急カーブを描いていた成長曲線が、いったん踊り場を迎える。そんな感覚を持つのが、ソフトウエアエンジニアとしてちょうど10年ほど経験を積んだ頃ではないだろうか。
がむしゃらに技術スキル向上を目指していればよかった時代が終わり、さてこれからのキャリアの方向性は?とふと立ち止まる節目。そこで迷いなくクリアに次のステップを思い描ける人は意外と少ない。なぜならしっくり来る選択肢が目の前に存在するケースが稀だからだ。
マイクロソフト、グーグル、Incrementsで活躍してきた及川卓也氏は、そんな悩めるアラサーエンジニアに3つのキャリアパスを提示する。及川氏が語る、エンジニアの仕事人生を切り拓くヒントとは?
及川卓也氏
早稲田大学理工学部を卒業後、1988年、日本DECに入社し、営業サポート、ソフトウエア開発、研究開発などに従事。97年、マイクロソフトに転職し、Windows製品の開発統括に携わる。2006年に入社したグーグルでは、Web検索のプロダクトマネジメントやChromeのエンジニアリングマネジメントなどを行う。2015年、技術情報共有サービス『Qiita』を運営するIncrementsに転職。17年6月に独立し、プロダクト戦略やエンジニアリングマネジメントをテーマにスタートアップ支援や講演活動などに取り組んでいる
なぜ、アラサーエンジニアはキャリアに迷うのか?
「30歳前後のソフトウエアエンジニアの中で、今後のキャリアに迷っている層。その多くが、現状に対して『自分は正しく評価されていない』と認識しているように思います」
そう話すのは、マイクロソフトやグーグルで幅広いマネジメント経験を有し、現在フリーランスの立場でスタートアップの技術支援などに携わっている及川卓也氏だ。若いCTOの相談役のような立場で支援を行うケースも多く、30歳前後のソフトウエアエンジニアたちと接点を持つことも少なくない。そんな中、彼らが置かれている状況を及川氏はこう捉えている。
「いわゆる旧来型の日本企業では、例えば上司が技術に通じていなかったり、個人の業績が事業への貢献度だけで判断される組織であったり、いわゆる年功序列で個人の成果に応じた報酬が得られなかったりなどの理由で、テクニカルスキルの高さが評価につながらないケースがままあります。
また、社内のキャリアパスが限定的で、評価アップ=年収アップを果たすには、たとえ適性や志向がなかったとしても管理職への昇進を選択するほかないなど、多様性の乏しい人事制度に不安を覚えるエンジニアも多い。これではエンジニアが自分の将来を描けなくなって当然です」
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技術の蓄積が生かせるならまだしも、セールス部門とエンジニア部門との調整役や、単に管理業務に徹するだけの“狭義のマネジャー”は、憧れのキャリアにはなり得ない。それでも組織の要請に応じ「管理者」を選ぶか、それとも適正な評価を得られていない歯がゆさを抱えながら「エンジニア」であることを選ぶか――。
このまるで罰ゲームのようなキャリア選択の考え方から抜け出すには、そもそも検討するべき選択肢がほかにもっとあることに気付かなければならない。
「私が在籍していたマイクロソフトやグーグルをはじめ、成長著しい米国西海岸のテック系企業で働くソフトウエアエンジニアから、こうした悩みを聞くことはまずありません。
私自身はソフトウエアエンジニア、プロダクトマネジャー、エンジニアリングマネジャーを経験しましたが、それぞれに職務や職責に明確な定義があり、適性に応じた採用や配属が行われていました。つまり、エンジニアがキャリアを選択する際に明確な基準が存在していたのです。
残念ながら日本ではこうした明確なキャリアパスを提示している企業はまだ少ないように思います。しかし、エンジニア一人一人が視野を広げ、本来拓かれているべきキャリアの道筋を知ることで、自分らしい選択肢を手に入れることは可能だと思っています」
シリコンバレー企業に学ぶエンジニアのキャリア選択肢
エンジニアが満足度高く働いているシリコンバレーのテック系企業には、具体的にどのようなキャリアのバリエーションがあるのだろうか。
「米国のテック企業では、ソフトウエアエンジニアの次のステップとして、主に3つの選択肢が存在します。
エンジニア組織のマネジメントを手掛ける『エンジニアリングマネジャー』、高い技術力をもって開発チームを牽引する『テックリード』、エンジニア組織のマネジメントとは別の役割としてプロダクト開発の責任者を務める『プロダクトマネジャー』の3職種です。プロダクト開発は、一部兼務することはあるものの、基本的にはこの三者が中心となり、連携して進めていきます」
プロダクト開発における三者の役割分担や職責、求められる能力(評価軸)、必要な視点(思考軸)は、概ね次のようになるという。
【エンジニアリングマネジャー(Engineering Manager)】
主な役割 ■強いエンジニアチームを作り育てる
■イノベーションを起こすための環境構築やクリエーティブな発想を産む文化醸成
■部下のモチベーションマネジメント、キャリア構築支援
■実装技術の選定、技術ディレクション
■進捗管理、部門間調整、人事考課、チームビルディングなど
評価軸 ■技術的知見 組織マネジメント力 プロジェクトマネジメント力 リーダーシップ
思考軸 ■How(どうやって?) Where(どこで?) Who(誰が?)
