USD
代表取締役社長
上原正士さん
専門学校でプログラミング言語を学び、開発会社に就職。その後派遣社員として複数社でIT関連の各種業務に従事した後、トーメンテレコムに転職。コールセンター設置プロジェクトを多数リード。トーメンテレコム退職後はソニーに転職し、約2年間エンジニアとして勤務。フリーランスのITコンサルタントを経て、2004年にUSDを設立
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選ばれる企業には、必ず理由がある。技術力や実績だけではない、もっと根源的な魅力――その一つが、経営者という人そのもののカリスマ性だ。
大手企業から次々と声がかかるUSDもまた、そんな人が中心にいる会社。代表は、自身もエンジニアである上原正士さん。なぜ彼のもとには人が集まり、USDは20年以上も継続できる企業となったのか。
前回の取材でも企業としての強さを探ったが、ぜひもう一歩踏み込んでみたい。そのため今回は、若き日から上原さんを知るエンジニア仲間を社外から招いて対談を実施した。
バブル崩壊後、時代に翻弄されながらも理不尽やトラブルに正面から挑み、折れずに突き抜けてきたエンジニア・上原さんは、どのように“経営者”となっていったのだろうか。旧知の仲であるエンジニア・武田一徳さんの視点から探った。
USD
代表取締役社長
上原正士さん
専門学校でプログラミング言語を学び、開発会社に就職。その後派遣社員として複数社でIT関連の各種業務に従事した後、トーメンテレコムに転職。コールセンター設置プロジェクトを多数リード。トーメンテレコム退職後はソニーに転職し、約2年間エンジニアとして勤務。フリーランスのITコンサルタントを経て、2004年にUSDを設立
丸紅情報システムズ
デジタルプラットフォーム事業本部
ネットワーク技術部 部長
武田一徳さん
新卒で異業種に就職した後、未経験で現職企業に業務委託として参画。当時、上原さんと出会う。約7年勤務し、転職。その後、丸紅情報システムズに再入社。現在は管理職としてマネジメントを手掛ける
ーー上原さんは二度目のエンジニアtype登場ですね。武田さんは上原さんとはどういったご関係なんですか?
武田:上原と知り合ったのはバブルが崩壊した直後で、二人とも25歳くらいの頃ですね。当時の私は、現在勤めている会社で業務委託として働いていて、上原も派遣社員として同じ部署に配属されていたんです。同い年だし、車やバイクが好きという共通点もあったので、なんとなく話すようになっていきました。
上原:一緒にタバコ休憩したり、仕事が終わってから夜の街に繰り出したりしたな。
武田:そうそう。会社で顔を合わせることは少なかった。二人とも現場を飛び回っていたし、IT業界に入って間もなくて必死だったから。
当時はインターネットが普及し始めた頃で、業界自体が未成熟。仕事を覚えようにもマニュアルすらない。私も異業種から転職したばかりだったので、何も分からないなりに現場に行って、朝から晩まで初めて見るような機械と格闘する日々でした。
上原は1年弱しかうちの会社にいなかったから、別々の会社で働くようになってからの方がよく遊んでたかもしれないですね。「新しい車を買ったから見に来いよ」みたいな感じで、連絡を取るようになって。
ーー上原さんが派遣社員を辞めた後ということは、前回の取材で聞いたコールセンター設計関連のプロジェクトに携わっていた頃ですか?
