優れた技術者たちは何を目指すのか?各社の「匠」の視点を覗こう
ビッグデータ時代の注目職種「データ・サイエンティスト」の第一人者がNYで学んだ、適者生存の極意【匠たちの視点】
アクセンチュア株式会社 テクノロジー コンサルティング本部 アナリティクス インテリジェンス グループ統括 シニア・プリンシパル
工藤卓哉氏
慶應義塾大学を卒業しアクセンチュアに入社。コンサルタントとして活躍後、コロンビア大学国際公共政策大学院で学ぶため退職。同大学院で修士号を取得後は、ブルームバーグ市長政権下のニューヨーク市で統計ディレクター職を歴任。在任中、カーネギーメロン工科大学情報技術科学大学院で修士号の取得も果たす。2011年に帰国し現職に。Accenture SAS Analytics Group数理統計アーキテクト顧問委員会でアジア太平洋地区代表顧問も務める
データ・サイエンティストは統計データを分析するだけの仕事ではない
データ・サイエンティスト。日本ではおそらく1000人に満たないであろう、この職に就くのはどのようなタイプの人間なのだろうか? 外界との接触を好まない象牙の塔の住人? それとも映画『マネー・ボール』の主人公、オークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGMのような急進的なデータ至上主義者?
アクセンチュアでアナリティクス インテリジェンス グループの統括責任者を務める工藤卓哉は、そのいずれのイメージにも当てはまらない。強いてたとえるなら、複雑なパズルに魅入られた子どものような純粋さと、強い職業倫理を胸の内に秘めた熱血漢といったところだ。
「データ・サイエンティストと言うのは、数学や統計、ITに詳しいイメージがあるかもしれませんが、それだけではダメなんです。わたしなりの定義では、解析する目的をきちんと把握した上で仮説を立て、データから導いた最適化プロセスを実務にまで落とせる人間。
無論、情報処理基盤や解析手法についての知見も必要ですし、適用する業界についての知識も欠かせませんが、何より大切なのは卓越したコミュニケーション能力でしょうね。そう言う基準で申し上げると、日本に今データ・サイエンティストが1000人いると言うのは、ちょっと過大だと思います」
米国の経営誌『ハーバード・ビジネス・レビュー』(2012年10月号)によると、データ・サイエンティストは「今世紀でもっともセクシーな職業」だという。
事実、GoogleやAmazonのケタ外れの成功が、あらゆる統計データの分析から生み出されたものだという話が一般に知れ渡るにつれ、その最前線に立つデータ・サイエンティストにもにわかに注目が集まるようになった。
しかし、日本ではまだ、なじみのある仕事とはいえない状況だ。
「データ・サイエンティストの仕事は、統計データを分析し、数理モデルを作って終わり、という単純なものではありません。もちろん、クレジットカードの不正検知のように、数理モデルによってある程度完結できるものもありますが、銀行ローンや携帯電話の乗り換えを防ぐような場合だと、最終的には人の介在が必要になります。顧客をつなぎとめるためには顧客フォローが不得手な営業に担当させるより、優秀な営業に任せる方が成果を出せるはずです。ですからわれわれデータ・サイエンティストは、クライアントに対して人の配置や人事制度にまで踏み込んだ提案をすることさえあるんです」
工藤にとってデータ・サイエンティストとは、人の処理能力をはるかに超える膨大なデータを、情報処理基盤を駆使して最適な解を発見するだけでなく、さらにそこから現実の成果へとつなげる者。いわば、ITエンジニアとデータ分析官を組み合わせ、さらに経営コンサルタントを掛け合わせたような存在といえる。
では彼自身、どのようにしてこの難しい定義を満たすに至ったのだろうか?
