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「外出困難者に“生きる理由”を与えるロボットを」人生40年計画で歩む吉藤オリィの迷いのないキャリア

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    サイトオープン10周年特別企画

    エンジニアのキャリアって何だ?

    技術革新が進み、ビジネス、人材採用のボーダレス化がますます進んでいる。そんな中、エンジニアとして働き続けていくために大切なことって何だろう? これからの時代に“いいキャリア”を築くためのヒントを、エンジニアtype編集部が総力取材で探る!

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    小さな腕をかわいらしく動かす遠隔分身ロボット『OriHime(オリヒメ)』。外出困難な障害者などがロボットを使ってコミュニケーションを取る様子を、メディアで見たことがある人もいるのではないだろうか。

    オリヒメ

    体を自由に動かせない人でも、『OriHime』を使えば、自宅や病院にいながらロボットがいる場所に“分身”できる。ロボットの側にいる人も、操作者と同じ空間に存在している感覚になれるのだ。

    そんな画期的なロボットを開発したのは、オリィ研究所代表の吉藤オリィさん。彼が目指すのは、“孤独の解消”。高校3年生の時にたった一人で始めた活動は、法人化を経て大きく成長し、今や数多くの人から支援を集めている。

    ところがオリィさん本人は、“コミュ障”を自称するほど人付き合いが苦手だそう。それにもかかわらず、ここまで会社を成長させてこられたのはなぜなのか? オリィさんが自らの意思で選び取ってきた道をたどった。

    プロフィール画像

    株式会社オリィ研究所 共同創設者
    代表取締役 CEO 吉藤 健太朗(吉藤オリィ)さん(@origamicat

    高校時代に電動車椅子の新機構の発明に関わり、2004年の高校生科学技術チャレンジ(JSEC)で文部科学大臣賞を受賞。翌年アメリカで開催されたインテル国際学生科学技術フェア(ISEF)に日本代表として出場し、グランドアワード3位に。 高専で人工知能を専攻した後、早稲田大学創造理工学部へ進学し、対孤独用分身コミュニケーションロボット『OriHime』を開発。 12年、株式会社オリィ研究所を設立。16年、Forbes Asia 30 Under 30 Industry, Manufacturing & Energy部門 選出

    「何かをしてもらう」ばかりでは、人は生きていけない

    ――オリィ研究所は、遠隔分身ロボット『OriHime』や、目や指先しか動かせない人のための意思伝達装置『OriHime eye+switch(オリヒメアイスイッチ)』など、社会参加の壁を越える数々のプロダクトを生み出してきました。今最も注力している活動は何でしょうか?

    最近は、外出困難な人が働ける方法をつくることに特に力を入れています。「分身ロボットカフェ」のプロジェクトでは、重度肢体障害者や難病患者などの体を自由に動かせない人が、ロボットの遠隔操作によってオーダーや配膳、接客などの仕事ができるカフェをつくりました。

    分身ロボットカフェ『DAWN ver.β』サイト

    >>分身ロボットカフェ『DAWN ver.β』サイト

    今はこの実験店を常設化するクラウドファンディングに挑戦中で、すでに3000万円以上の支援が集まりました。今年6月には日本橋エリアでの常設店オープンが決定しています。

    ――コミュニケーションロボットとして誕生した『OriHime』が形を変え、今は外出困難な人に働く場を提供しているのですね。

    元々は『OriHime』を使って、学校や職場に通えなくなった人が、元の居場所に戻る支援をしていました。でも中には、最初から居場所を持たない方や、戻る場所を失ってしまった人もいる。そういう人が社会参加できる状態をつくらなければならないと考えたんです。

    大切なのは、単にお金を稼げるようにするだけではなく、社会参加の実感を持ってもらうこと。人一倍誰かの手を借りないと生きていけない人にこそ、「何かをしてもらうだけではなくて、自分もその人のために何かができる」という、“投げ合い”の関係性が必要なんです。

    ――なぜそう考えるようになったのでしょう?