上原:そうです。トーメンにいた頃ですね。私は電話交換機に使われるボイスネットワークに携わっていて、武田は前にいた会社でデータネットワークを担当していたんですが、扱っている製品が同じメーカーだったんですよ。
武田:音声とデータという違いはあれど、ネットワークの構築という意味では近い仕事だったし、メーカーも被っていたから、話が分かる部分も多かったんですよね。だからお互いの職場に遊びに行っては、「仕事でこんな失敗しちゃったよ」なんて愚痴を言い合っていました。
上原:ちょうど大企業が本格的にコールセンターを設置し始めた黎明期で、航空会社や金融機関、消費財メーカーなどの大手企業の案件を軒並み手掛けていたんです。
武田:上原がほとんど一人でやっていましたからね。「今月中にこのシステムを作んなきゃいけないんだよ」とか言いながら、会社に泊まり込んだり、土日も休まず仕事したり。
私もデータネットワークで大型案件を任されるようになっていたので、どれだけ大変な仕事かは想像がつく。それも日本を代表するようなビッグユーザーが立ち上げる新規事業を担っているのだから、「あいつはボイスネットワーク業界でそれなりのポジションを築いたんだな」って思っていました。
上原:運が良かっただけだと思いますけどね。コールセンターの構築なんて誰もやったことがない新しい仕事だったから、他に「やってやろう」って人がいなかっただけじゃないかな。
武田:新しいことを任されて、踏ん張って最後までやり遂げたら、次の依頼が来るんですよね。誰も経験したことがない仕事だから、最初は大抵トラブったり、ミスったり、怒られたりする。でもそこを耐え抜いて、突き抜けたら、もうお客さんはこちらを頼るしかなくなるから。
上原:そうそう、途中で逃げちゃったら次はないけど。
とはいえ私だって心が折れることもありますよ。某大手企業の案件で新システムのリリースが間に合わず、新聞に載るほどのトラブルになった時は、クライアントの本社に呼び出されて、偉い人たちの前に立たされましたから。
裏事情を明かすと、この件は最初からトラブることが分かってたんですよ。国内で導入実績のない海外製パッケージを入れるように指定されたんですけど、エンジニアから見れば日本の環境では正常に動かないことが明らかでした。
もちろん私も抵抗しましたが、「すでに決まったことだから」とメーカーに突っぱねられて……という背景です。
武田:当時はそういうケースも多かったんですよ。世の中のいろんなものがITに置き換わっていく時期で、仕事は多いのにリソースは足りない。ろくに時間や予算を与えてもらえないまま、無理難題を押し付けられることもザラでした。
もちろんそんな経験はしない方がいいし、本来ミスやトラブルはあってはならない。でも、あの時代に理不尽な経験をして、潰れずに這い上がったからこそ得られたものがあるのも確かです。
別に若い頃の失敗を武勇伝のごとく語りたいわけではないんですよ。でも、潰れなかったことはちょっとだけ自慢かな。
上原:メンタルの耐久性は格段に上がりましたね。前例のないシステムを自分でゼロから作り上げるのも、当時だからできた経験かもしれないし。今はなんでもマニュアルがあるし、ある程度のことはAIでできちゃうから。
ーーその後、上原さんは起業、武田さんは大手企業でキャリアを積む道を選んだわけですよね。上原さんが安定した会社員を辞めて起業した時、武田さんはどう思いましたか?
武田:「やっぱりね」という感じでした。どう考えてもこの人、会社員に向いてないから。
だって出社する時も、『マトリックス』のキアヌ・リーブスみたいな黒い皮のロングコートに、謎のキャラクターが描かれた真っ黄色のネクタイをつけて、「うぃ〜っす」って来るんですよ。会社員として許される格好じゃない(笑)
きっと上原は会社に合わせるのが嫌というか、自分で好きなようにやりたいという気持ちが強いんだと思います。
私は大きな組織の中で結果を出して責任あるポジションを任せられることにやりがいを感じるし、そういう環境で仕事をするのが嫌いじゃないから、似ているようで違うタイプなんですよね。
上原:好きなものは好き、嫌いなものは嫌いって言いたいんですよね。会社員の立場だと言えないことも多いじゃないですか。
武田:そういうタイプだから起業できたんですよね。大抵の人は起業のリスクを恐れるけど、上原はいい意味で我が強いから、経営者として踏ん張れたんじゃないかな、と。
20年以上もUSDが潰れずに存続していることは素直にすごいと思います。普段の仕事で、USDと同規模のパートナー企業と協業する機会が多いので、中小企業が経営を維持する難しさはよくわかりますから。
上原:起業することよりも、その会社を継続する方が何倍も大変だって後になってから気付いたんですよ。
よく企業経営を「山あり谷あり」と表現するけど、実際は山なんてほとんどない。「このままだと手遅れになるぞ」という危機感みたいなものがずっとありました。
ーーそれでも会社を続けてくることができたのはなぜだと思いますか?
上原:自分ではよく分からないけれど、私自身がいつも楽しくやってるからかな。仕事も趣味も常に楽しんでいるから、「この人と一緒にいると楽しそうだな」と思って周りの人が寄ってくる。趣味で知り合った相手から、仕事で声がかかることも多いですしね。
別に人脈を広げようとか、プライベートの付き合いを営業に使おうなんてつもりは全然ないんだけど。
ーー武田さんから見て、経営者になってからの上原さんに何か変化はありましたか?
