株式会社kamado
竹原正起さん(26歳)
1986年岡山県生まれ。倉敷芸術科学大学を卒業後、地元の焼肉チェーンに入社するも1年半で退社。半年にわたって東南アジアやインドを旅しながらカレー研究に明け暮れる。帰国後の2011年4月、上京してギークハウス武蔵小杉に入居(現在はギークハウス新丸子に転居)。自ら主催したカレーパーティーで知り合ったあるWebプロデューサーから『skillstock』プロジェクトに誘われ、開発に携わる。2012年7月より現職
東京・恵比寿で初めて会った時の帰り道。仕事終わりの取材オファーだったこともあり、「ラーメンでも食べて帰りませんか?」と誘う。こちらが「お代、出しますよ」と言った瞬間、恐縮しながらうれしそうな笑顔を見せたのが、とても印象的だった。
「ほんの1カ月前まで、ほぼニートだったので。当然お金はないし、都内を移動する電車代すら払うのがキツい状態でした」
そう話す竹原正起さんは現在、エンジニアやクリエーターが共同生活を営む『ギークハウス新丸子』から恵比寿に通い、ファッションに特化したソーシャルブックマークサービス『Clipie』や『Livlis』などの人気サービスを手掛けるkamadoで働いている。
それまでの仕事は、レジ打ちのアルバイトだった。大学卒業と同時に入社した岡山県の地元焼肉チェーンを辞めてからは、店舗改装の派遣スタッフや治験モニター、データ入力といった短期バイトを転々としながら糊口を凌いできた。
そんな竹原さんが、なぜ、人気スタートアップのエンジニア職に就けたのか。転機となったのは、2011年の秋からボランティアつなぎサービス『skillstock』の開発プロジェクトへ参加したことだった。
ほぼ全員がプロボノ(仕事上の専門知識を持つ人が知識や経験を活かして行うボランティア)だったこのプロジェクトで、プログラミングを通じて社会とのつながりを見いだすようになっていった竹原さんは、RubyやRailsの知識を磨き、kamadoで働くチャンスを得るまでになっていく。
そんな竹原さんにとって、「働く」ことの意味はどのように変化していったのか。まずはその半生を振り返ってみよう。
株式会社kamado
竹原正起さん(26歳)
1986年岡山県生まれ。倉敷芸術科学大学を卒業後、地元の焼肉チェーンに入社するも1年半で退社。半年にわたって東南アジアやインドを旅しながらカレー研究に明け暮れる。帰国後の2011年4月、上京してギークハウス武蔵小杉に入居(現在はギークハウス新丸子に転居)。自ら主催したカレーパーティーで知り合ったあるWebプロデューサーから『skillstock』プロジェクトに誘われ、開発に携わる。2012年7月より現職
「飽きっぽいのは父親譲りかも知れません」
竹原さんの実家には、父親が趣味で集めたダーツや漁船、カヤックなどの道具類が、使われることなく眠っている。
竹原親子にとって唯一の例外はコンピュータだ。岡山県の産業・農業機器メーカーでSEをしていた父は、当時人気の高かったPC-8800やPC-9800シリーズ、さらに漢字Talk時代のMacintoshなどを買い集めては、公私にわたって使い続けていた。竹原さんが4歳のころに、プログラミングの手ほどきをしたのも父親だった。
「父は英才教育だって言っていますけど(笑)、実際のところはどうだったんでしょうね」
竹原さんの記憶は定かでないが、その後中学生になるまでの間、ずっとプログラミングに熱中したのは確かだ。
「父親のやってることを見て興味を持ったのが最初。そこからだんだん面白さが分かってくると、自分でも『マイコンBASICマガジン』を買って、投稿されているプログラムを打ち込んでみたり、それを自分なりにアレンジしたりするようになりました。最初に覚えた言語は、N88-BASICとかVisual Basicでしたね」
だが、父親以外に共通の趣味を持つ者が身近にいない環境は、思春期に差し掛かった竹原少年のプログラミング熱を冷ましてしまう。週末、ネットミーティングに参加して同年代の仲間を見つけようと試みたが、労力のわりに思うようなつながりは得られなかった。
それで、中学校卒業と同時に、プログラミングの世界とは縁を切ってしまう。次に心を惹きつけられたのはアート、そして料理の世界だった。
