田中洋一郎氏インタビュー:転職7回、請われ続けた理由は、「旬」より「ベース」を追求してきたから【ギークなままで、食っていく】
株式会社ミクシィ プラットフォームサービス開発部 開発グループ マネージャー/Google API Expert(Social)
田中 洋一郎氏
1996年からJavaでのソフトウエア開発にかかわり、以後ITアーキテクトとして活躍。2008年、Google API Expart ProgramのOpenSocialエキスパートに認定(現在はSocial全般を担当)。イベントでの講演や、書籍・技術系メディアでの執筆活動にも積極的に取り組む。2009年4月より現職。過去の転職歴は個人ブログ『天使やカイザーと呼ばれて』で閲覧可
<田中氏が「ギークなままで食い続けてこられた」ポイント>
1990年代にJavaが誕生してから、「おそらく日本でもかなり早いうちに」興味を持ち始め、以降Javaを用いたエンタープライズ開発の第一線で活躍してきた田中氏。幼少時からパソコン少年として鍛えてきた勘どころを発揮し、文字通りのアーリーアダプターとしてキャリアを構築してきた。
さらに、肩書きに「Google API Expert(Social)」とあるように、2000年代に入ってからはソーシャルアプリ開発という巨大ムーブメントの誕生にも立ち会い、すぐさま身を投じている。
この2つの技術領域にいち早く触れ、そこで得た知識を技術雑誌や書籍の執筆、講演を通じてコミュニティに還元してきたことが田中氏の知名度を高め、組織に請われ続ける土台を築いている。
ただし、田中氏がJavaやフレームワークに関する執筆を始めたきっかけは、在籍2社目のテンアートニ(現・サイオステクノロジー)に入社直後、「先輩たちが皆忙しいから田中が書いて」と無茶振り(!?)されたからとのこと。セレンディピティ(偶然をきっかけに幸運をつかむ能力)をうまくキャリアに活かしている点も見逃せない。
田中氏がほかのエンジニアたちと一線を画しているのは、長年、プラットフォーム開発(統合開発環境やフレームワークなど)を専門領域としてきた点。世間の注目を集めやすいアプリ開発に比べて地味な印象があるが、それが結果的に大きな差別化要因となっている。
プラットフォーム開発は抽象的なメタ思考が問われる領域であるため、この分野を得意とするエンジニアは決して多くはない。ニッチかつ高難易度な分野を攻めてきたのが、逆にエンジニアとしての希少価値を高めた形だ。
2008年から、個人としてGoogle API Expertプログラムの立ち上げメンバーとなり、現在もSocial関連コミュニティのコアメンバーとして活動している田中氏。この事実から分かるように、所属する企業に依存せずとも、周囲からの信用と技術力を兼ね備えたエンジニアであることは広く知られている。
ソーシャルの世界で影響力を増す田中氏の生み出すものが、今後新たなスタンダードになる可能性も高いだろう。
2度の「技術黎明期」に立ち会えたことがキャリアの糧に
社会人になってからの14年間で、転職は7回。一般的に見ると非常に多い転職歴を持つ田中洋一郎氏に、その理由を尋ねると、意外な一言が返ってきた。
「実はそんなに転職してきた実感がないんですよ」
なぜなら、過去の転職のほとんどが、田中氏が所属するプロジェクトチームごと請われる形での”移籍”だったから。Javaを用いたエンタープライズ開発で名の通っていた田中氏の力量を買い、仕事を任せたいという企業が後を絶たなかったのだ。
組織が変わっても請われ続けるキャリアを築いてきた田中氏は、ある幸運に導かれてここまで来たという。それは、ITの未来を大きく変える可能性を秘めた技術の黎明期に、その場に居合わせることができた幸運だ。
30代半ばにして、すでにこの幸運を2つも手にしてきた。
「大学を卒業するちょうど1年ぐらい前の1996年にJavaが登場しまして、卒業研究のテーマに選んだのもJavaでした。そのJavaでどうしても仕事がしたくて、2社目に選んだのが当時まだできたばかりのテンアートニ(日本におけるJava専門のシステム開発会社として有名になった)だったんです。雑誌で執筆活動をするようになったのも、以降Javaによるエンタープライズ開発にかかわるようになったのも、この会社に入社したことがきっかけ。なので、今でも思い入れは深いですね」