武田:「人」の悩みは増えたんじゃないですかね。私も管理職だから分かるけど、部下を持つようになると、人に責任を持たなければいけなくなるので。
彼も一人で案件を任されていた頃は、気の合わない人がいても「あんなやつ放っておけよ」なんて言っていましたが、社長になったらそうはいかない。守るべき社員ができたからには、周囲の人たちのことを考えて組織を運営していかないと、それこそ会社は存続できません。
口に出して言わなくても、彼なりに社員たちのことを考えているのが伝わってきますね。
上原:自分では特に意識してないですよ。それに大手企業と違って、うちの会社に来てくれるのは少し変わった奴らばかりだし。社長がちょっとおかしいから、引き寄せられるのか(笑)
武田:「人を許容する力」は上がってるはずですよ。いろんな個性を持つ社員たちと付き合ううちに、他者を受け入れる範囲が広がったんだと思う。
上原:今でも許容できないタイプはいますよ。例えば「仕事のやり方を教えてください」という受け身の人。
われわれの世代は教えられなくても勝手に仕事を学んだし、自発的に技術や知識を磨いて這い上がらないと、会社やクライアントから簡単に切り捨てられる時代を経験してきた。だから自分で試行錯誤して、成功や失敗を繰り返しながら身に付けたスキルこそが本物だという意識が強いんです。
今はどの会社も研修や教育制度を用意して仕事を逐一教えるし、「教わっていないことはできません」という社員も多いと聞きますが、そんなエンジニアは生き残れませんよ。
だから私は「できないなら他の人に頼めるから構わない。でもこのままだと、君はエンジニアとして必要とされなくなってしまうよ」とはっきり伝えるようにしています。
武田:私の会社は比較的規模が大きいので教育制度も整っていますが、個人的には上原と同意見です。結局、第三者が教えても人は育たない。本人に育つ気がないと、上司や先輩がいくら教えても伸びないんです。
例えば学生時代に英語が苦手だった人が、仕事で英語が必要なチームに配属されたら、短期間で最低限のコミュニケーションができるくらいに上達した、ということはよくあるわけです。
人は勝手に育つものであり、本人がどんな環境に身を置くかが重要。他人が手取り足取り教えるより、さまざまな経験ができる場を与えればいい。あとは上司が余計な口出しをせず放っておくくらいの方が成長できます。
ーー上原さんは個性的な社員の力をどうやって伸ばしているのですか?
上原:それぞれの長所を伸ばせばいいんですよ。
仕事や勉強は崇高なものだと思われがちですが、どうすればその人の力を伸ばせるかは、小学校の体育の授業に置き換えると分かりやすいです。
同じクラスでも、鉄棒が得意な子もいれば、水泳が得意な子もいる。なのに体育の授業では全員に同じことをやらせますよね。
でも鉄棒が苦手な子に鉄棒をやらせてもつらいだけ。だから得意なものをやって、長所を伸ばすしかないんです。
そのためには、まずは本人が「僕は鉄棒が好き」「私は水泳がやりたい」と言わないと始まらない。エンジニアも同じで「この技術を扱いたい」「こんなプロジェクトに入りたい」と自発的に手を挙げないとダメなんです。
世間の空気や社会の常識に抑圧されて、自我を消すことが得意な人は多いけど、そのままだと指示待ち人間になってしまうと思います。
ーーではUSDでは社員がやりたいことをやらせて育てている……ということですか?
上原:本人が得意なことや好きなことはどんどんやらせます。うちは最新技術を扱う仕事やPoCから取り組む実証プロジェクトも多いので、未経験の領域でも興味や意欲があれば任せますよ。
AIやブロックチェーンの技術が登場したばかりの頃から、大学や大手企業と組んで共同研究や実証実験を手掛けてきましたが、これらもほとんど若手エンジニアに任せています。すると勝手にその領域のプロに育っていくんです。
ーー創業から20年以上が経過して、USDの将来についてはどう考えていますか?
上原:創業者の私がハンドルを握らなくても、若い人たちだけで自動運転できる組織になって欲しいですね。
現時点でもかなり自動運転に近づいていますが、新規顧客から案件を取ってくる人間が育つといいな。これまでは私とのつながりで仕事を依頼してくれる取引先ばかりだったので、その役目を果たせる人材が出てきてほしいです。
とはいえ、あまり心配はしていません。そのうち社員の方から「あのお客さんの仕事は僕が取ってきます」と言ってくると思いますよ。USDには欲や野心を持つ人間が集まっていますから。
すでにリーダークラスの社員は、私が知らないうちに会社のホームページをリニューアルしたり、展示会で配る資料をダウンロードできるようにしたりと、自発的に新しい顧客との接点を増やそうとしているので、きっと大丈夫でしょう。
武田:中小企業が存続するためには、仕事を継続発注してくれる主要顧客や、対外的に成功事例として自慢できる案件が必要ですからね。上原が介在しなくてもそのレベルの仕事を獲得できるようになったら安泰でしょう。それが実現したら、隠居するつもりなんじゃないの?
上原:うん、若い人に跡を継いでもらって、その後は中古車屋をやりたい(笑)
自発的に考えて行動できる社員が増えれば、私は安心して次の世代に会社を任せられます。
誰かの指示を待つなんてつまらない、自分がやりたいことをとことんやりたいという欲のある人たちが集まって、USDという会社をこれからも長く続けてほしい。それが創業者である私の願いですね。
文/塚田有香 撮影/竹井俊晴 編集/秋元 祐香里(編集部)
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