学び続けることが求められる時代だが、何かを習得するのに反復練習は不可欠だ。働き方の自由度が上がったことで規律やリズムを自ら設ける必要性も高まるなど、「習慣」の重要性が増している。繰り返しの作業を仕組み化するのはエンジニアの真骨頂。先輩エンジニアの独自の習慣と、楽しんで続けるための仕組み化の工夫を聞く
小さな習慣が組織を変える。データが示す生産性向上の本質的アプローチ【ハピネスプラネット 矢野和男】
日立製作所フェローの矢野和男さんは幸せ研究の第一人者だ。
人や組織のいい状態、すなわち幸せは紀元前の昔から人類の大きな関心事だったが、長らく個人の経験則にとどまってきた。
この分野にテクノロジー・データの力を持ち込み、解像度高く解明することに取り組んできたのが矢野さんのこの20年と言える。
単なる研究・解明に止まらず、その成果を社会実装することにも意欲的。幸せを理解し、組織の文化や風土をより良くしていくための企業向けサービス『ハピネスプラネットジム』は、2022年2月のリリースから1年で140社以上が導入している。
さらに、この輪を会社組織を超えた社会全体に広めるべく、このほど個人向けサービスの『ザ・サークル』をリリースした。
『ザ・サークル』のサービス概要文には「日々の小さな習慣により、あなたの人生は力強く変えられる」「幸せになる力をスキルアップする習慣をつくりませんか」とある。
「習慣」は、個人の幸福度を高めてくれるというこのサービスの中核をなす概念のようだ。
そこで今回は、連載の「エピソード・ゼロ」として、矢野さんにインタビューをお願いした。幸せ、生産性と習慣にはどのような関係があるのか。『ザ・サークル』に施された習慣化を促す仕組みとはどのようなものなのか。
失われた「用事のない人同士をつなぐ」機能
——今日は幸せと生産性、習慣がどのような関係にあるのかを伺いたいと思っています。矢野さんのこれまでの研究活動と新サービス『ザ・サークル』はどう関係していますか?
ハーバード大学の長期にわたる追跡調査は、幸せの普遍的な要因が人間関係にあることを示しました。
人々の幸福を高めているのは家柄でも学歴でも年収でもない。いい人間関係を築けているかどうかが、その人の幸福度を左右するというのです。
では「いい人間関係」とは何か。あいつとは気が合う。だからいい関係。あいつとは気が合わない。だから悪い関係。多くの人はそういう素朴な理解をしているのではないでしょうか。ところが実際はそういう話ではないのです。
人の性格はビッグファイブと呼ばれる五つの要素の掛け合わせで決まるとされています。広大な五次元空間に打たれた点のようなものなのです。
ですから、似ている人など誰一人として存在しない。そもそも人と人の気が合うこと自体が本来ならありえないのです。
では、あらためて「いい人間関係」とは何か。データはそれを解像度高く示しています。
ある人がよく話す相手二人がお互いにコミュニケーションをとる関係にあると、その三人の関係は三角形になります。これがデータの示す「いい人間関係」です。
逆に、知り合い二人の間にコミュニケーションがない場合、三人の関係はV字型になりますが、これはよくない人間関係です。
なぜV字型の関係ができてしまうのか。それは会話を単なる情報の伝達だと考えているからです。
V字を経由しても要件さえ伝われば問題ないと考えている。ところがこれは大きな勘違いであることが分かっています。
サルは毛づくろいすることでお互いが仲間であると常に確認し合いますが、われわれ人間にもサルと同じDNAが残っています。
サルにとっての毛づくろいに当たるのがわれわれにとっての会話です。会話とは、お互いが仲間であって敵ではないことの確認作業なのです。
用事がなくても会話をし合える三角形の関係とは、お互いが仲間であるという共通理解と共感のある状態を意味しています。V字型の関係にはそれがないということです。
寮生活、社員旅行、運動会、タバコ部屋……。かつての日本企業には用事がなくてもつながり合い、仲間であることを確認するための仕組みがたくさんありました。
効率を追求する考え方が主流となり、この30年で用事を効率よくこなすための仕組みは充実しましたが、用事のない人がつながる仕組みはことごとく失われています。これは企業組織の中でも、その外側の地域や社会でも同じです。
人々の幸福度を高め、生産性を上げるためには、用事のない人同士をつなぎ直す新たな仕組みが必要です。
それを企業向けに提供してきたのが『ハピネスプラネットジム』、企業組織を超えて個人向けに提供するのが『ザ・サークル』ということになります。
人間関係の質が生産性を決める
——幸福度と生産性は近しい関係にあると考えていいのでしょうか?
