近年、組織作りにおける「心理的安全性」の重要性は多くの人が知るところとなっている。特に長らく売り手市場が続いてきたエンジニアリング組織では、優秀な人材の採用や定着のために心理的安全性の高いチームビルディングが重要事項の一つとなっている。
その役割は、多くの組織でEMが担うケースが多いだろう。メンバーのケアに注力するあまり、自身のメンタルヘルス管理は後回しになっているEM もいるのではないだろうか?
EMも含め、組織に属する全員がヘルシーに働けてこそ「良い組織」だ。そこで今回は、EM経験を持つLayerXのあらたまさんこと新多真琴さんと、30社を超える企業で産業医を務める大室正志先生に、それぞれの視点から「EMが疲弊してしまう要因」と「EM自身が心身ともに健康的に働くために大事なこと」を聞いた。
LayerX 新多真琴(あらたま)さん(@ar_tama )
国立音楽大学卒。在学中よりプログラミングを独学で学び、面白法人カヤックやGoogleのインターンにも参加。卒業制作としてオリジナルアプリ『テンスウリズム』を制作の後、新卒でDeNAに入社する。その後はセオ商事、ロコガイドへと転職し、2021年6月にCake.jpに入社。22年1月からCTOを務める。23年9月にLayerXにエンジニアリングマネージャーとして入社。以降、エンジニアとマネジャーのポジションをフレキシブルに行き来しつつキャリアを重ねている。日本もちもち協会代表。料理・音楽ユニット「All My Relations」共同主宰としても活動中。好きなもちもちは餅と団子
大室産業医事務所代表 大室正志さん(@masashiomuro )
産業医科大学医学部医学科卒業。ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社統括産業医、医療法人社団同友会産業医室を経て現職。専門は産業医学実務。メンタルヘルス対策、生活習慣病対策等、企業における健康リスク低減に従事。現在日系大手企業、外資系企業、ベンチャー企業、独立行政法人など約30社の産業医業務に従事。経済メディア『NewsPicks』ではプロピッカーとしても活躍。社会医学系専門医・指導医。著書『産業医が見る過労自殺企業の内側』(集英社新書)
健全に「ズケズケ言い合える」状態こそ心理的安全性の高さの証明
ーーそもそも「心理的安全性が高い組織」とはどんな状態を指すのですか?
大室: 心理的安全性とは、組織の中で不安や恐れを感じることなく、自分の考えや意見を率直に言い合える状態です。
この言葉は誤解されやすく、相手が傷つきそうなことや意見が衝突しそうなことは言わないのが心理的安全性だと思っている人も多いのですが、むしろお互いにズケズケ言い合っても大丈夫と思えるのが「心理的安全性が高い組織」といえます。
ーー「心理的安全性が高い組織」はどのように作られるのでしょう。
大室: 組織の心理的安全性を高めるには、メンバー全員がルールを理解することが必要です。例えば戦略系コンサルティングファームでは「ロジックベースで物事を考え、発言すること」がルールとして浸透しています。他人に対して厳しい指摘をすることがあっても、「これはそういうルールなので攻撃じゃないよ」と全員が理解できているから、チームとしては心理的安全性が高い状態を保てるわけです。
とはいえ、これはかなり高いレベルで心理的安全性を実現しているケースであり、全員がプロフェッショナルとしての自覚を備えているからできること。一般的な組織がいきなりこのレベルを目指すのは難しいでしょう。
よってマネジャーは自チームの現状を見極めながら、「この組織ではどのレベルの心理的安全性を目指すべきなのか 」「そのためにどんなルールを定めるべきか 」などを考えなければいけない。「こうすればうまくいく」という正解がないだけに、マネジメントの難しさを感じている人が多いのではないでしょうか。
ーーEM経験者であるあらたまさんは、心理的安全性の重要性についてどのように認識されていますか。
あらたま: 私が新卒で入ったDeNAでは、会長の南場智子さんが「おもねるのはやめましょう」というメッセージをよく発信されていました。「おもねる」とは、人の機嫌を伺ったりこびへつらったりすること。つまり、たとえ経営陣が「これは黒だ」と言ったとしても、自分は「白かもしれない」と思うなら、心の中に留めるのはやめて口に出しましょうということです。これはまさに心理的安全性に通じる考え方だと思います。
大室: 心理的安全性が高い組織の特徴の一つは、「うちはこんな会社です」と看板に書いてある ことだと思うんです。南場さんの場合は「うちは“おもねらない会社”です」と書かれた看板を掲げたわけですね。
行動規範が看板に書かれていると、現場の社員同士も会話しやすいんですよ。「私はこう思う」「いや、自分はそう思わない」と主張をぶつけ合うのではなく、「うちは顧客への責任を最優先する会社ですよね。だから今回の件はこうすべきではないですか」と建設的に議論ができますから。
ーー共通認識が持てている状況を作ることが重要なのですね。
大室: そうですね。加えて、心理的安全性を高めるもう一つの要素が、コンテクスト(文脈)を理解していることです。
