世界トップクラスの頭脳が集うマイクロソフト米国本社で、異例のスピード出世を遂げている日本人マネジャーがいる。
通常は40〜50代が就くという上位クラスの役職「プリンシパル」に32歳で駆け上がり、現在は『Microsoft Copilot』のFDEチームを率いる、吉田大貴さんだ。
幼少期からイギリスの全寮制学校で学び、世界屈指の名門大学への進学が決まっていた彼だが、そのキャリアのスタートは決して順風満帆ではなかった。
「私、最終学歴は高卒なんですよ。家庭の事情で大学進学を断念して帰国し、就職氷河期でコンビニの面接にも落ちて……。唯一受かったマクドナルドの店員からキャリアが始まりました」
約束されていたはずのエリート街道から一転、ITとは程遠い場所からのスタート。そこからどのようなキャリアを経て、巨大テック企業の上位職へと異例のスピードで駆け上がることができたのか。
世界を相手に戦う中で吉田さんが辿り着いた、自らの市場価値を高め続けるための極意を聞いた。
Microsoft Corporation
FDE Principal PM Manager
吉田大貴さん(@TaikiYoshidaJP)
大阪府出身。2018年にマイクロソフト入社後、日本でPower Platformビジネスを立ち上げ、21年に渡米。米国本社の製品開発チームで世界中の大規模導入支援と成長戦略を牽引。25年新設の生成AI Agent FDEチームの管理職としてPrincipal PM Managerに就任。経営層向け登壇では全世界で最上位の賞を受賞し、殿堂入りを果たす。三児の父として育児にもPower Platformを活用中
世界2位の名門大進学を断念し、マクドナルドの店員に
ーー吉田さんは学生時代をイギリスで過ごしたそうですね。
11歳までは日本のインターナショナルスクールに通っていて、11歳から18歳まではイギリスの全寮制の学校で過ごしてました。
映画『ハリー・ポッター』が公開されたタイミングで渡英したので、ハリーたちが1年生だった頃に、私もロンドンで学園生活をスタートした形です。
そして、そのままイギリスの大学に進学する予定で、インペリアル・カレッジ・ロンドンのコンピューターサイエンスの学士に入学する直前までいってたんですよ。
学生時代に友人とトレッキングをしている吉田さんの様子(写真左端)
ーー世界大学ランキングで2位の名門校ですね。
ただ、シングルマザーの母が体調を崩してしまい、学費の関係で進学を断念せざるを得なくなって、日本に戻ることに。
しかも、あいにく当時の日本は就職氷河期のまっただ中。最終学歴は高卒で、長くイギリスにいたため日本語もままならない。自分の名前は書けても、住所を書くのは危ういレベルでした。
もう全然受からなくて、コンビニの店員も受けたんですが「この経歴じゃ逆に扱いにくいよ」って言われて(笑)。結局、唯一受かったのがマクドナルドの店員でした。
ーー思いがけない場所からキャリアがスタートしたと。
とはいえ、いつかはコンピューターサイエンスの道に行きたいと思っていました。
あれこれ調べてたら、人材派遣の求人でITヘルプデスクの仕事があったんです。無事に受かって、派遣社員として地方の工業団地にある従業員100人ほどの会社に配属されました。そこで正社員の方と私の二人でヘルプデスクをやったのが、ちゃんとしたITキャリアの始まりですね。
ちなみに当時は、生活費を稼ぐために1年半ほどはずっと無休でした。土日はマクドナルド、平日はその派遣先の会社という生活で働き詰めて、なんとか生計を立てていました。
ーー1年半も……。心が折れそうになる瞬間もありそうです。
当時は若かったですし、それ以外に選択肢も無かったのでとにかく必死でしたね。そんなダブルワークをこなしているうちに、派遣先でたまたま、基幹システム(ERP)を導入する機会があったんです。
社内でその導入作業を一生懸命やっていたら、システムを導入しにきたベンダーの会社の方から「うちに来ないか」と誘いを受けまして。それで上京することになりました。21歳の時でした。
EY入社後6カ月で昇進も、翌月にマイクロソフトへ
ーー上京した先の会社では、どういった仕事を?
