*「Kaggle(カグル)」とは、Google社が運営し世界各国のデータサイエンティストが登録・参加する最大規模のデータサイエンティストコミュニティー・機械学習コンペティションプラットフォーム。『Kaggle』上にはNASA(アメリカ航空宇宙局)やCERN(欧州原子核研究機構)、マイクロソフトなどの世界的企業・政府機関から投げ掛けられるデータ・課題が集まり、世界中のデータサイエンティストが競い合いながら解析に挑み英知が共有されている。
「業務時間の最大40%をKaggleに投資」がもたらす効果とは? Kaggle Grandmasterを2名同時輩出した医療AIベンチャーに聞く
2023年3月、世界で278人しかいない『Kaggle』の最上位ランク「Grandmaster」の称号を獲得したエンジニアが同一企業から2名同時に誕生した。
その2人が在籍しているのが、医療AIベンチャーのアイリスだ。「Grandmasterが同一企業から2名同時に誕生することは世界的にもめずらしい」と語るのは、同社CTOの福田敦史さん。
「アイリスでは業務時間の最大40%を『Kaggle』に充てられる制度を設けています」(福田さん)
なぜ「最大40%」にも及ぶ自己研鑽の時間をエンジニアに与えるのか。話を聞くと、エンジニアも事業も双方が育つ仕組みが見えてきた。
アイリス株式会社
取締役CTO 福田敦史(@fukumimi014)
2003年東北大学卒業後、IBM東京基礎研究所にてモデル駆動型開発の研究に携わり、その後、車載コンピューターなど組み込み分野の技術コンサルタントとして勤務。株式会社エス・エム・エスにて、100名規模の開発組織のマネージャーや、新規事業立ち上げを担当した後、株式会社キャスターにCTOとして参画し、ゼロからの開発組織の立ち上げを行う。18年10月アイリス株式会社取締役CTOに就任。東北大学スタートアップガレージ(TUSG)メンター、他複数のスタートアップ企業の技術顧問を担当
自己研鑽に使える業務時間は、Googleの2倍
ーー『Kaggle』への挑戦を社内制度に取り入れた理由は、何だったのでしょうか?
きっかけは、今回Grandmasterを獲得した一人の吉原浩之(@analokmaus)でした。
吉原が趣味で挑戦していた『Kaggle』で金メダル(Grandmasterを獲得する手前で得られる称号)を獲ってきた時に、どんな挑戦をしたのか詳しく内容を聞く機会がありました。
そこで出てきた「画像を複数枚同時にAIに学習させる手法」がヒントとなり、アイリスのAI搭載医療機器の誕生につながりました。
感染症の診断支援を行う画像診断技術には、数十の深層学習のモデルが組み合わされています。
そもそも人が医師になるだけでも難しいのに、医師が十数年かけて習得するような手法をAIで再現するのですから、その仕組みは複雑かつ困難なものとなります。
そうした難しい状況の中、製品化まであと一歩というところで突破口が見つからずにいたとき、吉原が『Kaggle』から持ち帰った知見が生きました。
『Kaggle』への挑戦は、エンジニアにとって技術力を上げるモチベーションになるだけでなく、事業を成長させることにもつながるのだと感じた出来事でした。
ーーエンジニアのスキルを『Kaggle』で上げながら、事業も伸ばしていこうと思ったのですね。とはいえ、「業務時間の最大40%」という数字は驚きです。
もともと、Googleの「20% ルール」*に着想を得て導入したのですが、本家を上回る時間に設定している理由は大きく二つあります。
*業務時間の20%を新規事業立案にあてることを認める制度。今やデジタルインフラの一種となりつつある Gmail、Google マップ、Google ニュースなどといったサービスは、この制度によって生み出されたとされる。
一つは、AI開発には幅広いアイデアが必要になるからです。というのも、「AI医療機器」と呼ばれる製品のうち、国内で承認されているものはまだ20個ほどしかなく、そのほとんどは既存のAIシステムをカスタマイズして作られています。
当社のように医療分野のAI開発にゼロから取り組んでいる企業はほんのわずかな上に、自分たちが知っているデータセットのパターンだけで最適解を編み出そうとすると早い段階で限界が来てしまいます。
開発している製品にどんなAIが合うのかを知るためには、日頃からたくさんのデータセットに触れていないと引き出しが増えない。だからこそ、『Kaggle』を通じて幅広い知見を得ることは事業や製品がグロースしていく上での鍵にもなるのです。
二つ目は、『Kaggle』がAIエンジニアに必要な「直感力」を養える場所でもあるからです。
