、すぐさま右派的な主張に切り替え、他の候補者を中傷することで支持を集めようとした。
しかし選挙開始から2ヶ月後、トランプは突如選挙活動を終えることを宣言。このことについて、改革党党首パトリック・チョートは、「トランプが入党してやったことは、党の費用を使って自分のホテルと著書と彼自身の宣伝をすることだった」と憎々しげに振りかえっている。ともあれトランプは、公式に出馬しなかったにもかかわらず、自分を「選挙戦について語れる情報源」にうまく仕立て上げることに成功したのである。

※当記事は株式会社フライヤーから提供されています。
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著者紹介

  • Michael D’Antonio(マイケル・ダントニオ)

    フリージャーナリスト、ライター。
    プルトニウム汚染の脅威を追及した『アトミック・ハーベスト』(小学館)、感染症の恐怖を描いた『蚊・ウイルスの運び屋』(共著、ヴィレッジブックス)をはじめ、これまで10冊以上の本を上梓。『Newsday』の記者時代にピュリッツアー賞を受賞。

  • flier

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