【テックリード(Tech Lead)】
主な役割 ■高い設計能力・実装能力によって開発をリードする
■コードレビューなどでチーム開発におけるコードの品質を高め維持する
■メンター役としてチームメンバーをサポートする
評価軸 ■技術的知見 設計力 実装力 リーダーシップ
思考軸 ■How(どうやって?)
※エンジニアリングマネジャーがテックリードを兼ねることもある。
【プロダクトマネジャー(Product Manager)】
主な役割 ■プロダクトの方針を定め、成功に責任を負う
■ユーザー体験を設計し製品要求仕様を定義する
■開発、デザイン、セールス、品質保証、サポートなどと連携し、
仕様の実現に尽力する
■ローンチ後もプロダクト面から成長戦略を考え実行する
評価軸 ■構想力 発信力 技術的知見 プロジェクトマネジメント力 リーダーシップ
思考軸 ■What(何を?) Why(なぜ?)
エンジニアであれば、これらの職種自体は知っているだろう。しかし、実際に間近でその存在に触れ、共に開発に取り組んだ経験がある人は限られるはずだ。
「旧来型の日本企業で最も馴染みが薄いのは、テックリードとプロダクトマネジャーでしょう。テックリードについては、大抵のシリコンバレーIT企業には、技術スキルのレベルに応じた給与テーブルが確立されており、エンジニアとして技術力を高めていくことで年収も上げていくことが可能で、テックリードはエンジニアの上位の職位として位置付けられています。
会社にもよりますが、ソフトウエアエンジニアからテックリードを経た人がなる、ディスティングイッシュドエンジニア(Distinguished Engineer)やフェロー(Fellow)というような名前のポジションが用意されていて、業界内でもその名を知られるようなトップエンジニアになる道が拓かれていることもあります。そのような存在までにならないとしても、40代、50代でも第一線のソフトウエアエンジニアとして活躍している人は数多く存在しますよ」
こうしたキャリアが描けるのは、技術力の高さを適正に評価する仕組みがあればこそ。この評価を行うのがエンジニアリングマネジャーだ。日本企業では技術バックグラウンドを持たない管理職がエンジニアの評価を行うことも少なくないが、シリコンバレーではソフトウエア開発経験の無いエンジニアリングマネジャーなど存在しない。
「エンジニアリングマネジャーは、エンジニアチームを率いる部門長であり、エンジニアを育て、組織として機能させることが求められます。そのために、技術力はもちろん、プロジェクトマネジメント力、メンバーのモチベーション管理やキャリア構築支援、環境構築や文化の醸成なども職務範囲となります。
私自身がそうだったんですが、エンジニアも10年ほど経験を積んだ段階で、純粋な技術スキルの成長スピードが鈍化し始めます。そこで、もっと処理スピードを上げたい、できることをもっとスケールさせたいと思えば、自然と自分一人の力では限界があり、人を集めて何かを成し遂げることを考えるでしょう。
そのためには、リーダーシップや周囲への影響力を持つなど、ソフトスキルやヒューマンスキルを伸ばす必然性が出てくる。『この人と働きたい』と他のエンジニアに思ってもらうために、それは絶対必要なんです」
こうした志向から管理職へと転身したエンジニアの数は、日本ではまだ少ない。しかし、「今はまさに転換期」だと及川氏は指摘する。エンジニア人口が増え、企業側のエンジニア組織マネジメントに対するニーズが高まりつつある今、これから少しずつ技術バックグラウンドを持った管理職は増えていくはずだと読んでいる。多くの企業がシステムの内製化を始め、エンジニアを社員として抱えるようになった今、求められているのは技術の分かる管理職だ。
3つ目のプロダクトマネジャーは、及川氏が今最も需要が伸びていくと予測している職種だ。
「プロダクトマネジャーは、ユーザーに提供する価値を定義し、各部署を巻き込みプロダクトの成功を主導する中心的役割を担います。欧米ではプロダクトマネジャーを“ミニCEO”と表現することがあるほど重責を担う仕事です」