そして、もう一つがソーシャルアプリとの出合いだ。
「2007年ころ、当時在籍していた会社で『Facebook上でアプリが作れるらしいから、プロトタイプを作ってみないか』と依頼されたのが最初でした。実際やってみたらコレは面白い世界だぞ、と。それ以来、ソーシャルアプリの魅力にハマってしまいました」
2007年に自作のアプリ『こみゅすけ』がMash up Award 3rdで3賞同時受賞したのをきっかけに、人づてでGoogle関係者を紹介された田中氏は、その後、発起人の一人としてGoogle API Expertの立ち上げに参画。それ以来、OpenSocial分野のExpertとして、ソーシャルコミュニティにも深く関与するようになった。
「結局その流れで『OpenSocial入門』って本を出したりもしたんですが、プロジェクトの発表直後からOpenSocialへの参加を表明していたミクシィから入社の誘いを受けるとは思いもしませんでしたね。それまでずっと【Java×エンタープライズ】を中心に開発をしてきたのに、ミクシィで初めて【Perl×コンシューマーサービス】を開発することになったので、入社した当時はそれこそ業界が変わったような大きな変化を感じたものです」
どこでも通用する技術力は、ファンダメンタルを知ることで得られる
ただ、田中氏はこうした幸運に身を任せるだけで、今のポジションを手にしたわけではない。中学生のころ手にしたPCで8ビットのプログラムをいじって遊んでいた時代から現在に至るまで、興味の対象は一貫していた。その興味対象を愚直に深耕してきたことが、数多くの企業に請われる要因となっている。
「ソフトやアプリを作るより、昔からアプリを動かすための土台を開発する方に関心がありました。OSやプラットフォームの世界ですね。Javaで開発をしていた時から、統合開発環境やフレームワークの設計をしていたので、今やっているmixiプラットフォームの開発も、あながち畑違いとは言えないんです。どれも、土台の役割を果たすものですから」
なぜ、人の注目を集めやすいアプリ開発ではなく、プラットフォームのような”裏方仕事”に興味を持つようになったのか。それは、設計に必要な技術レベルが、より高度だからだ。
「8ビット時代を思い出すと、自分で書いたBasicやCのプログラムの下で動いているCP/MというOSが気になって仕方ありませんでした。MS-DOSが出てきた時も同じで、『このファンクションはどうなってんだ?』っていう疑問を感じて、ソースコードを見たい衝動に駆られていました。社会人になってJavaと出合い、ソフトウエアの世界にオープン性が出てくるにつれて、OSやプラットフォームの開発が好きなんだと自覚してきたと思っています」
設計には抽象的思考が要求される一方、上で動く多種多様なアプリの具体性も念頭に入れた想像力が試されるプラットフォーム開発。その難しさが、田中氏を強烈に惹きつけた。
「僕より優れたコードを書けるエンジニアはたくさんいます。でも、僕が目指しているのは自分でコードを量産することではなく、それを書く人たちに役立つものを作ること。OSやプラットフォームのように、ある世界観を自分の想像力で構築できる分野でデファクトスタンダードを生み出すのが、一つの理想形です」
つい先日も、名前こそ残らなかったものの、自分が書いたガラケーに関する英文ドキュメントが、アメリカでOpenSocialの標準を決めている組織に正式採用されたという。
「アプリ開発で評価されるより、実はこういう方が僕にとってはうれしいんです」
表層的なテクノロジーを習得すること以上に、ファンダメンタルを学ぶことに意義を感じ、それを極めたいと試行錯誤してきた。だからこそ、どの企業に移っても求められる「汎用的な技術力」を獲得できたのだろう。これも、ギークのままでキャリアを築いていく、一つの選択肢といえる。
取材・文/武田敏則(グレタケ) 撮影/小林 正、玄樹、竹井俊晴
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