ある画像をAIに読み込ませて何かしらの結果を得ることは一般的なAIにもできるのですが、私たちが手掛けている医療AIを製品に仕上げるには、幾度ものチューニングを重ねて医療機器としての有効性が認められる精度をクリアする必要があります。
そのためにチューニングすべきパラメーターは数千万〜数億個あり、それらをAIに全て学習させていると途方もない時間がかかってしまいます。そこで問われるのが人間の「直感力」。『Kaggle』でたくさん競う中で、何が一番大切かを見定める直感力が養われると考えています。
また、AI開発のモチベーションを高める上で「競争」は非常に大切な要素ですので、社外だけでなく社内でも競い合える機会をできるだけ設けるようにしています。
その一つが、“ミニKaggle”。AIの精度を競い合う社内用のプラットフォームを私が作り、AIエンジニアたちに業務時間中に取り組んでもらっています。最高スコアを達成したメンバーにはSlackで通知が行くようになっており、みんな楽しみながら取り組んでくれています。
ポイントは「ただの自己研鑽で終わらせない」ひと工夫
ーー“最大40%ルール”の制度の導入によって、アイリスで働くAIエンジニアにはどのような影響がありましたか?
『Kaggle』への参加が積極的に推奨されている環境に対して、高いモチベーションを持ち、本当に楽しそうに働いているのを肌身で感じています。
ただ、この状況を作り出すにはAIエンジニアが『Kaggle』で得た学びを、社内で共有し、事業やプロダクトにその知見を生かすような仕組みを整えることが不可欠だと思っています。
ーーそれはなぜですか?
『Kaggle』と事業のつながりが曖昧だと、AIエンジニアたちが「こんな風に業務時間を使ってもいいのだろうか」と心配になってしまい、逆にモチベーションを下げることになりかねないからです。
例えば、『Kaggle』後はAIエンジニアと話す場を設け、「どう戦ったのか」「その手法を事業にどう生かせそうか」をしっかり話し合うようにしています。
『Kaggle』で得られたノウハウをきちんと事業やプロダクトに還元させる流れがあれば、彼らは罪悪感なく『Kaggle』に取り組めるんです。
ーーただ『Kaggle』に参加させるだけでなく、『Kaggle』と事業とのつながりを明確にすることがポイントなのですね。
そうですね。だからこそ当社のAIエンジニアには「『Kaggle』で戦うことの意味」もあらかじめ伝えています。その中には製品の開発以外に、例えばマーケティング的な価値も含まれます。
というのも、医療機器の販売にはさまざまな規制があるため、私たちは一般の方に向けて製品の広告を出すことができません。
しかし当社のAIエンジニアが『Kaggle』の個人プロフィールにアイリスに所属していることを書いたり、チーム名にAillisという名前をつけて成果を残せば、アイリスの名が世界中に広まります。
「アイリスの広告塔になる」という重要な役割は、AIエンジニアたちにとって決して重荷になるものではなく、彼らがポジティブに『Kaggle』に向き合える要素として働いています。
それに、『Kaggle』を通じて「会社に貢献できている」という実感を得られるので、エンゲージメント醸成の効果もあります。
エンジニアは売り手市場ですから、アイリスのAIエンジニアも他社からのオファーをもらっていると思うのですが、それでも当社で働き続けているのは「自分たちの『Kaggle』での戦いをここまで認めてくれる環境」に価値を感じてくれているからだと感じています。
ーー会社側にも大きなメリットがありますね。
他に、採用の場面でもプラスになっています。アイリスは小さなスタートアップですが、目立った広告を打たずとも優秀なAIエンジニアが入社を希望して自発的に応募してきてくれるケースも多いです。
例えば、先日Kaggle Grandmasterを獲得した有安祐二(@aryyyyy221)もその一人。彼は当社のメンバーではなかった頃に『Kaggle』で金メダル2位を獲得し、その記録をつづったはてなブログが話題になっていました。
私もそのブログを見て「彼が入社してくれたらうれしいな」と思っていた矢先に、有安本人から「御社が『Kaggle』に力を入れて、さらにそれを事業に生かしている点に興味がある」と私宛にDMが舞い込んできましたから。
まずは育成担当が「自己研鑽の意義」を理解すること
ーーエンジニアの育成を担うリーダー層がメンバーのスキルやモチベーションアップにつながる施策を導入する際、どんな点に気を付けると良いでしょうか?