5年くらいERPの開発をやってたんですが、「ずっとこれだけでいいのかな」と感じ始めて、16年に日系SIerに移りました。
ただ、その会社は1年で辞めました。Microsoft MVP(※)も受賞し、良い環境ではあったのですが、会社の評価スタイルと私の求めるスピード感がどうしても合わなくて。イギリスでの生活が長かったからか、「成果は必ず報酬に直結させたい」という思いが強かったんです。
そこで、17年の5月にコンサルタントとしてErnst & Young(EY)の日本法人に転職しました。猛烈に働いて、6カ月でシニアコンサルタントに昇進させてもらったんですが……その翌月に、EYを辞めてマイクロソフトに移りました。
本当に申し訳ないなとは思ったんですが、子どもの頃からずっと興味を持っていた会社だったので。
(※)Microsoft MVP|Microsoft製品や技術(Azureなど)に深く精通し、その知識をコミュニティーやメディアで積極的に共有・貢献した人を表彰する世界的アワード
ーーマイクロソフトに興味が?
母が家に置いていたWindows 95やWindows MEのパソコンをちっちゃい頃からいじってたし、学校のICTの授業でもOffice製品のトレーニングがありました。物心がついた頃からマイクロソフト製品が身近にあって、自然と愛着が沸いたんだと思います。
それこそ、EYでコンサルとして働く傍ら、『Power Platform』というマイクロソフトのローコード製品のコミュニティー活動を趣味でやっていました。
そんな折りに、マイクロソフトが日本でその市場を1から立ち上げることになったんです。「その製品ならもう知ってますよ。すでにコミュニティー活動もやってます」とリクルーターに話したら、トントン拍子で面接に受かって。
結果的に、Power Platformを日本で立ち上げるための「Global Black Belt」という技術営業として入社しました。
認知度を上げるためのマーケティング活動をしつつ、技術営業としてクライアントのところに提案に行き、泥臭い営業もやる。今でいうスタートアップ界隈の「GTM(Go-To-Market)エンジニア」のような活動を、私一人でやっていました。
ーーたった一人で市場開拓ですか。相当なプレッシャーですね。
むしろ「でかい資本の中にあるスタートアップ」みたいな感覚で、めちゃくちゃ楽しかったですよ。
ミッションは「売上を上げること」。だけど、そもそも売れてない製品にはバジェットもこない。だから、とにかく自分にできること、何ができるのかを考える。
どうやるかは完全に自由で、仮説を立てて「自分はこうやる」と宣言し、自分で勝手にやるスタイルです。上司からの口出しも一切ありませんでした。
毎週、夜中の2時にアメリカ東海岸にいる上司と定例ミーティングをしてレポートを上げるような生活でしたが、高く評価してもらって6カ月で昇進させてもらえました。
スーツケース二つ。自費でアメリカ移住を決行
ーーその後、どのような流れで米国本社の勤務に?
19年の7月にPower Platformの導入支援をする製品開発チームに異動になりました。そのタイミングで、当時のマネジャーに「いずれアメリカに移住させてくれ」ってお願いしたんです。それが、きっかけですね。
ざっくり言うと、製品購入後の利活用をエンジニアリングで支援するポジションで、その日本第一号に私が選ばれました。ただ、チームに加わるやいなや「吉田はアメリカ以外、全部のリージョンを担当して」と言われて(笑)
西はオランダから、東はオーストラリアまで一人で担当しました。「アメリカ以外のマーケットはまだ小さいから、一人で担当できるだろう」って。
ーー大胆な任せ方ですね。
おかげでタイムゾーンはめちゃくちゃでした(笑)
月曜日はオランダ時間、火曜日はシンガポール時間、水曜日はオーストラリア時間、みたいな感じです。調整がうまくいかなくて、「今日はもう仕方ないから18時間働くか」みたいな日もありました。
体力的にはハードでしたけど、営業時代とは違って、お客さまや現場の声を製品の仕様に反映できて、それが製品の進化に直結し、世界中のユーザーに届く。その手応えは何物にも代えがたく、疲れを凌駕していましたね。
特に印象的な事例になったのが、神戸市への導入支援です。自治体のDX推進に大きく貢献できたのですが、その実績をサティア・ナデラ(マイクロソフトCEO)の二つ下のポジションにいる、かなり上位の役職者にも直接評価してもらえて。
こうした成果が足がかりになり、21年の5月からシアトルのレドモンド本社勤務になったんです。
ただ、自腹での移住でしたけどね。
移民向けのガイド(左)と吉田さんのグリーンカード(右)
ーー会社からの支給はなかったんですか?