    私自身がかつて不登校で、3年半にわたり家族に迷惑を掛けるだけの毎日を過ごしていました。人は何かをしてもらうばかりでは、心の中が申し訳なさでいっぱいになってしまいます。生きていくために「すみません」「申し訳ありません」と言い続けなければいけないのは、非常につらいのです。

    実際、日本では年間約1000~2000人にALS(※)が発症していますが、そのうち7割は呼吸器を付けず、自ら死に至る選択をしています。生きることがマイナーな世界では、生きる理由を見つけなければならない。社会参加の実感を与えることは、そうした人たちの生きがいにつながると考えています。
    ※筋萎縮性側索硬化症。運動神経が損なわれ筋肉が痩せ細っていく病気

    吉藤オリィ

    会社存続の危機を救った、奇跡的な出会い

    ――“孤独の解消”に取り組むようになったのは、ご自身の不登校の経験が影響しているのでしょうか。

    ええ。ただ、孤独は自分だけの問題ではないと気付いたのも大きいですね。高校で電動車椅子の研究開発をしていた時にさまざまな高齢者と話し、多くの人が孤独を抱えているのだと実感しました。

    高齢化が進む日本では、われわれも年とともに体が動かなくなり、いずれ外出が難しくなります。寝たきりになってからも孤独を感じることなく、自分らしく生きていくにはどうすればいいのか。この問題に生涯取り組んでいこうと決めました。

    ――それから早稲田大学在学中に、研究室「オリィ研究所」を立ち上げたと。

    大学でどこかの研究室に入らなければならなかったのですが、「孤独の解消」に向き合えるような研究室がなくて。その頃からオリィと呼ばれていたので、オリィ研究室をつくりました。

    そこで遠隔操作で会話だけでなく歩いたり踊ったりできる『OriHime(Humanoid版)』や、現在の『OriHime』の前進となる『OriHime-mini』を開発したのです。

    『OriHime(Humanoid版)』(左)と『OriHime-mini』(右)

    『OriHime(Humanoid版)』(左)と『OriHime-mini』(右)
    オリィ研究所設立前のヒストリーより

    ――それから起業の道に進まれています。「孤独の解消」に挑む上で、研究や就職の道を選ばなかった理由は?

    アカデミックな世界ではインパクトが出せないと考えたからです。「孤独」に関連するテーマの研究はいくつかありましたが、そのどれもが実用化につながっていない。

    インテル国際学生科学技術フェアに出場し、世界3位の賞を受けた時も、「これでは誰も人生も変えられない」と大きなむなしさを感じました。私は論文を書くための研究ではなく、実際に困っている人の生活を変えたいと思ったんです。

    就職をしなかったのは、単純に「孤独の解消」に向き合っている会社がなかったから。それに、自分が死んだ後も維持できる仕組みをつくりたかった。

    『OriHime』のサポートを自分がやり続けないといけない状況では、スケールも存続もできません。みんながプロジェクトに関われて、その成果を社会の仕組みとして回していくのであれば、ビジネスにするのが最善だと思いました。

    ――起業にあたってはCOO結城さんとCTO椎葉さんを加えた3名で共同創業をされていますよね。

    結城はもともと高校生による科学のコンテストで出会った友人で、私の取り組みをビジネスにすることを提案してくれたのは彼女だったんです。椎葉は起業のためエンジニアを探していた時に、3.11のボランティアで知り合った友人の紹介で出会いました。試しに椎葉がソフトウエアを、自分がハードウエアを担当してものづくりをしてみると、一発目から大成功で意気投合しました。

    ――まだ世の中にない新しい取り組みだったからこそ、最初は苦労も多かったのではないでしょうか。

    今思えば、いつつぶれてもおかしくない状況でしたね。起業して1年半は、一人6万円も給料を払えなかったです。でも、「もうつぶれる」と思った時にいつも手を差し伸べてくれる人がいたおかげで、奇跡的に延命できたのだと思います。

    例えば創業から半年がたち会社の全財産が尽きかけていた頃には、紹介で知り合った墨田区の浜野製作所の浜野社長が、「僕の家が余ってるからそこに住んだらいいよ」と事務所を貸してくれ、そこを会社の登記住所にしました。

    それでもなかなかは売り上げが上がらず、解散か受託開発に切り替えようかと考えていた頃に、「みんなの夢アワード」という大会で優勝し2000万円の融資を受けられることに。このおかげでようやくメンバーに20万程度の給料を払えるようになり、自分たちのオフィスを構えることができました。