お互いの人となりを理解していれば、「この人の返信はいつも素っ気ないけど、怒っているわけではなく、最小限の言葉でコミュニケーションしたいタイプなのだ」という文脈を読み取れる。だからフィードバックの機会を増やすなどして一人一人が持つ文脈への理解を深めることは、マネジメントの手法としても理にかなっています。
あらたま: マネジメントに関して言うと、現職のLayerXに入社した理由の一つが「トラストフルチームフィードバック」という心理的安全性を保つための取り組みに共感したからなんですよ。
これは上長からのみではなく、一緒に働く仲間ともフィードバックし合える、いわゆる360°フィードバックのような制度なのですが、前提にあるのはお互いを理解した上で、相手への期待値と評価を相互に伝え合うコミュニケーションを歓迎するという考え方です。
相手はどんなことが得意・不得意で、どんなことをされたらうれしく、何をされたら嫌だと感じるのか。こうした理解を踏まえた上で相手に何を期待しているのかを伝え、「期待値より高い貢献をしてくれてありがとう」とか「この部分はまだ足りないから、どうやって乗り越えるか一緒に考えよう」といったフィードバックを行い、次のアクションへつなげていく。こうした組織のあり方はすごくいいなと感じています。
エモーショナル・スポンジに徹して疲弊するEMたち
ーーあらたまさんはEMとして、チームの心理的安全性を高めるためにどのような取り組みをしてきましたか。
あらたま: 前職でEMになった時は、まず全員に対して「私はあなたの意見を尊重します。だから言いたいことがあればどんどん伝えてください」というメッセージを発信しました。
さらに「私が間違っていると思ったら指摘して欲しい」とも話し、実際に指摘してくれたメンバーには「言ってくれてありがとう。私が間違っていたので方針を見直しましょう」と伝えるようにしていたんです。マネジャー自身がつまずいて転んでみせることで、メンバーも「このチームでは転んでも大丈夫なんだ」と安心してもらえると思ったので。
もう一つ意識したのが、メンバーの意見が反映されて周囲が変わっていく様子を見せること です。
「どうせ意見を言っても何も変わらない」と思われるとみんな口をつぐんでしまいます。なので、メンバーからの指摘や提案を私自身が次のアクションにつなげるのはもちろんのこと、必要であれば自分がハブになって経営陣や他部署にも伝えるようにしました。それによって周りの行動が変われば、メンバーも「自分の意見が尊重されている」と感じられます。
ーー心理的安全性の高い組織を作る上ではEMの存在がきわめて重要だと思うのですが、メンバーのケアに注力するあまり自分のメンタルヘルスが二の次になってしまう……というケースも多いのでは?
あらたま: EMに限らず、マネジャー職は二面性を求められる場面が多い立場ですからね。自分自身の感情をストレートに伝えるのではなく、心のうちをどの程度まで表に出すかを常に調整しなければなりません 。
加えてミドルマネジャーは上と下の板挟みになることが多く、上司から言われたことを自分なりに咀嚼した上で、メンバーが理解しやすい言葉に翻訳して出力するという作業が必要です。
これらは体力も気力も使う仕事ですし、言葉を変換するプロセスにおいて自分の感情を処理しきれないこともよくあるので、知らず知らずのうちにみずからを苦しめてしまった経験のあるEMは多いと思います。
大室: マネジャーが上司、つまりは経営者の言葉を翻訳するのがなぜ大変かというと、その時々で方針がブレるからなんですよね。昨日まで「山梨側から富士山に登るぞ!」と言っていたのに、今日になったら急に「やっぱり静岡側から登ろう」と言い出す。こんなタイプの経営者は少なくありません。
ただし経営者の視点に立つと「富士山に登る」という目的は変わっていないんですよ。本人の中では「天気予報が変わったから登山ルートも変えるべきだ」といった合理的な判断があるのですが、方針が変わるたびに振り回されるマネジャーはストレスが溜まるはずです。
あらたま: EMがメンタルヘルスを損なう要因としては、他者のネガティブな感情を吸収する「エモーショナル・スポンジ」になりやすい ことも挙げられます。上からも下からも強い感情をぶつけられる機会が多く、私もメンバーと話している時に、同僚への愚痴から経営陣の批判までさまざまな否定的な言葉を聞くことがよくありました。
もちろん相手に同調する必要はないので、話は聞いた上でお互いが納得できる着地点を探っていくようにしています。とはいえ相手は感情的になっているため、まずは落ち着いてもらうところから始めなければなりません。その対処をした後は精神的にすごく疲弊します。
ーー大室先生は企業の管理職層と接する機会も多い立場ですが、産業医の視点から見た「マネジャー職がメンタルヘルスを損なう要因」をお聞かせください。
大室: メンタル不調を起こしやすい人は、「べき思考」が強い 傾向が見られます。「こうすべき」「こうあるべき」という考えに縛られると、その基準から少しでも外れたことは許せなくなってしまう。「経営陣が言うことも分かる。でも自分はマネジャーとしてこうすべきだ」と最後は“べき”に戻ってしまうんですね。