「ものをつくること自体は好きでしたから、今度はアナログの世界に行こうと。それで大学は地元の芸大を志望することにしたんです。専攻は油絵でした」
家族からは芸大進学に反対されながら、何とか押し切って入学を果たしたが、ここで改めて「父親譲りの性分」が出てしまう。
「自分が描いた絵を使って、誰かほかのメンバーがプログラミングすればゲームができるんじゃないか」と思いゲームサークルに入ったものの、長続きせず半年で退部。油絵も、一時は引きこもって描く日々を送った後、飽きてやめてしまう。
そんなさなかに出会ったのが、インドカレーだ。
「ある時、自分でも作ってみようと思って試したら、意外とイケたんです。それからすっかりハマってしまい、卒業旅行の目的地もインド。カレー修業に行きたかったんですよ」
卒業後の進路を飲食チェーンに決めたのは、「いずれカレー屋を開業したい」と考えたため。就職先はインド料理でもカレー専門店でもなく、焼肉店だったが、「いずれインド料理の業態開発ができるかもしれない」と思って働き始めた。
とはいえ、現実はそれほど甘いものではなかった。
キッチンやホール業務はもちろん、アルバイトの面倒や食材の発注、仕込みまで一通りこなすことを命じられた竹原さんは、ほどなくして副店長に昇進。夢への階段を1歩上ったかのように見えたが、それが逆に苦痛になっていった。
「辞めた理由を正直に話すと、休みもほとんどない上、長時間の重労働にほとほと疲れてしまったからでした。本当は喜ぶべきなんでしょうけど、土日のピークタイムに予約が10件も入るともう恐ろしくて。これが何年も続くのかと思うと、耐えられませんでした」
いろんなことが長続きしない自分に嫌気がさし、進むべき道を知るために選んだのは、再びインドに行くことだった。
「あっちに行って自分を変えたかったっていうこともあります。でも、やっぱりカレーを極めたいと思ったんですよね。それで貯金をはたき、東南アジア経由でインドに入りました。あっちこっちでいろんなカレーを食べ歩きながら、6カ月ほど向こうに滞在していました」
現地で新しいカレーを食すたび、写真を撮り、感想やレシピを記す。バックパッカーとして苦労する面も多々あったが、それ以上に、好きなことだけに集中できる日々が幸せだった。
しかし、楽しい旅もいつか終わる。
「向こうにいた時、たまたまphaさんの存在を知って『ネオニート』とか『働かない生き方』に興味を持つようになっていたんです。それで短期バイトで貯めたお金と、旅行資金の残りを元手に岡山を出ようと。目指したのは、できたばかりのギークハウス武蔵小杉でした」
竹原さんが岡山から「初上京」した際に住んでいた、ギークハウス武蔵小杉の外観
『ギークハウス』とは、pha氏が提唱したネット文化に縁の深いエンジニアやクリエーターが集うシェアハウスのこと。ここなら敷金や礼金、保証人も不要で、わずかな資金で住居が確保できる。月々の支払いが4万5000円で済むというのも、蓄えを長持ちさせる意味で好都合だった。
「プログラミングをしなくなって10年ぐらい経っていましたが、ギークっぽいマインドは自分の性にも合うと思っていました。それで応募したんです」
もし肌に合わないようなら、すぐに出ればいい。そんな考えで入居してみると、ギークハウスの環境は竹原さんにとって想像以上に居心地が良いものだった。
そこで「将来的にやってみたい」と思っていたカレーの無店舗販売を念頭に、入居者相手に1杯300円で販売してみたり、ギークハウスに関係のある人たちを集めカレーパーティーを開くなどして、さまざまな人たちと交流を深めていった。
竹原さんをプログラミングの世界に引き戻した『skillstock』プロジェクトに誘ったのも、そのパーティー参加者の一人だったという。
「そのころちょうど、『カレーをテーマに何かWebサービスが作れるかも』みたいなことを考え出して、少しずつRuby on Railsの勉強も始めたんですね。その話をたまたまカレーパーティーに来ていたNTTレゾナントの方に話したら、もしヒマだったら開発に参加してみない、と」
このふとしたきっかけが、竹原さんにとって「モラトリアムの終わりの始まり」になるとは、思ってもいなかった。