    ――ギリギリだったのですね。

    存続の危機はこれだけではなく、「あと数カ月でつぶれる」という綱渡りの状況に何度も陥りました(笑)

    ところが私は、『OriHime』を売るよりも、新しい孤独解消の自由研究(個人的な研究活動)に没頭していて。結城と椎葉には毎回怒られていましたし、今思えばよく2人は呆れて去っていかなかったなと。

    ただ、結果的にその研究成果の一部が助成金の対象になったり、国際特許を取って製品化につながったりしたりもして。「夢アワード」で知り合った番田雄太という“寝たきり秘書”を雇ったのも、私が勝手にやったことでした。その出会いが後に、分身ロボットカフェの誕生につながったんです。

    事業計画から生まれたプロジェクトは一つもない

    ――分身ロボットカフェが生まれるまでの経緯について、もう少し詳しく伺っても良いですか?

    “寝たきり秘書”の番田は、4歳で交通事故に遭って以来、自分の意思で体を動かせません。しかし顎を使ったパソコン操作ができる。そんな番田がオリィ研究所で秘書として働く姿を見せれば、障害を抱える人たちを勇気づけられるのではないかと思い、実際に仕事を任せながら各地を講演で回りました。

    ところがある特別支援学校で、ある保護者の方にこんなことを言われました。「それはオリィ研究所で、番田さんだからできるんでしょ? うちの息子は無理だわ」と。

    確かに、働いた経験がない人がいきなり秘書の仕事をすることを、ハードルが高いと感じる人は多いかもしれません。

    普通の高校生だって、初めてのアルバイトは引っ越し屋やファミレスの店員といった肉体労働です。それで、「社会への第一歩を踏み出すのに最適なのは知的労働ではなく肉体労働だ」と気付き、寝たきりの人でも働けるレストランをやってみようと思ったのです。

    ところが、1年かけて大きなOriHimeを開発し、ついにプロトタイプが完成してその検証に着手しようとしていた矢先、番田の体調が悪化し、彼は亡くなってしまいました。

    ――そうだったのですね。

    当時はあまりに悔しくて、もうこの研究は止めようかとも思ったのですが、「こんな体だからこそ、せめて生きた証しを残したい」と番田が話していたのを思い出し、やり遂げようと決めました。

    紆余曲折を経て、2018年に行った「分身ロボットカフェ実験開始」式典には、著名な方も来てくださるなど、多くの人に注目してもらえました。その後、私たちが想定していなかった出来事が起こり始めたのです。

    ――想定外の出来事とは?

    パイロット(分身ロボットカフェを操縦する人の呼称)の引き抜きです。分身ロボットカフェに訪れた企業の方が、「〇〇さんというパイロットの接客がすごく良かったから、うちのお店で分身ロボットとして働いてくれないか」と。最初にその話をしてくれたのは、共和メディカルグループさんでした。そのパイロットは今、同社の運営する大阪のチーズケーキ屋さんで契約社員として働いています。

    同じような事例はどんどん増えていて、現在は分身ロボットカフェに登録しているパイロット50人弱のうち20人が他の企業でも働いています。ずっと働きたくても働けなかったパイロットたちは、働く意欲がものすごく高いので、他の社員にもいい影響を与えていると聞きますね。

    ――素晴らしいです。偶然の出会いから始まったプロジェクトでしたが、多くの人が共感してくれたのですね。

    こうしたプロジェクトは全て私や仲間たちとの自由研究から始まっていて、事業計画から始まったものは何一つありません。自由研究は10個中9個は失敗しますが、そこから生まれたものを結城や椎葉、他のメンバーがちゃんと製品化し、広めてくれています。

    ――オリィさんはCEOではありますが、経営よりも自ら研究開発する姿勢で会社を引っ張っているように感じます。

    私は仕事だと思わない方が燃えるタイプのようです。やらないといけないことをやるよりも、アイデアが浮かぶとすぐ形にしたくなる。検証やトライアンドエラーが好きなんですね。失敗って面白いですよ。私は人類が経験したことのない失敗を見るのが大好きです。

    ――人類が経験したことのない失敗?

