天才エンジニアと呼ばれたDeNA取締役・川崎修平氏が明かす「モノづくりの壁」にぶつかり続けた30代
開始から数カ月で会員登録数100万超え。その後も会員数を伸ばし続け、毎日億単位のページビューを叩き出し、後年には日本のモバイルインターネットビジネスの歴史の転換点とも評された『モバゲータウン』(現『Mobage』)。このMobageをほぼ1人で、しかも3カ月で開発した男がいる。それが川崎修平氏だ。
そもそも「永久ベンチャー」をうたうディー・エヌ・エーの初期の成功を支えたオークションサイト『モバオク』や、アフィリエイトサービス『ポケットアフィリエイト』もまた、川崎氏が独力で開発したものだった。
30歳前後で次々とヒットサービスを世に送り出した川崎氏。天才エンジニアと一目置かれる存在になるのも当然のことだ。その後、ディー・エヌ・エーで取締役に就任したと聞いても、誰も不思議には思わない。では、この天才は向かうところ敵なしのエンジニア人生を驀進してきたのか? どうやら、違うらしい。
「天才とかじゃ全然ないです」と苦笑いする川崎氏は、当年とって42歳。「ようやくこの2~3年で、やっと自分のできること・できないことや、やるべきことが分かってきたところなんです」と語る。
ならば聞いてみよう。天才エンジニアと呼ばれた男が、30歳・35歳・40歳の節目をそれぞれどのような思いで迎えてきたのかを。「生涯現役」を有言実行中の男が考える“限界”との戦い方、“壁”との付き合い方を。
1人でも多くの人を驚かせたい!
シンプルな思いに突き動かされ、ヒットを生み出した30歳
20代の頃からずっと変わっていないことがあります。それは、「見た人、触れた人がハッピーな気分になって、しかもそれだけじゃ足りなくて、周りの人にも教えたくなるようなもの」を作りたいという思い。その思いをできる限り自分が考えた通りに形にしたいから、自分はエンジニアをやっているんですよね。
学生時代とかディー・エヌ・エーに入ったばかりの頃、モノづくりをするときに「コレは絶対に面白い」という妙な確信が舞い降りてくる瞬間がよくありました。だから「早くみんなに見てほしい!」という気持ちになり、それが圧倒的な原動力となってプログラミングのスピードを上げてもいたのだと思う。
『Mobage』も『モバオク』も2~3カ月で作れたし、『ポケットアフィリエイト』は2週間で作れた。もうイメージが頭の中で鮮明にありますから、それを早く形にしたいという思いに突き動かされて、全く疲れなんて感じませんでしたね。日夜夢中で取り組みました(笑)。
それがちょうど30歳になる前後の時期です。自分の作ったものに触れた人たちが興奮気味に「面白い!」って言ってくれることが、僕の原動力だったので、次々とサービスがヒットした時は素直にうれしかった。ものすごくたくさんの人が「面白い!」って思ってくれた証拠、それがヒットという結果ですから。
ただし、いまだに誤解をされているので言いますが、楽々作っていたわけじゃあないです(笑)。ちゃんといっぱい苦しんで作っていた。
例えば、Mobageの人気の源だったアバターというものだって、初めはサービスにとってどういう位置付けのものにするか、いまいちしっくりする世界観が組み立てられなかった。それをどういう形にして、どういう仕組みやサービスにしたら、多くの人が面白いと思ってくれるのか。「そうだ!こうすればいい!」という答えが頭の中に浮かんでくるまでには、ものすごく時間がかかったし、四六時中そのことばかり考えてましたよ。
アイデアが出てくるまではジャンプ読んだり、ひたすらゲームをしていたり。そんな様子だから、考えているように見えなかったかもしれないけれど、ちゃんと頭の中では思い悩んで相当苦しんでいました。
その代わり、「そうだ!」となってからは速いんです。さっきも言ったように「早くみんなを喜ばせたい」と思うので、手はバンバン速く動くし、早々に大まかな形を仕上げ、その上で、最後に残した時間で「ここはこうしよう」と細かな改善を加えていくスタイルで、完成までのステップを楽しんでいました。
当時は、とかく開発期間の短さがクローズアップされて注目を集めましたが、ものすごく生みの苦しみを味わっていたし、ヒットを生み出すことが狙ってできるようなものではないことは自分が一番よく分かっていました。