通常、他の国から人を採用したり異動させたりするときには、リロケーションパッケージという移住に伴う引っ越し費用が支給されるんですが、当時はコロナ禍真っ最中。「うちのチームには予算がない」と言われて。
でも、ようやく手にした米国行きの切符。「自腹で行くから移してくれ!」と直談判しました(笑)
結局、引っ越し代を極限まで抑えるために、妻と二人、それぞれスーツケース一つずつだけ持ってアメリカに渡りました。
ーー思い切った決断ですが、ご夫人もよく承諾してくれましたね。
結婚する前から将来的な移住の話はしていたので、特に反発はなかったです。
実は、妻とは「ゼロ日婚」なんですよ。彼女も同じマイクロソフトの社員でリクルーターをやっていて、私が業務外でやっていたコミュニティ活動のイベントなどをずっと手伝ってくれていました。
お弁当を差し入れてくれたり、デートに5回も誘ってくれたりしていたらしいんですが、当時の私は激務で余裕がなく、5回とも全部断っていたようです(笑)
もちろん彼女の存在自体は認識はしていたんですけど、好意を抱いてくれているというのは全然知らなくて、「なんか優しい人だなあ」っていう。
ーー鈍感すぎませんか?
今思えばそうですね。その好意にちゃんと気付いたのは、イギリスで休暇を過ごしていたある年のクリスマスでした。
彼女から連絡をもらって「私もこれからイギリスに行く」と。その時「あ、そういうことか」と点と点がつながりました。
いつかアメリカに行くっていうのは自分の中で決めていたので、「だったらもう結婚しかないよな」と思い、彼女がイギリスに着いた日にそのままプロポーズしました。
妻のまみなさん(右)は吉田さんと共に渡米後、双子を出産。24年には第三子を出産し、現在は日本に活動拠点を置いている。
仕事に対するOCDがあった。32歳でプリンシパルに到達
ーー米国本社でも、日本時代と同じ導入支援のポジションに?
はい。ロール自体は同じで、クライアントがアメリカの企業に変わった形です。
ただ、やっぱりスケール感が全然違いましたね。日本だと数千人規模の導入支援でしたが、アメリカの場合は10万人規模のユーザーを抱えるクライアントが当たり前のようにいました。
個人的に、今まで日本語で作っていたPower Platformのベストプラクティスなどのコンテンツを、全部英語で作るようになったのは大きかったです。世界中の人にダウンロードされて活用されるので、何倍も大きなインパクトが出せるようになりましたから。
結果的に移住してから1年半、22年の9月にプリンシパルへ昇進させてもらいました。
周りにいる先輩から教えてもらったのですが、マイクロソフトのキャリアって、ほとんどの人が一つ下のシニアというランクで留まるか、そこで定年を迎えるそうです。プリンシパルにいるのはだいたい40〜50代なので、32〜33歳でなる人はほぼいません。
ーー世界トップクラスの精鋭が集結し、評価基準も極めてシビアなマイクロソフト本社。異例のスピード出世を実現できた要因は何だったと感じていますか?
自分というブランドをどう確立させるかを、戦略的に考えた結果だと思います。ただ黙って努力しているだけで、周りが勝手に成果を評価してくれるわけじゃないですからね。
そのブランドを作り上げる上で、私の場合は、与えられた機会やチャンスは常に100%以上を搾り出すことを意識していました。
何事も中途半端に終わらせるのがすごく苦手なんですよ。仕事に対するOCD(強迫性障害)じゃないですけど「これくらいでいっか」ができなくて、100%でも満足できない性分。
なので、上層部と約束する時は「はい、デリバリーします」と言いつつも、実際には140%の成果を出して相手を驚かせることを考えてしまうんです。
アメリカってバグや障害に対して結構寛大な面もあるのですが、日本で叩き上げられた私からすると「ミスを起こさない、正しくやり切る」という品質へのこだわりは当たり前。
日本の絶対に失敗できない品質でこなす姿勢を貫いたことで、「あいつに頼めば必ず成果を出す」という評価につながったんだと思います。
ーーただ、いつもチャンスが与えられるとは限りませんよね?