幸せであることと生産性が高いことの関係は極めて深いです。
多くの人は仕事がうまくいくと幸せになるものだと思っていますが、データが示す実際はその逆です。幸せだと仕事がうまくいくのです。
人は一人で生きているのでも働いているのでもありません。ですから、パフォーマンスを上げたければ、周りとのコミュニケーションの質を上げる必要があるでしょう。
また、コミュニケーションの質が高い状態とは、多様な意見やアイデア、気付きがちゃんと表に出る状態のことを言います。
コミュニケーションの質を上げたかったら、関係性の質を上げなければなりません。先ほど触れたような三角形の関係をつくらなければならない。
用事がなくても話せるような関係がもともとなければならないということです。それがなければ、いざ用事のある場面になって急にいいフィードバックなど望めるはずがありません。
働く人の幸せを無視してただ「パフォーマンスを出せ」とだけ言っていても逆効果です。ストレスがたまるし、言われたことや数字以外が目に入らなくなり、視野が狭まる。
するとクリエーティビティーも周囲との関係性も悪くなる。ますます数字が上がらなくなり、最終的に離職してしまうといったことも起こります。
まず関係性の質を上げて、コミュニケーションの質を上げ、その結果としてパフォーマンスが上がるというのが、データが示す本質的なアプローチです。
そうした状態は本人にとっても幸せなので、ますますそういう人が組織に集まるという好循環に入ります。
けれども、このような本質的な考え方ができている会社組織はまだまだ少ないです。
多くの企業は「働く個人の幸せも大事かもしれないけれど、業績とは別の話だよね」と思っている。しかし実際はそうではありません。これこそが本質だということです。
他者からの「応援」が前向きな習慣をつくる
——『ザ・サークル』の仕組みについても簡単に教えてください。
用事のない人同士にいきなり話せと言っても普通は難しいです。
タバコ部屋で会話が始まるのはタバコがあるから。犬の散歩をしていて会話が始まるのも犬という存在があるから。何かしらの触媒が必要です。
『ザ・サークル』における触媒はシステムが出題するお題です。
例えば「最近読んで面白かった本は?」など。コメントすると回答が10人程度のチームメンバーに共有されるので、メンバーはこれに「応援」のコメントで応えます。
そこから、用事だけやっていたのではあり得なかった会話が始まるというわけです。
これを繰り返すことで、10人のメンバーはどの3人をピックアップしても三角形の関係になります。
気心の知れた少人数の仲間とたき火を囲んでいるかのような、前向きに自己開示したり、気づきを与え合ったりする場を持つことができます。
1回切りのイベントであれば、つながるための仕組みはこれまでにもありました。ですが、それでは忙しい日常に戻ると、またV字の関係ということになってしまう。
重要なのはこういう場所を日常の中に持っていること。すなわち習慣が大事だということです。
——習慣化のポイントを挙げてもらうとすると?
まず、当然ですが、毎日やることがあるということです。
『ザ・サークル』の場合は、お題を見てコメントを書く。簡単ですが、それがいいんです。あまり敷居の高くない、小さなことである方がいい。
次に、そういう小さなアクションに対して報酬があること。ここでは周りからの「応援」がそれに当たります。そうすると小さな習慣のループが回り始める。
人は同じことだけやっていると飽きてしまいます。ですから、飽きさせない仕組みも大事です。続けるには、少しずつ難易度を上げ、新鮮さを保つ必要があります。
——『ザ・サークル』における報酬は他者からの「応援」ですが、習慣をつくる上で他者の存在は必須ですか?
