「顔認証一筋20年」NEC今岡仁の仕事はなぜ時代の先頭にあり続けることができるのか
『エンジニアtype』は2014年にNECの顔認証技術について今岡仁さん(現・NECフェロー)に対してインタビューを行っている。
>>「顔認証」が切り拓く未来とは?精度・速度で世界一のNECに聞く
同社はその当時、米国国立技術標準研究所(NIST)のベンチマークテストで3回連続の1位評価を獲得中。「精度世界一」の名をほしいままにしていた。
このインタビューで今岡さんは「カードやスマホを使ってやっている決済を、全て顔認証にすることが夢」であり、そのためにクリアしなければならない課題がまだまだあると語っていた。しかし、あれから5年。いまやスマホでの認証は生体認証が当たり前だし、中国では決済どころか鉄道の改札システムにまで一部顔認証を導入したと報じられている。今岡さんのかつての「夢」は、想像を超える速度で現実化していっているのだ。
その間もNECは世界一の座をキープ。2018年に行われた最新のベンチマークテストでも世界の有名ベンダーを相手に圧倒的な結果を残している。
となると、二つの疑問が頭をよぎる。一つは、これだけ競争環境が激化してなお盛者必衰の理に反してNECが顔認証技術の世界一で居続けられるのはなぜか。もう一つは、それだけの技術を国内に有していながら「どこでも顔認証の世界の実現」に象徴される実用の面で日本社会が世界に遅れをとっているように映るのはなぜか、だ。
この二つの疑問をぶつけるために5年ぶりに今岡さんへのインタビューを行った。そこから見えてきたのは、20年近くにわたって生体認証と向き合い続けてきた今岡さん流の仕事哲学とでも呼ぶべきもの。リサーチャーやエンジニアに限らず、全ての職業人に通じるエッセンスがそこにはあった。
この5年で変わったのは取り巻く環境の方
「この5年で顔認証に関して何が大きく変わったか。実はわれわれ自身がやっていることはほとんど変わらないです。大きく変わったのは周りの状況の方でして……」
前回のインタビューを行った5年前当時、顔認証に関する話題が新聞紙上を賑わすことは稀だった。だが、今では顔認証は米中を中心に繰り広げられる熾烈なAI戦争の代表のようにさえ扱われ、毎日のように話題を振りまいている。
「顔認証には深層学習という技術が使われているので、AIのど真ん中にいることは確かです。実はわれわれは5年前の時点ですでに深層学習に相当する技術を使っていたのですが、インタビューでは意図的に隠してお話ししていました。その後、こうした技術はかなり一般的なものになりました。その結果として顔認証を扱う競合も格段に増えています」
米国国立技術標準研究所(NIST)のベンチマークテストの参加組織数が17年の16組織から18年に49組織まで急増しているのは、こうした変化の象徴と言えるだろう。今では米国、中国、日本などの名だたるベンダーが参加している。直近の参加5回で全てナンバーワンに輝いているNECだが、その価値が段違いに上がっているということでもある。
業界全体の技術力が底上げされたことにより、顔認証技術が活用されるアプリケーションの幅も格段に広がった。
「5年前の時点では決済への活用は難しいと考えられていましたが、ご存知のように、中国では決済や鉄道の改札システムにも使われています。また、こうした事例が増えるのに伴い、プライバシーやセキュリティーに関する議論も活発になってきました」
こうした社会的な注目度の高まりに呼応するように、NEC内での今岡さんと顔認証チームの位置付けにも大きな変化があった。5年前にはすでに顔認証のチームを率いていた今岡さんは今年、史上最年少でNECフェローに就任。文字通りの顔認証の「顔」としての役回りに加え、同社のデジタルビジネス全体を牽引する大きな役割が期待されている。
今なお世界一。2位との差は「むしろ開いている」
これだけ業界全体の技術力が底上げされ、競争が激化したとあれば、独走してきたNECのアドバンテージは相対的に小さくなったと想像するのが自然だろう。ところが「その差はむしろ開いている」と今岡さんは言う。
2018年のNISTで行われたベンチマークテストは、最大1200万人分の静止画像の中から特定の一人を探し出すことを繰り返し、その精度と速度を競うというものだ。NECのシステムの精度はエラー率0.5%で、2位企業の1.8%に大きく差をつけている。ほとんどの企業は登録画像が増えるほどに精度が落ちていくのに対し、NECはほとんど変わらない精度を保った。つまり、大規模システムへの適用可能性でも群を抜いていたことになる。