ニューヨーク市幹部から直接スカウトの電話が
ここで工藤の経歴をおおざっぱに振り返ってみよう。
1997年から2004年まで、彼は新卒で入社したアクセンチュアの経営コンサルティング本部で、企業のビジネス改革を支えるITコンサルティングサービスを提供していた。
コンサルタントとしての職務には、当然、顧客を説得するための資料作りも含まれる。工藤も相関分析や重回帰分析などを用いた施策立案を得意としていたが、その一方で、自分自身が統計情報の扱い方やデータ分析に関して、大学の商学部で得た以上の知識を持ち合せていないことにある種の引け目を感じていた。
「知らず知らずのうちに、見栄えの良い分析結果だけを顧客に示してしまっているのではないだろうか? 常にそんな疑問を持っていました。そこでプロジェクトが一段落したタイミングで会社を辞め、著名な経済学者であるジェフリー・D. サックス教授や、情報の非対称性理論でノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E スティグリッツ教授が在籍するコロンビア大学の大学院に行き、ミクロ経済や数理モデルについてゼロから学ぶ決意を固めたんです」
2004年、工藤は望み通り同大学の国際公共政策大学院に入学を果たす。
「入学した当初は、いずれ国連のような国際機関で、政策立案にかかわるようなポジションで働ければと思っていたんですが、ある日、わたしのレジュメを見た、当時ニューヨーク市公共医療政策局で副長官を務めていたファザード・モスタシェアリ(現・米国医療IT政策オフィス局長)氏から直接電話があったんです。トーマス・フリーデン長官(現・米国疾病予防管理センター第16代長官)のもとで、ニューヨーク市の医療システムを改革するプロジェクトに参加しないかと。それでニューヨーク市政府で働くことになりました」
大学院では公共政策を学んでいたものの、工藤はこの時点まで保険衛生や医療制度システムとは無縁だった。とはいえ、かつてハーバード大学で教鞭を執り、かつ革新的なIT医療制度の設計者として知られるファザードの名には聞き覚えがあった。
もちろんそうした著名な人物からの直接の誘いに驚いたが、腰が引けてしまうほど臆病ではない。工藤は面談の翌日には、この改革のうねりに加わることを承諾した。
システム構築や仕組みづくりが併走しないと「分析」は活きない
「大都会ニューヨークといえど税収は限られていますから、医療予算も有効に使われなければなりません。ここでわたしが最初に加わることになったのが、医療予算の効率化を図るプロジェクトでした」
限りある予算を有効に使うことが目的なら、最も投資効果が表われやすいところから始めるべきだ。そう考えた彼らが注目したのが、ニューヨーク市内に点在する貧困地区だった。
「ビジネスであれ公共政策であれ、こうしたプロジェクトを成功させるには“オーダーオブマグニチュード”、つまり規模の影響度を考える必要があります。例えばお金持ちの多い地区に100ドル投資するより、100カ所の貧困地区に1ドルずつ投資した方が効果が大きい。ですから最初に取り組んだのは、貧困地区にあるコミュニティ病院を起点にさまざまな慢性疾患、例えば糖尿病や心臓病といった病気の患者数を調べ、その数を減らす取り組みに予算を振り分けることにしたわけです」
計画が煮詰まるにつれ、目的もターゲットも明確になったが、それだけで十分とは言えなかった。多忙なブルームバーグ市長が迅速に意思決定できる仕組みが必要だったのだ。
「そこでわれわれは、コミュニティ病院を起点に地域の貧困インデックスと地理測位情報を紐付け、ビジュアルによって優先度が判断できるシステムを作りました。これにより、意思決定者である市長は細かな統計情報や数式を目にすることなく、一目で状況を把握し、かつ迅速に有効な打ち手を実行できるようにしたんです」
工藤はこのプロジェクトの成功を皮切りに、公共医療政策局でいくつかの改革プロジェクトを手掛けた後、同市の教育委員会に転じる。
そこで1600以上ある公立校の“スパゲッティ状態“に陥っていたデータベースを整理統合したり、公立校の校長評価システムを再構築させるなど八面六臂の活躍を続けた。
驚くべきは、工藤が困難の予想される仕事をやり遂げたこともさることながら、日々の業務に並行し、カーネギーメロン工科大学情報技術科学大学院に進み、常に新たな知識の吸収に余念がなかったことだ。