ええ。ですから、自分でチャンスを作り出すことも大事です。
例えば、マイクロソフトには世界中のエグゼクティブに向けてプレゼンを行う「エグゼクティブブリーフィング」という活動があります。アメリカに移住したての頃、当時の上司から「どうしても明日プレゼンできる人がいなくて困っている」と相談されて、翌日に無理やり登壇したんです。
結果は、5点評価のアンケートでお客さまから3点を付けられるという惨敗。恥ずかしさと悔しさでいっぱいでしたが、同時に「これはチャンスだ」とも気付いたんです。
このプレゼンは希望してトレーニングを受ければ誰でもスピーカーとして登録できるんですが、実際に登壇しているのはほぼVP(※)クラスしかいません。しかも、VPたちは忙しくてやる人が少なくて困っている。
だったら「自分がめちゃくちゃ数をこなしてトップを獲ってやろう」と思って、スピーカー募集の連絡が来るたびに真っ先に応募しました。そうして膨大な数のブリーフィングをこなすようになり、初登壇から2年後の24年にはお客さま満足度1位になることができ、世界3,000人の中のトップスピーカー賞(Distinguished Speaker Award)を受賞できました。
(※)VP|Vice Presidentの略。主に外資系企業やIT企業で使われる役職で、直訳の「副社長」ではなく、「本部長・事業部長・部門長」クラスを指すことが一般的
ーー日本的な「やり抜く姿勢」を貫いたことで、大きな差別化につながる成果を得られたのですね。
高卒の身でここまで来て、「踏みつけてもしぶとく生き残る雑草」のような自分にとっては、とにかく周囲の期待値を超え続けるしかなかった。
いつも論点がズレない。合意形成がうまい。デリバリーが強い。状況が悪いほど冷静。
こうした「いつも」が積み上がると、周囲は無意識に私への期待値を上げます。そして、その期待値に応え続けると、さらに大きな機会が来る。
だからこそ、目立つことよりも再現性のある信頼を築くことに注力しました。期限を必ず守る、リスクを後出しせず先に言う、合意事項を文章に残す、誰が何を決めるか責任を明確にする。
これを淡々とやり続けると、地味だけど強いブランドができます。地味に強いブランドって、長期でめちゃくちゃ効くんですよ。
貯まった信頼は貯金せず、再投資せよ
ーーその「信頼」の蓄積が、後のキャリアに直結していくと。
なんですが、ここで多くの人が陥る罠があります。
実績を積んで自分の「型」が固まってくると、同じやり方で成果が出続ける。周りからの評価も安定し、いわば「打率の保証されたバッター」になれる。
でも、それって実はめちゃくちゃ危険なんですよ。
ーー危険? 評価が安定するのは良いことのように思えますが。
成長の摩擦が消えてしまうからです。勝ちパターンが固定されていくほど、自分自身の成長は止まってしまう。より高い山を目指すなら、積み上げてきた信頼を軍資金に、次のリスクに投資しないといけません。
24年の3月に、まさにそのタイミングが来ました。長年手掛けてきたPower Platformとは別のRPA製品(Power Automate)のチームから「グロースPMとして、この製品を世界一にしてくれ」という打診をもらったんです。
正直、それまでの専門領域を離れるのはリスクでした。でも、何百億円という予算を預かり、全世界のマーケットを相手に戦略を練るというスケール感は、今の自分を壊して飛び込む価値が十分にある「未知」だった。
ーーあえて「打率ゼロ」の場所から再スタートを切った。
想像以上に過酷でしたけどね(笑)。全世界を一人で見るミッションだったので、朝6時はアメリカ東海岸のクライアント、夜中の2時はドイツみたいな生活です。
空いているタイムゾーンはなく、寝てる以外の時間は全部働いている感じでした。多分3〜4時間くらいしか寝てなかったと思います。
ポジションは与えられるのではなく、自ら勝ち取る
ーーそこから、25年の7月に現在のポジションへ移られたんですよね。
『Microsoft Copilot Studio』や『Microsoft 365 Copilot』を用いた生成AIエージェントを短期間で作り上げる「Agent FDEチーム」の立ち上げを、マネジャーとして任せてもらっています。
全タイムゾーンを網羅する計12名の部下(アメリカで6名、ヨーロッパで4名、アジアパシフィックで2名)を持つことになりました。
ただ、実はこのポジション、当初は「メンバー(IC)として来てくれないか」という打診だったんです。「ICのままなら異動したくない」と、一度お断りしました。
すると後日、「マネジャー職の枠を用意するから、改めて応募してほしい」と。
ーーなぜマネジャー職にこだわったのですか?