一方、NECは検索速度でも2.3億件/秒というハイパフォーマンスを残している。これは日本の総人口1億2000万人から一人を見つけ出すのに0.5秒しかかからないことを意味している。速度だけでみればNECに匹敵する結果を残した参加企業が複数社あったが、難しいのは通常相反する速度と精度をいかに両立するか。その点でもNECの存在はやはり際立っている。
さらに強調できるのは、加齢による経年変化の影響にも左右されずに高精度を保てていることだという。
「例えばパスポートの有効期限は最大10年だから、空港の出入国に顔認証を使うためには10年前の写真と照合して本人かどうかを判別できる必要があります。こうしたベンチマークテストで圧倒的な精度を実現しているからこそ、信頼して弊社のシステムを使ってくださいという言い方ができるわけです」
数学理論とエンジニアリングの組織的融合
では、NECはなぜこれだけの高精度の顔認証を実現できているのか。NISTのベンチマークテストはハードウエアに関しては全参加組織が同じ条件で争っており、全てはソフトウエアの性能の差、アルゴリズムの性能の差に集約されると今岡さんは言う。
「普通にAとBにクラス分類するだけのアルゴリズムを使っているところもある中で、弊社では顔認証に特化したアルゴリズムを使用しています。積み重ねたノウハウ、技術、データの量がものを言う世界ですから、そこにはやはり何年も前から取り組んできたアドバンテージがあります。顔認証のアルゴリズムなんて適当に作っていると思うかもしれませんが、数学の理論まで立ち返って、結構真面目に研究しているんですよ」
かつては今岡さん一人で研究していた時代もあったというが、競争が激化した今日はもはや一人の天才でどうにかできる世界ではない。NECもチームで分業してあたっているという。
「例えば最も分かりやすいのは、顔の特徴を検出するフェーズと、検出した特徴をデータベースにある画像と照合するフェーズの切り分けです。他にもこのようにプロセスを細かく区切って分業しています。その意味では今の私は少しマネジメントの役割に近くなったのかもしれません。組織として勝つことを考えています」
今岡さん自身ももともとの専門は理論物理。そうした知見が高度なアルゴリズムを作るのに役立っていることは前回のインタビューでも触れた。だが、リサーチだけでは「組織として勝つ」ことはできないと今岡さんは言う。
「エンジニアもとても重要です。フラスコが10本あって、その中から1本の当たりを見つけようとする時、その1本をどうやったら見つけられるかを研究するのがリサーチャーだとすると、素早く10本振る仕組みをつくってしまえるのがエンジニア。もちろん1本必中でやってしまえるのが一番すごいけれど、他の人が1本を探している間に10本全て振ってしまえば勝ちですよね。だからリサーチャーだけがすごくても、エンジニアだけがすごくてもダメ。いろいろな人が組み合わさることが大切なんです」
今岡さん自身は「リサーチャーでありながらソフトウエアを作るのも好き。ひたすら思考実験を繰り返しながら、一方では手を動かしてもきた」。今はそれをチームで体現するということであり、組織をつくる上では意図してさまざまなバックボーンのメンバーを集めているという。
NECが「日本だけ」にこだわらない理由
「世界一の技術」の看板の下に、NECの顔認証はここへきてビジネスとしても大きな広がりを見せている。分かりやすいのは各国で続々と導入が進む空港の税関システム。そこからさらに進んで、オフィスやホテルをも一つのIDでつなぎ、シームレスな体験を実現する実証実験なども進んでいる。この7月には世界最大の航空連合スターアライアンスとの協業を発表した。
記憶に新しいところではラグビーワールドカップ2019のメディア入場時の本人確認、さらには東京2020オリンピック・パラリンピックでの採用も決まっており、ビジネス的なインパクトは大きい。
しかし、現状は海外での事例の方が圧倒的に多く、日本国内での進みが遅い傾向にあるという。一方で再三触れているように、中国からは日々センセーショナルなニュースが飛び込んでくる。この違いは一体どこに起因するのか。「世界一の技術」の実用化へ、国内の何が妨げになっているのだろうか。
「セキュリティーとプライバシーに関する国ごとのスタンスの違いが大きいと思います。ざっくりと言ってしまえば、日本やヨーロッパは安全を取るのに対し、中国は利便性を取る。その中で、NECは前者の立場を取っています。誰にでも信頼して使ってもらえる未来に向け、慎重に議論を重ねることを大切にしているんです。しっかりと議論を重ね、社会のコンセンサスを醸成することが、最終的に信頼される技術をつくることになるだろう、と」
