優れた技術者たちは何を目指すのか?各社の「匠」の視点を覗こう
未来がつまらないなら自分で作ればいい~社会脳研究の第一人者が仮想現実プラットフォーム『ハコスコ』を作った理由【連載:匠たちの視点-藤井直敬】
株式会社SR Laboratories 代表取締役社長
藤井 直敬氏
1965年広島県生まれ。東北大学医学部卒業、同大大学院にて博士号取得。1998年よりマサチューセッツ工科大学(MIT)、McGovern Instituteにて研究員。2004年より理化学研究所脳科学総合研究センター象徴概念発達研究チーム副チームリーダー。2008年より同センター適応知性研究チーム・チームリーダー。主要研究テーマは、適応知性および社会的脳機能解明。主な著書に、『拡張する脳』、『つながる脳』、『ソーシャルブレインズ入門』など
『Oculus Rift』の登場で、にわかに盛り上がりを見せているVR(仮想現実)。この可能性に満ちた世界をたった1000円で体験できるプラットフォーム、それがヘッドマウントディスプレイ(HMD)『ハコスコ』だ。
『ハコスコ』は、段ボールとレンズでできたHMDにスマートフォンを差し込むだけの、いたってシンプルな作り。でありながら、数万円単位の高額で大掛かりな従来のHMDと同程度の、没入感のあるVRが体験できるという。
製造・販売しているのは、今年4月に創業したSR Laboratories。理化学研究所(理研)の適応知性研究チームのリーダーで、「社会脳」研究の第一人者である藤井直敬氏が代表取締役を務める異色の会社だ。
脳科学の研究者である藤井氏がVRの世界に足を踏み入れたのはなぜか。自らHMDの開発に携わり、起業にまで至ったのはなぜか。
そこには、一般的な研究者像とは一線を画する、藤井氏独特の仕事哲学があった。
必要な道具がないなら、作ってしまえ
朝の挨拶一つとってみても、相手が会社の上司なのか、親しくしている友人なのかで、そのあり方は変わってくる。「社会脳」の研究とは、他人との関係性に応じて自分のふるまいが変わってしまう、その仕組みを解明することだ。
藤井氏は当初、ヒトと比較してその仕組みが分かりやすい、サルを使って実験を行っていた。
「同じ研究をヒトでもやりたいと考えていました。しかし、ヒトの場合は相手が誰であるかということのほかにも、いろいろな文脈で行動が修飾され、変わってしまう。それでは実験になりません。どうにかして、すべての被験者に同じ体験をしてもらう必要がありました」
だが、もちろん現実は繰り返せない。
「僕がまったく同じように100回『おはよう』と言えるようにトレーニングするか、なんらかの技術を使って再現可能な現実を作るか。そのどちらかだとするならば、面白いのは後者でしょう」
こうした経緯で開発に着手したのが、SR(代替現実)システムだ。パノラマカメラとHMDからなるこのシステムを使えば、現実の世界と「もう一つの世界」との間で、視覚と聴覚だけを切り替えることが可能。複数の被験者を同じ条件下に置くこともできるようになる。
「必要な道具がないのなら作ればいいし、今ある技術でできないのなら、ほかの分野にあるものを必要な形に変形すればいい」
こうした「必要は発明の母」を地で行く姿勢は、藤井氏の研究キャリアに一貫している。2000年前後に在籍したMIT時代には、サルの脳に刺す電極を動かすマニュピレーターを自らデザインして開発した。
「従来のマニュピレーターは万年筆くらいの太さがあり、1センチ間隔でしか差せませんでした。それでは必要な計測ができないというので、1ミリ単位で差せるマニピュレーターを作りました。これが、自分でツールを作った最初の経験だったかもしれません」
MITも理研も任期制のポジションであるため、多くの時間と費用を要するツールの開発には、それなりにリスクが伴う。だが、「ツールに何を使うかが(研究が)どこまで行けるかを決める」という信念を持つ藤井氏だから、その姿勢にはブレがない。
モノがないとアイデアは伝わらない
こうして完成したSRシステム用のヘッドギア『エイリアンヘッド』は、当初の目的である実験ツールとしての有用性を超えて、「現実の操作」という、副産物というにはあまりに大きい応用可能性を秘めていた。
そこで藤井氏が次に考えたのは、「これをどうやって世の中に広めるか」だった。
「エイリアンヘッドは非常に大掛かりな装置なので、実験室を含めてかかる費用はおよそ500万円。これでは多くの人に体験してもらうことはできません。不要な部分を削ってできるだけ安く、というのを追求していった結果、もしかしたらスマートフォンでできるのではないか、という考えにたどり着きました」
技術者に開発を依頼するにあたって段ボールでプロトタイプを作ってみたところ、それだけでも十分と思えるほどの没入感を再現できた。
「頭を覆いさえすれば大掛かりな装置と同程度の没入感を表現できるというのは新鮮な驚きでした。スペックはたいした問題ではありません」