もちろん、彼が惜しみない努力を続けたのにはわけがある。工藤には、そうせざるを得ない厳しい現実に直面していたのだ。
『唯一生き残るのは、変化できる者である』
「アメリカではわたしは外国人。特にニューヨークは170カ国以上の言語を話す多国籍から優秀な人材が集まる街です。いつ何時彼らの中の1人に自分の仕事を明け渡さなければならない日が訪れるか分かりません。大学院卒業生は1年以内に就職できなければ、ビザの条件を満たせず国外退去、職業人であれば、失職から即刻国外退去になってしまいます。のんびりとはしていられません。わたしはあの街で、いつもそんな危機感と背中合わせで働いていたんです」
工藤はニューヨーク時代、有名大学の博士号を持つような真の切れ者たちと肩を並べ仕事をしてきた。
「こいつらにはかなわない」
正直、そう感じさせる場面に出くわすことも少なくなかったという。しかし、ある時を境に彼は気付く。
ITを使いこなせるデータ・サイエンティストはいても、プロジェクトマネジメントを得意とし、複雑怪奇な事象を分かりやすく可視化することに長けたコンサル的資質を持つデータ・サイエンティストが、本場アメリカにさえいないことに。
「厳しい生存競争社会の中で生き残っていくためには、当然、1人の職業人として誰にも打ち抜けない確固たる領域を作る必要があります。そもそもアメリカは、優れた素養を持った人々が大勢集まりやすい土地ですし、非常に分業化が進んだ社会です。たった一つの能力に長けているからといって、トップに立てる見込みは決して高くはありません。
『果たして自分には何ができるか』。そんな自問を繰り返す中で得たのは、異なる領域での経験を複合させること。わたしの場合はコンサルタントとしての経験にデータ・サイエンティストとしての経験を掛け合わせることでした。それが、冒頭に申し上げた、わたしなりのデータ・サイエンティストの定義につながっているわけです」
『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である』
これは進化論の始祖、チャールズ・ダーウィンが残した有名な言葉だ。工藤はこの言葉にデータ・サイエンティストである自分の信念を投影することがあると言う。
「“常に変化が要求される”というのは、決してアメリカだけの話ではないでしょうし、わたしのようなデータ・サイエンティストだけに限った話でもありません。少し厳しい言い方になるかもしれませんが、日本人は自分たちを縛る規制や慣習に不平を言うことはあっても、実はそれがあるおかげで、ずいぶん守られているように感じるんです。
例えば、日本はすでに少子高齢化社会を迎えていますが、『優秀な移民に仕事を奪われるかもしれない』なんて危機感を持っている人はほとんどいません。ある日突然、消極的な移民政策が覆されたらどうするんでしょう? そんなことで果たしていいのか。わたしはそれでいいとは思えません」
過酷な競争社会を経験した者にしか紡ぎ出せない言葉である。この国の安穏とした環境に甘んじず、常に危機意識を高めておくことへの意義は、この国の力の源泉であるエンジニアにこそ知ってほしいと工藤は話す。
「この機会にエンジニアの皆さんにお伝えしたいのは、すぐに大きな転換は起きないとタカを括るのではなく、今自分に何ができるかを真剣に考え、準備をしておくことの大切さです。日本は世界に誇れる技術があるにもかかわらず、ここ何年かの状況を見ていると、平穏無事な環境のせいで多くのものを失われてしまったように思えてなりません。
実際海外の学術機関でも、日本人学生を見ていると、既存の価値観や枠組を超えて想定外の領域でイノベーションを創造することが非常に苦手な方々を多く見ています。日本を支えるエンジニアの皆さんには、一つのことだけに固執するのではなく、異なる領域に挑戦し続け、世界で唯一無二の存在になってほしい。心からそう思います」
競争社会を生き抜くための第一歩は、自分のキャリアは自分で描くという強い意志が持てるか否か。工藤の言葉に込められたメッセージをどう汲み取るか。未来を決めるのはあなた次第だ。
取材・文/武田敏則(グレタケ) 撮影/竹井俊晴
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