報酬にはもちろんいろいろとあります。達成感、体にいい、お金になる……など。
ですが、他者からのフィードバックはそれらと比較にならないほど大きな効果があります。なぜなら、良好な人間関係を築くというのは人間の本能と結び付いた欲求だからです。
脳は考えるためにあるのではありません。人との関係をつくるためにあるのです。人間の脳のサイズは、集団のサイズが大きくなるのにきれいに比例して大きくなりました。
自分とは違う人となんとか関係を築き、協力し合って共に学ぶことこそ、他の動物と比べて人が優れているところです。
「応援」とは、相手の力が増すようにエナジャイズする利他的行為です。
利他的であることこそが人の前向きさ、幸せの中核にあると私は考えています。
『ザ・サークル』のメンバーはもともと用事のない人同士の関係ですし、自己紹介文から得られる情報も限られています。
そんな中でもどうすれば相手をエナジャイズできるかと真剣に考えること、そういう習慣を持つことが極めて重要なのです。そういう人が社会に多いことが、社会が幸せな状態だとも言えます。
ネガティブなフィードバックでは意味がありません。人はネガティブなフィードバックを受けると「やらなければよかった」と感じてしまいます。ゆえに習慣にならないのです。
ギャラップ社の調査によれば、日本企業には「熱意ある社員」が6%しかいないといいます。良かれと思って何かアクションしても、上司からはネガティブなフィードバックばかりが返ってくる。だから、次第にやる気を失ってしまうのでしょう。
その結果停滞してしまったのが日本の現状と言えるのではないでしょうか。
AI社会。最後に残るのは……
——テクノロジーと幸せの橋渡しをしてきた矢野さんから見て、Chat GPTやAIという新たなテクノロジーはどう映っていますか。人間の幸せは今後どう変わるでしょうか?
考えるべきは、「どう変わるか」ではなく「どうしていくか」でしょう。
私も毎日触っていますが、『Chat GPT』はすばらしいものですよ。でも、そのすばらしさはまだ十分に認識されていないように思います。
『Chat GPT』がもたらしたものは何かと考えてみましょう。
まず、コンピューターの機能の作り方が変わりました。これまではプログラミング言語によって指示を出していたわけですが、それが自然言語でよくなった。
さらに、自然言語として出力されたものを再びプロンプトとして入力することもできるので、開発者がいなくても自律的に回るようになります。
そうすると、次にインターフェースが変わります。GUIが必要だったのは、これまでのコンピューターが自然言語を理解しなかったからです。
それゆえ「クリックする」「タップする」といった、考えてみれば不自然なアクションを人間に強いていた。人が介入しなくてよくなるのであれば、GUIも不要になるということです。
そして、人間存在そのものの理解を変えました。例えば「知性」とは何か。「理解する」とはどういうことか。
シンプルな仕組みであそこまでのことができる『Chat GPT』は、「理解するとは、それまでの文脈に沿って次の言葉を選択できることでしかない」と示唆しています。
そんなことを言っている人は、ついこの間まで誰もいませんでした。
いずれに関する変化も、ここまでに起きているのはほんの第一歩にすぎないでしょう。劇的な変化は、この先に待っている。
この三つのどれにも依存していない仕事も社会もない以上、今後あらゆることが劇的に変わるということです。
——エンジニアのキャリアはどう変わるでしょうか?
「自律的に回る」と言っても、現状「何を」「どれくらいの抽象度で」入力すればいいかといった設計はなにかしらのかたちで必要になります。
「プログラミング言語そのものを設計する」「サービスの仕様を決める」といった仕事と似た役回りです。
ですから、エンジニアは必然的に上流に行かざるを得ない。それも徐々にではなく、急速に、です。
ただ、それ自体は肉体労働を馬に置き換えたり、馬を機械に置き換えたりした時に起きたことと基本は同じでしょう。
上流へ上流へとのぼった先の、最上流にあるものは何か。それが人との関係性ではないかと思うわけです。
AIがこの先進化を遂げるほど、人間理解の必要性はますます大事になる。私はそのように考えています。
取材・文/鈴木陸夫 撮影/竹井俊晴
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