実際、その後数年間は、ヒットサービス開発者という実績がプレッシャーとして重くのしかかるようにもなっていたんです。次も、とやはり周囲は皆期待しますから、変なモノは作れない、と動きにくくなりました。毎回ホームランを打てるはずもないのに。
そして、Mobageも右肩上がり一直線の時期を過ぎ、会社側から「原因を突き止めて復活させてほしい」と言われたけれど、データを見てもこれだという策が浮かばない。現状打破のために皆でいろいろな取り組みをしていったけれど、結果につながらないジレンマに陥っていました。
僕自身もコミュニティー内のゲームを作ったり、さまざまなモノづくりをしていったけれど、以前はいつも到達していた「これだ!」という確信に至るレベルにはなかなか届かない。それでもビジネスだし、数字を作らなければいけないから、新しいサービスをリリースしましたが、大幅なV字回復にはならなかった。
もともと、エンジニアの仕事は8割がツラくて面倒なもので、残りの2割が最高に楽しいからツラい仕事もできるんだと思っていましたが、この頃、改めて「エンジニアの仕事って、ツラいことが多いなぁ」と感じていました。
そして、もう一つ。何もないところから新しいものを生み出したり、めちゃめちゃ後ろの方から競争相手を一気に抜き去るような攻めの局面は、前だけ見てればいいのでやりやすいんです。でも今あるものを立て直すとか、守りに入った状況で動くことは本当に難しい。そういう発見もありました。
エンジニアならば誰でもそうなのかどうかは分からないけれども、少なくとも僕は自分がやりたいことがあって、それを最大化する時に力を発揮できるというか、そういうアタマの使い方をする人間なのだと思い知らされたんです。
僕にとっては立て直しを担うという仕事は、「やりたいこと」ありきでないので力のかけ方が違う。結果が出ないあせりは、納期が遅れているのと同じ状態です。どんどん自分の“関節”が固くなっていくのを感じていました。
迷走モードの中、CTOとして渡米した35歳。
なぜエンジニアをやっているのか?を問う日々
32歳になる年、取締役に就任し、35歳でCTOにもなったけれど、正直なところ自分はマネジメントには向いてません(笑)。
作りたいものを作って、みんなをハッピーにしたいのが僕だから、わざわざ誰かにモノづくりを委ねて、あげくの果てに「んー、なんか違うよね」となって、自分も相手もユーザーもハッピーになれないサービスをリリースするくらいなら、「自分でやります!」と手を挙げたい。そういう性分なんです。
その辺は、長い付き合いの守安(現・同社代表取締役社長兼CEO、2010年当時は取締役兼COO)も分かってくれていたし、僕も僕なりのやり方で使命を全うしようと思っていました。
そんな中、ディー・エヌ・エーのグローバル戦略の一環で、アメリカのngmoco社を子会社化したりしながら、Mobageの仕組みを世界に広めていくチャレンジをするにあたり、海外拠点の組織づくりがミッションとして課せられ、CTOを務めることになりました。外国人エンジニアを取りまとめていくには、ヒットサービスを生んだ実績を持つ僕のような存在がアイコンとして必要だったんですね。
裏話を話すと、本当に突然、英語も話せないのに「はい、明日からアメリカ行って」みたいなオファーだったんですが(笑)、半年間という任期の中で自分にできることをやろうと、あえて苦手なこともチャレンジしてみようと思って行ったんです。
とはいえ、自分自身の適性の壁というものは、そう簡単に超えられるものでもない。なかなか結果が付いてこない中で、次第に自分の能力では解決できる気がしない壁の存在を強く感じるようになりました。
自分が得意とする発想力とか技術力で突破できるような壁だと分かれば、拳から血が吹き出ようが何だろうが、その壁を叩きまくるけれど、そういうことじゃあないんだな、と痛感しました。新しい領域や職能にも積極的にチャレンジすることはすごく大事にしているけれど、自分に向いていないことに責任感やプライドで固執するのもほどほどにしないといけないなと。
その後、日本に戻り、また開発現場に戻った僕は、ライブ動画ストリーミングプラットフォームの『SHOWROOM』や、個人間カーシェアサービスの『Anyca』の開発に携わりました。