『skillstock』とは、震災発生の直後、一気に盛り上がったボランティアへの関心を維持・発展させるべく立ち上げられたプロジェクトだ。
先の大震災から1年を迎える2012年3月11までにローンチすることを目指し、「できること、好きなことを通して、楽しみながらボランティア活動をする」流れを日本に生み出すために企画・開発された。
当時、レジ打ちのバイトを辞めたばかりで時間を持て余していた竹原さんは、「どうせヒマだし、何か面白そうだったから」と、誘われるがままキックオフミーティングに参加。2011年10月に都内の大手IT企業で開かれたこのミーティングで、後に恩人となる3人の人物と出会う。
その3人とは、震災直後に『助けあいジャパン ボランティア情報ステーション(現・ボランティアインフォ)』の旗振り役を務め、後に『skillstock』の立ち上げにも尽力する藤代裕之氏(NTTレゾナント)と、開発担当の澤村正樹氏(NTTレゾナント)、高橋義典氏(Yahoo! JAPAN)だ。
「それまで大企業の会議室なんて一度も入ったことがなかったので、足がガクガク震えちゃったのを覚えています」(竹原さん)
名だたる大企業で働きながらプロボノで集う大人たちの中に、ほとんど職業経験のない若者がポツンと身を置く。萎縮してしまうのも無理はない。ただ、藤代氏はそんな竹原さんを、「経歴的に面白そうなヤツ」と見ていたという。
澤村氏、高橋氏も、「自らMacを持ち込んでWi-Fiにつなぐ姿を見ていて、何とかなるだろうと感じていた」(澤村氏)、「おとなしいけど、分からない業界用語ははっきり質問したり、自分の意見もストレートに発言していたのが印象的だった」(高橋氏)と明かす。
そして、全員が気にしていたのが、ボランティアという「強制力の働かないコミュニティー」へのコミットメントという点だ。
「実は今までも、(藤代氏らが手掛けてきた各種ボランティアサイトの)開発にかかわりたいというエンジニアはたくさんいました。でも、自分がやりたいことを優先する人が多くて、うまくジョインできないことが多かったんですよ。それで、『竹原さんはどうだろう。良い仲間になってくれるといいんだけど』と心配していました」(藤代氏)
だが、藤代氏の思いは良い形でくつがえされる。竹原さんは、週に1回行われるミーティングに努めて参加するようになっていき、徐々に発言も増えていった。
そんな姿を見てか、キックオフから3カ月ほどしたある日のミーティング終わりに、開発の中心メンバーである高橋氏が竹原さんを呼び止めた。
「自分が『skillstock』α版のコードを書くから、これから竹原さんはそれを見てキャッチアップして」
その場で「はい」と返事はしたものの、実際にRuby on Railsで書かれたコードを見てみると、何をどうしたらいいのかまるで分からない。
「なので、しばらくは完全に”教えて君”状態。まったく戦力になっていませんでした」(竹原さん)
自身はそんなジレンマを抱えていたそうだが、それでも何とか食らいついてくる竹原さんの姿に、周囲の人たちはエンジニアとしての可能性を見出していた。
「竹原さんに開発を任せる部分を増やしてもいいかなと思うようになり始めたのは、このころからです」(藤代氏)
2012年10月に行われた『skillstock』プロジェクトのキックオフミーティングからおよそ4カ月。ローンチ予定を1カ月後に控えた2012年2月ごろから、高橋氏や澤村氏が作り上げたα版をβ版に格上げするための開発が本格化し始める。そのサポートを任されたのだ。
竹原さんにとって、『skillstock』開発は特別な志やボランティアへの思いがあって始めたわけではない。それでも、眠っていたギーク魂に火が付き、いつのまにか開発にのめり込むようになっていた。
そんな竹原さんに、『skillstock』開発チームはさらに大きなミッションを託すことになる。その過程で、初めて「プロフェッショナルなエンジニア」の矜持のようなものを学んでいく。
>>『skillstock』開発の苦労やkamado就職の経緯については「後編」に続く
取材・文/武田敏則(グレタケ)
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