私には、いつかVPやCVP(※)として事業戦略を立て、組織全体の方向性を決めたいというビジョンがあります。より自分の影響範囲をスケールさせるには、個人の腕だけではリーチできない領域、つまりマネジメントへの転身は避けて通れない選択肢でした。
もちろん、ICのままでも「Technical Fellow」や「Distinguish PM」のような上位の役職を目指す道もあります。ただそこは、全世界20万人以上いる社員の中でも20名程の「選ばれし超人」しかいない、神の領域です(笑)
対して私は、泥臭く戦略を練り、信頼を積み上げてきた「雑草」。自分の資質を最大化し、最も大きなインパクトを出せる戦場はどこか。そう考えた末の、戦略的なピボットでした。
そのままICとして働いていても、あと1サイクルで昇進できる確信はありました。自分の腕一本で成果を出す「勝ちパターン」はすでに完成していたと思います。
でもその確信こそ、私にとって最大のリスクだったんです。
(※)CVP|Corporate Vice Presidentの略。主に外資系や大企業における「執行役員」や「常務・専務」クラスの役職で、部門全体の責任者を指す
ーーとはいえ、相手は百戦錬磨の候補者たち。管理職未経験というビハインドをどう跳ね返したのでしょうか。
とにかくこのポジションについて徹底的に調べ上げて、新設チームの「事業計画書」を作ってプレゼンしました。
応募の打診を受けたその足で、チーム設立の背景にある課題やロールの期待値をヒアリング。週末でマーケットデータ、採用戦略、競合分析、具体的なエンゲージメントモデルまでを10枚の資料に落とし込みました。
そして週明け月曜日の朝、マネジャーに作成した資料を説明すると「明日、CVPに説明するための資料が必要だった。これならそのまま使えるよ」と驚かれて(笑)
結局、その場で面接を経ることなく、採用してもらえることになりました。
マイクロソフトのFDEチームは、担当するクライアントのリージョンごとにチームが分かれている。吉田さんは、アメリカチームのプレイングマネジャーとして活躍中だ。
「怖い」感情こそ、キャリアの天井を突き破るチャンス
ーー過去の経験が通用しないミッションに飛び込む。怖くはないんですか?
正直、すごく怖いです。でも、こういう怖さって「良い怖さ」なんですよね。
責任と裁量が増え、前提が揃っていない中での意思決定が必要になる。そういうヒリつく状況での学びは、成長していく上で非常に大きいので。
期待値が曖昧で誰も責任を取らない「悪い怖さ」からは、全力で逃げた方がいいです。でも、「良い怖さ」からは逃げない。むしろ、その匂いがする方へ突き進むべきです。
ーーその「怖さ」に足がすくむ人も多そうですが……。
怖い時にやるべきことは「気合いを入れる」じゃないんです。怖さを気合いで潰そうとすると、だいたい仕事が雑になりますから。
今回のFDEチームの立ち上げでも、まずは「何をもって成功とするか」を徹底的に言語化して曖昧さを減らしました。
その上で、リスクを分割して小さく試し、失敗しても致命傷にならない設計にする。さらに、自分一人で抱え込まず、精度の向上のために周囲の相談やレビューを構造として組み込む。
「怖い=伸びしろ」だと捉えて、そうやって仕組みで乗り越えていくんです。
ーー築き上げた信頼に甘んじず、常に次のリスクへ再投資してきたからこその今なんですね。
怖さは無理に消さなくていいんです。「怖いけど、これをやり切ったら景色が変わる」という感覚さえあれば大丈夫。
コンフォートゾーンにいる限り、昨日の自分には勝てます。でも、私のキャリアは「過去の自分」に勝つためのゲームじゃありません。
「まだ勝ったことがない場所で勝つためのゲーム」なんです。これからも、自分が一番「怖い」と思える場所に飛び込み続けて、ポジションを奪い取りにいきたいですね。
取材・文/今中康達(編集部)