これって精神的にすごくしんどい。「べき思考」が強い人は、他人だけでなく自分にも厳しいので、結局は自分自身が苦しむことも多いんです。
あらたま: 実は私も以前は「べき思考」が強い人間でした。当時は自分にも周囲にも高い期待をかけていて、その期待値に届かないと「なんでできないんだろう」と理不尽な苛立ちを募らせていたんです。
でも次第に、相手への解像度が低い状態で「あなたはここまでやるべき」と自分の基準を押し付けることの傲慢さに気付くようになって。そこから「べき思考」に捉われない自分へ少しずつ変わっていったように思います。
他人に期待すること自体は悪いことではないはずです。大事なのは自分の中で勝手に期待を膨らませるのではなく、お互いへの期待値をきちんと伝え合う こと。マネジャーがメンバーに「私はあなたにこんな成果を期待しています」と伝えるだけでなく、メンバーからもマネジャーに「私はあなたにこんなサポートを期待しています」と伝えることも必要です。
そして現実と期待値にギャップが生じたときは、その原因や背景を客観的に評価する。お互いの間で擦り合わせた期待値を、二人で客体として冷静に眺めることができれば、自分や相手を苦しめることにはならないのかなと思っています。
大室: 大人の対人関係において期待値のチューニングは大事ですね。
子どもは物事を「白/黒」や「好き/嫌い」で二分するんですよ。誰かに褒められると「この人、私のことを分かってる!」と好感を持ち、少しでもネガティブなことを言われると「この人、私のことを分かってない!」と嫌悪する。全肯定か全否定しかないのが子どもっぽい発想の特徴です。
それに対し、部分肯定や部分否定を受け入れて、「今の上司はあまり褒めてくれないけど、仕事をちゃんとサポートしてくれるところはいいよね」とチューニングできるのが大人というもの。お互いの文脈を理解して心理的安全性を高めるためにも、期待値の調整が重要です。
己を知ることがメンタルヘルスを保つ第一歩
ーーEMとして苦労した経験がありつつも、あらたまさんはキャリアやマネジメントについてポジティブな発信を続けていますよね。どのようにご自身のメンタルをケアしているのでしょう?
あらたま: 行き詰まったときは、自分が抱いている感情やその引き金になった出来事について書き出すようにしています。
腹を立てているのなら、「私はなぜこんなにイライラしているんだろう?」と考えてみる。これほど強い怒りが湧くのは何が心の琴線に触れたからなのか、そもそも何が自分の琴線なのか。こうしたことを書き出して、自分自身と向き合う時間を作っています。
自分のことは意外と分かっていないので、まずは自分自身をちゃんと知ることが大事 なんじゃないかなと。
大室: 己を知ることは自分のメンタルヘルスを保つ上で重要です。「自分はこんな時に怒りが湧く人間なのだ」と認識できれば、その感情をどうマネージするかを考えることができます。
ただ、自分と向き合う作業は、楽しいものではないかもしれません。なぜなら不都合な真実を知ってしまうことも多いからです。「こんな些細なことで自分はムカついていたのか」と自分の格好悪さに気付くこともあるでしょう。
とくに「べき思考」が強い人は、自分の感情と向き合うことを嫌がります。「自分は多少のことでは傷つかない格好いい人間であるべき」と考える人は、自分の感情を認めず、なかったことにしてしまうから。
でも人間は感情を消し去ることなどできないので、無理をすれば体に不調が現れやすくなります。怒りや悲しみなどの強い感情は制御するのが難しいので、自分の中にある感情をいったん認めた上で、どう対処するかを考えるのが適切です。
あらたま: 今お話があったように、メンタルの不調が体に現れてしまうケースはよくあると思うのですが、そこに至る前に予防する方法はあるのでしょうか?
大室: まず前提として、人間の土台は体、つまりフィジカルです。だから睡眠や食事をしっかりとって肉体のコンディションを整えることが大事。自分の心の変化には敏感でも体の変化には無頓着な人もいるので、心と体の両方に目を向けることを意識してください。
その上でお勧めしたいのが、1日のスケジュールをタスクでびっしり埋めるのではなく、何もしない時間を作ること。特に今の時代は、スマホやパソコンから離れる時間を設けることが重要です。
何もしない時間が必要な理由は「今ここ」に集中できるから です。未来を考えて不安になったり、過去を振り返ってクヨクヨしたりするのではなく、今に集中することでストレスが軽減されます。
その手段として有名なのがマインドフルネスですが、皿洗いや靴磨きなど何も考えず無心になれる作業をしてもいい。何もしないなんて非効率に思えるかもしれませんが、心のセルフメンテナンスとしては効果的です。
あらたま: 最近はタイパが重視されがちですもんね。私もシャワーを浴びている時間がもったいなく感じられてポッドキャストを“ながら聴き”しているのですが、今ここでシャワーを浴びることだけに集中したほうが気持ちもスッキリするかもしれませんね。
取材・文/塚田有香 編集/秋元 祐香里(編集部)