    例えば、分身ロボットカフェは今まで世の中になかったカフェなので問題だらけです。ロボットがお客さんに突っ込んでいったり、メディアが来るとテレビ局の電波と干渉し合ってうまく動かなかったりもして。

    ただ、誰も見たことのない失敗の先には、誰も見たことのない気付きや景色があります。今年中には分身ロボットカフェで接客だけでなく、料理もできる装置を試したい。その過程で、みんなが楽しみながらトライアンドエラーを見守れるコミュニティーも形成していきたいですね。

    吉藤オリィ

    自分は“変わり者”。人生をささげるミッションが全ての人に必要なわけではない

    ――オリィ研究所を一人で始めてから今に至るまで、まるでドラマのような11年ですね。

    人生をつくるのは「出会い」と「憧れ」です。私は良い出会いに恵まれてきました。OriHimeを広めるためと講演を数多くやってきたのも良かったと思います。名刺交換すると、その人に番田があごで長文メールを打つから、みんなが返さなきゃと思って返してくれた。そうやって関係性を広げてきました。

    ――オリィさんはもともと人付き合いが得意なタイプではなかったと思うのですが、なぜ克服できたのでしょう?

    対人関係は今も得意ではないです。自分から名刺交換に行けないので、話し掛けてもらえるように全力で待ち受けるタイプなんですよ。若いころなんかは、初対面の方の前で特技の折り紙をパッと折るようなこともしていました。「ただ者じゃない感」が出るので、その後の名刺交換につなげやすかったですね(笑)

    私が一番嫌いなのは、根性論と精神論。うまくいった人の話を聞いたところで、自分に当てはまるとは限りませんよね? 訓練しなくても、目が悪い人はメガネをかければよく見えるようになるわけです。それはコミュニケーションも同じ。こんな自分でも人と出会える方法があるはずだと、やり方を考えてきました。

    ――そのままの自分でいながら「うまくやる方法」を試行錯誤してきたのですね。今後については、どのような展望を描いていますか?

    分身ロボットカフェに至るまでの20代は、それに必要なツールや方法を研究する期間でした。これからは自分たちの活動をより多くの人に知ってもらいたいですし、支えてくれるコミュニティーの形成にも取り組みたい。

    私は人生40年計画で生きているので、残りの6年半で私がいなくなっても回る仕組みもつくりたいと考えています。

    ――人生40年計画?

    40歳で死ぬことを仮定して生きています。私は17歳の時に人生30年計画を立てて、30歳で死ぬことを前提に生きてきました。残りの人生が限られていると思っていたので、「ここにいるのは違う」と思った瞬間に高専を辞められたし、大学も休学できた。

    この考え方はいいですよ。「せっかく入学したんだから卒業しよう」みたいな、何の合理性もない“せっかく論”に振り回されなくて済みますから。幸い30歳は超えたので、今は人生を延長して生きているつもりです。

    吉藤オリィ
    ――今後の人生で、オリィさんはエンジニアリングにどのように向き合っていきたいですか?

    私にとってエンジニアリングは、やるべきことを実現するためのツール。目的と手段をしっかり定義し、エンジニアリング自体を目的にしないことが重要だと思っています。

    中には、エンジニアリング自体が目的だという人もいるかもしれませんね。ですが、エンジニアはクリエーターでもアーティストでもないというのが私なりの考え。

    ですから、「何になりたいか」ではなく、「何をしたいか」で常にキャリアを考えていきたい。

    これは、会社の経営にも当てはまります。今後仮にオリィ研究所という会社が潰れてしまったとしても、私は別の方法でこのテーマに取り組み続けると思います。

    ――でも、オリィさんのように人生をささげて取り組みたいと思えるミッションや、成し遂げたいことが分からないという人も多いと思います。

    人生をささげるミッションがなかったとしても、それはそれでいいんじゃないでしょうか。ブレない人ってかっこよく見えるかもしれませんが、今がそう見える時代なだけなんですよ。価値基準は時代によって変わります。20年前は、私みたいな変人は単なるいじめの対象でしたから。

    臨機応変に波乗りのように生きていくのも楽しい人生だと思います。その方がかっこいいねと言われる時代もきっときますよ。

    私は、この人生は「孤独の解消」に捧げると決めてるだけ。だから、「今のあなたは何をしたいのか」。そこだけに集中していいのではないでしょうか。

    取材・文/一本麻衣 編集/河西ことみ(編集部)

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