段ボールでできたVR体験プラットフォーム『ハコスコ』は、こうしてあっけなく誕生した。
SRやVRが切り拓く可能性を確信している藤井氏。しかし、まったく新しい概念ゆえに、その世界観を既存の言葉では伝えきれない難しさを感じている。
「エイリアンヘッドやハコスコはプラットフォームでしかない。SRやVRのコンテンツを作ってもらうために、これまでに2000人くらいのクリエーターや映画関係者に体験してもらいました。僕はもともと、そうした人たちであれば、ああいう変わったものを見たらすぐに『こんなモノが作りたい』とクリエイティビティが湧き上がってくるものと思っていました。でも実際は『面白いね』で終わってしまって、次のステップにはなかなかいかない。『その次』があったのは、ほんの数人です」
『ハコスコ』の手軽さ、モビリティにこだわったのは、そのためだ。
「例えば1人が『ハコスコ』を持ち帰れば、その先で5人が体験してくれる。そうやって体験する人が増えれば、反応する人も増えるでしょう。この3年間は『まったく新しいアイデアはモノがないと人に伝わらない』ということを実感した期間でした。その甲斐あってようやく、ここへ来て具体的な話が広がり始めています」
“寄り道”して培った多角的視点とリスクヘッジ
脳科学に限らず研究者の世界は、ともすれば実験の再現性確保のために極度に細分化され、社会との接点を失いがちだ。そうした中で、藤井氏の研究と付随して生まれたSR、VRの技術は、今後ますます社会のさまざまな分野へと広がっていくように見える。
そのことは、藤井氏が歩んできたキャリアと無関係ではないだろう。
藤井氏はもともと脳科学者だったわけではなく、眼科医としてそのキャリアをスタートさせている。
「医者の仕事は科学ではありません。例えば100人の患者さんがお腹が痛いと言っていても、そのうち80人はお腹をさすってあげれば治るかもしれない。診断して病名がつけば対処は決まります。でもそれは1割か2割程度。すくい取れないケースの方が圧倒的に多いのです」
この1割か2割のケースを一般的な科学だとするならば、それ以外の大部分は科学から無視されてしまうことになる。それはどうなのか。こうした問題意識からスタートしている藤井氏の研究には、常に「マクロ」な視点が存在しているようだ。
「医者であり、神経科学者。今はサイコロジー寄りのことをやっていて、SR、VRにも手を出している。そのどれか一つしかやっていなかったら、価値を多面的に見ることはできなかったと思います。それは、いろいろなことをやってきて良かったなと思うところです」
もちろん、こうした挑戦的で際限なく広がる研究スタイルは、誰にでも真似できるものではない。
「僕はたまたま医師免許を持っているので、いざとなれば医者に戻って食い扶持を確保できるというのがあります。だから、若い人には常々、リスクを負って挑戦するためにもひとつは命綱を確保するように言っています。エンジニアの人にとってのそれが何かと問われると難しいけれど、本来は『会社がリスクをとるからチャレンジしろ』というのが、あるべき姿なのではないでしょうか」
VRは世界の理解の仕方そのものを変える
「本当にちょっと前までは、いつ死んでもいいと思っていたんです」
先の見える未来は退屈でしかない。そう考えるのは研究者に共通した志向なのだろうか。もともとSF好きだった藤井氏は、映像の世界がどんどん進化していく一方で、体験レベルでなかなか革新を起こせない技術者たちに幻滅してもいた。
あきらめにも似たその考えを一変させたのが、『Oculus』、そして自ら生み出した『エイリアンヘッド』、『ハコスコ』といったVR、SRの急速な進歩だ。
「ここ1、2年の動きにより、ちょっと前のSFの世界が体験レベルで現実になろうとしている。これがどこまで行くのかは、まだ見えません。自分で見て体験するまでは死にたくない。そう思うようになりました」
現実と仮想の境界をあいまいにすることができるSRの技術を使えば、人間のモノの見方そのものを根本的に変え得ると藤井氏は言う。
「SRを使えば、まったく同じ視点を同時に共有したり、他人の視点からモノを見たりすることができるようになります。イスラエルとパレスチナの争いのように、視点が違えば、同じものでも違って見える。そのこと自体は誰もが知っていることかもしれませんが、体験的に理解することで足りない想像力を補うことができれば、もっと他人のことを尊重できるようになるかもしれません。世界はもっと平和になっていい」
そのためには、SRやVRの体験者が5人や10人ではダメだ。既存の言葉では表現できない、まったく新しい世界を多くの人たちと共有するために、『ハコスコ』は生み出された。
取材・文/鈴木陸夫(編集部) 撮影/竹井俊晴
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