私が一番大事だと思っているのは、育成担当者自身が「自己研鑽に投資する意味」を十分に理解していることです。
例えば、私は以前IBMの研究所に勤務していたのですが、その当時のIBM社内にはダーツや漫画部屋、畳部屋といった、仕事の合間にくつろげる空間や、ゲームがいくつか置かれていました。
彼らは世界でも一流の研究者ですが、仕事の合間にゲームで遊んだり、楽しく雑談する中で、さまざまな独創的なひらめきを得て、それらを世界トップレベルの研究をするためのアイデアの創出に繋げている。
遊びと仕事の境目なく、エンジニアが自分の「好き」に素直になってのびのびと働く姿を見て、イノベーションが生まれる環境とはこうした場所なのかもしれないと感じました。
エンジニアが楽しく意欲を持って働ける環境でこそ、新しいアイデアが生まれたり、柔軟な考え方ができたりするようになる。
私自身がそう強く信じているからこそ、エンジニアにも「なぜそのような取り組みをするのか」「事業にどんなプラスの効果があるのか」を説明できたり、事業に結びつけていくことができるのだと思います。
ーー一方で、「エンジニアの業務時間を削る」制度だと、ビジネスサイドから理解が得られないケースもありそうです。
いきなり導入するのは難しい場合は、まずは小さく始めてみてもいいですよね。
「自己研鑽の時間で得た知見が事業に生きる」成功体験を増やすことで、徐々に理解が促されるのではないでしょうか。プロジェクトの切れ目など業務があまり忙しくない時期に試してみるのもいいかもしれません。
あとは、「開発組織、あるいはプロダクトをどうしていきたいのか」まで明確に定めることをおすすめします。
私の場合は、尊敬する科学者・エイブラハム・フレクスナーを参考にしていました。彼自身の知名度は高くないのですが、アインシュタインをはじめ、数々の天才を世に輩出した研究所を作った人物です。
私も吉原たちのような大きなポテンシャルを秘めたエンジニアに対し、自分がフレクスナーのような存在となり、「彼らのポテンシャルを開花させる役割に周ろう。そして、多くの優秀なエンジニアが育つ開発組織をつくろう」とキャリアの舵を切りました。
明確なビジョンがあったからこそ、さまざまな立場の人とコミュニケーションする上でもブレずに、制度づくりから定着まで推し進められたのだと思います。
もし、自分に原体験が不足していると感じるようなら本を読んだり、知見のある人から話を聞いたり、今読んでいるこの記事をステークホルダーに読んでもらうのも手かもしれません(笑)
ーー今後エンジニア育成に関してやってみたいことをお聞かせください。
『Kaggle』への投資は引き続き行いつつ、AIエンジニア以外のエンジニアにも同じようにモチベーションアップと事業成長につながるような施策を取り入れていきたいです。
どんな施策を実行するにせよ、自社のエンジニアが何に興味関心を持つのか見極めることが第一歩。その上で、導入した施策をどう事業やプロダクトの成長につなげていくかは育成担当の腕の見せ所だと思っているので、試行錯誤しながらさまざまな挑戦をしていきたいですね。
文/一本麻衣 撮影/桑原美樹 編集/玉城智子(編集部)
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