ただ、今岡さんは決して中国のやり方を否定しているわけではない。このようにさまざまな動きが出てきていること自体が、顔認証の性能が良くなり、「使える技術」になってきたことの何よりの証拠。そして、たくさん使われることで新たな論点が見つかれば、そのことによって議論がまた進む。
「議論して白黒が決まれば、白い部分は信頼して使えるようになる。防犯カメラにしてもインターネットにしても最初はそうでしたよね。もちろん危ない面もあるんだけれど、危ない、危ないと言っていても、それでも使う中で徐々に社会のコンセンサスが出来上がっていく。その延長上に今日の私たちの暮らしがあるわけです」
近い将来、日本にも「どこでも顔認証の世界」はやってくるのだろうか。それは現時点では誰にも分からないと今岡さんは言う。安全と利便性の間のどこに落とし所を見出すかは国によって状況が違うし、それこそ議論の結果によるからだ。それに、NECとしてはそのようにして日本にだけ過度にこだわるところはないという。
「もちろん日本も大切ですが、一方では200カ国のうちの一つというのがわれわれのスタンスです。1カ国に最適化してしまっては世界から相手にされなくなる。NECとしては広く世の中全体から信頼される技術をつくりたいと思っています」
陸上競技にも似た“コンマ1”の追求の果てに
NECの顔認証技術はここへきて意外な方向へも広がりを見せている。その一つが医療への応用だ。 国立がん研究センターとの共同で内視鏡検査時にリアルタイムでがんを発見するシステムを開発。
「この共同開発はお医者さん側からのお声掛けで始まりました。毎日がんと向き合っているお医者さんからすると、がんにも顔があるそうで。顔があるということは検出もできるよね、と」
離れた場所から視線の方向をリアルタイムかつ高精度で検知するNECの「遠隔視線推定技術」にも、顔認証技術が応用されている。この技術を使えば、例えば店舗で実際には商品を購入しなかった客についても、視線の動きを追うことで興味関心を拾い上げることが可能。商品陳列の改善や商品開発に活かすなど発想は無限に膨らむ。「このようにさまざまな方向に寄り道しだしたのも5年前との大きな違い」という。
とはいえ冒頭でも触れた通り、今岡さん自身はこの20年、「ひたすら同じことをやり続けてきた」という認識でいる。にも関わらず社会の顔認証への注目度は右肩上がりに上昇し、オリンピックなどのビッグチャンスが舞い込み、社内での立ち位置も大幅に向上。さらに思っても見なかった方向へ技術の応用性も広がってきた。「自分としてはその時々で目の前のことに一生懸命向き合ってきただけ。なのに法律が変わり、社会が変わり……。本当に不思議なんです」と笑う。
職人的に何か一つのことに取り組むことを生業とする人からすれば理想的とも言えるストーリー。だが、今岡さんは単に運が良かっただけなのだろうか。確かに運もあったかもしれないが、そこには何か別の要因もあるように思える。
「わりかしなんでも楽しんでやってきたのが良かったのかもしれません。例えば『僕のやっているのは顔認証だから、がんはやりたくない』というナローマインドだったら、こんなチャンスにはつながらなかったはずで。だから、大事なのはまず、いろいろなことに興味を持つこと。これはエンジニアの人たちにも通じるのではないでしょうか。社会とつながって生きている以上、技術と同時に社会に対しても関心を持つことは大事だと思います」
今岡さんがもう一つ強調したのは、目の前のことに一生懸命に向き合う大切さ。当たり前すぎることのようにも聞こえるが、「そこにこそ仕事の本質がある」と今岡さんは言う。
「誰かから言われたことを一生懸命考えてこなすと、信頼が得られ、そうするとまたいい話がもらえる。その繰り返しこそが仕事だと思うんです。社会が変わってきたのは偶然、運の部分もあります。オリンピックなんてその最たるものですよね。だけど、一歩一歩人の信頼に応えていく、しかも100%でなく120%で応えようという思いは常にありました。それが良かったのかな」
その120%がベンチマークテストでのぶっちぎりの精度に表れているのだろう。「顔認証への向き合い方は陸上競技に近いかもしれない」と今岡さんは言う。サッカーやラグビーのように、相手より1点多ければ勝ちという世界ではない。ひたすら自分自身と向き合い、“コンマ1”の精度を追求していく。世の中に信頼される技術であるために、ひたすらこの道を極めたい。その思いに忠実だったからこそ、今岡さんは時代の先頭に立つことができたし、世界一になった今なお戦い続けているのだろう。
取材・文/鈴木陸夫 撮影/川松敬規(編集部)
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