マネジメントやチーム開発が苦手なのは事実だけれど、「エンジニアらしい打ち手はあるはず」という気持ちもあって、モノづくりの取り組み方自体を工夫したり、実験したりもした。
例えば、僕は僕で好きなように作り、別の担当エンジニアにも好きなように作ってもらい、お互いにできたものを持ち寄って「これいいよね」とか「ここってこうすれば良くない?」なんてふうに議論しながら進めていく手法というのも、この時に試してみたやり方の一つ。
時には、得意でない進め方で大幅にスケジュールが遅延して、機能をそろえただけの、サービスを成功させる意志が感じられない出来となってしまって心を病んだこともありました。そんな時は、頼み込んで時間をもらって、慣れた作り方で自分として使ってもいいと思える出来まで仕上げさせてもらったり。こうした試行錯誤を経験したからこそ、SHOWROOMもAnycaも自信を持って世に送り出すことができました。
僕は自分が作りたいと思ったものを人に頼まずとも自分で作れる方がいい。僕は僕がやりたいことをやるためにプログラミングを学んだ。人に言われたものを作るばっかりになってしまったら、何のために技術をやっているのか分からなくなってしまう。マネジメントは得意じゃないし、やりたいことでもない。高額な給料も欲しいとは思わない。パンのミミを食ってりゃ満足できるような人間だ。これができたら面白いな、という思いが僕の全てのモチベーション。ただ、面白いと思ってもらえるものを作りたい――。
この時期、自分はそもそもなぜエンジニアをやっているのか、ということをそんなふうにずっと考え続けていたように思います。
目を見張る結果を出せぬまま過ぎた10年――
そして、新たな“成果”の形に気付いた40歳
1人のエンジニアとして、30代で痛感した「限界」みたいなものを、つい最近まで引きずっていました。ここ数年で手掛けた仕事はそれなりに成果を出している。ただ、その成果がMobageの時のようなレベルにまでは行っていないから、モヤモヤしていたんだと思います。
エンジニアとしての限界との戦いというよりは、自分で勝手に抱え込んでしまった負い目みたいなものとの格闘。そういう種類のモヤモヤです。でも40代に入り、この2~3年でようやくモヤモヤを吹っ切れたように感じています。
明確な一つのきっかけがあったわけじゃありませんが、例えばCSRの一環でプログラミング教育の取り組みにも携わるようになった。そこで用いる教材について、どうやったら生徒がプログラミングを身近で面白く感じてくれるかだけを考えて設計する作業などは、20代の頃の僕と同じ、伸び伸び自分らしくやれている仕事の一つで、原点回帰の良い機会になったかもしれません。また、多くのエンジニアと対話をする中で、だんだんと考え方が変わり始めた気がします。
仕事としてエンジニアをやっている以上、必ず結果は問われる。ただし、全てのチャレンジが成功するとは限らない。
また、数字的には失敗したものであっても、「このサービスのこの部分に、この技術をこう使ってみたのは面白かったよね」という、エンジニア同士、分かる人が見れば分かる成果の形があります。そしてそれが、「次の成功につながるかもしれない種」となっていくことを実感できるようになってきたんです。
僕が手を動かした仕事を通して、そういう種まきができているならいい。何かが生まれそうな匂いを最大化する役割ってのもいいんじゃないか。40歳を過ぎてから、そんな柔らかい発想ができるようになってきました。
最近は、余計なしがらみを考えないで、とにかく思い立ったら作ってみるという感覚が戻ってきてる感じがしてるんですよ。「これいいでしょ?」と言えるものをいつ出すか。自分でもちょっとワクワクしています(笑)。今そんなふうに言える自分は、若い頃思い描いていた理想の40代です。50代になってもやっぱり手を動かしてモノづくりをしている、いちエンジニアでいたい。
天才なんかじゃないけれど、そんなことはとっくの昔に自覚していたけれど、吹っ切れた今の自分には、また昔のような自信が湧いてきています。作るのが楽しくてしょうがない自分が、やっと帰ってきた。それがうれしいし、これからの自分にまた期待してほしいですね(笑)。
取材・文/森川直樹 撮影/小林 正(スポック)
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