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こう書くと、エンジニアチームの上にプロダクトマネジャーが立つように捉えられるかもしれないが、エンジニアリングマネジャーとプロダクトマネジャーはあくまでも対等の立場となる。そして、プロダクトマネジャーがエンジニアチームに対し、人事権を行使することはない。
「エンジニアリングマネジャーは、開発リソース(WhereとWho)を考慮しながら、ソフトウエアエンジニアやテックリードと共に“How”を徹底的に考え、実行するのが仕事です。対してプロダクトマネジャーは、ユーザーのために何を作るべきか、徹底的に“What”を考え抜く立場。
両者は時に意見を戦わせたり、ぶつかり合ったりすることはありますが、それぞれが違う立場で最高のプロダクト作りに貢献していきます」
日本のモノづくりを真にイノベーティブにするために
及川氏がプロダクトマネジャーという役割の必要性が今後さらに増していくと考える理由は何か。
「以前から日本のモノづくりには、『お客さんが欲しいと言うものをすぐに作ってしまう』という悪いクセがあります。かつてはそれが強みとなっていたわけですが、今の時代は、お客さんの言葉を鵜呑みにしていては、真にイノベーティブなプロダクトを生み出すことはもうできません。
プロダクトのあるべき姿、成功にこだわり抜くプロダクトマネジャーの存在が、市場では今求められていると感じます」
また、貴重な開発リソースを有効に活用するためには、プロダクト開発に対する考え方も見直す必要があると及川氏は言う。
「『作ったら終わり』ではなく『世に出してからが始まり』という考えに改め、検証と見直しを繰り返す体制に変えなければ、日本企業の競争力は大きく削がれてしまうでしょう。
これはリーンスタートアップやアジャイル開発の考え方にも通じますが、プロダクトマネジャーには、プロダクトを完成させた後も責任を持って育てていくという役割があります。
こうした発想や行動は、プロダクト開発のみならず、社会貢献活動や行政の取り組みなど、社会実装にも応用可能です。だから私はプロダクトマネジャーの重要性を訴えているのです」
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ここまで見てきたように、エンジニアがキャリアの選択肢として見据え、目指すべきなのは、本来はこうした役割、職種であるはずだ。とはいえ、今いる職場にはテックリードとしてエンジニアアリングを極める道も、プロダクトマネジャーとしてプロダクトの理想を追求する道も存在しないという人がほとんどかもしれない。では、どうするべきか?
及川氏は、すでにこうしたキャリアパスを用意している企業に転職をするのも手だが、勇気を持って現職の経営陣に改革を訴えてみてはどうかと提案する。
「自らを実験台として新しいキャリアパスを作ってほしいと、経営陣に働き掛けてみるのはいかがでしょうか。
ソフトウエアエンジニアの評価基準は、必ずしも社内の物差しだけで計れるものではありません。日本にもオープンソース活動や勉強会の主催、イベント登壇、社会貢献活動をエンジニアの評価として加算し、技術力の底上げや採用活動に好影響を及ぼしている企業の例もあります。そうした事例を伝えることで、エンジニアのキャリアの多様性を認め、改善を認めてくれる経営者はいるはずです。
実際問題、難しいのはよく分かっていますが、それでもあえてエンジニア一人一人にアクションを起こしてみてほしいと願っています。それが日本のIT業界を変革する大きなうねりへと、きっとつながっていくはずですから」
及川氏自身、先に挙げた3つの職種のすべてを経験してきたからこそ、今の自分らしいキャリアにたどり着いたという思いがある。すべてのITエンジニアがもっとフレキシブルに、自身のキャリアを思い描き、実現できるようになれば、日本のモノづくりは必ず変わる。その未来に向けた第一歩として、まずエンジニア自身がキャリアに対して抱いている閉塞感や固定観念を捨て去ることから始められないだろうか。
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取材・文/武田敏則(グレタケ)、福井千尋(編集部) 撮影/小林 正(スポック)