本田圭佑はなぜ「これ流行ってるんすよ」と言ったのか? W杯日本代表の進化に見る、AI時代に必要な「言語技術」の正体
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現在開催中の「FIFAワールドカップ2026」。その激戦のピッチ上で、今、ある確かな変化が起きている。
日本時間2026年6月15日に行われたグループステージの大一番・オランダ戦。1失点目を喫した直後、堂安律選手を中心に選手たちがすぐさまゴール前に集まった。「リスクを背負って前に出るべきか、否か」。その場で互いの意見をぶつけ合い、「絶対に2失点目をしなければ追いつける」という共通の論理を瞬時にすり合わせたのだ。
さらに、2失点目を喫した直後にも、再びピッチ上に円陣が組まれる。イレギュラーな事態が起きるたび、その都度、全員が同じ方向を向くためにピッチの上で言葉を交わす姿がそこにはあった。
解説の本田圭佑さんは、選手たちのその様子を見て、こう評した。
「これ、今流行ってるんすよ。海外でよくある風景。互いに声をどうかけるか、どう考えるか。こうした会話を交わすことを、今の日本代表チームは何年も積み重ねてきたんです」
かつての日本代表といえば、個々のタレント性や身体能力に依存するあまり、ピッチ内外でのシステマチックな意思疎通に大きな課題を抱えていた。ハーフタイムのロッカールームでも、戦術的な対話や主体的な意見交換はほとんど行われず、監督からの指示を待つ――。そんな、組織としての「暗黙知の限界」に突き当たっていた時代すらあったのだ。
しかし、現在の日本代表、そしてヨーロッパの第一線で活躍する選手たちは明らかに違う。
「個人のセンス」や「阿吽の呼吸」を捨て去り、チーム全員で共通の論理を共有するために、彼らがピッチ内外で必死に積み上げてきたもの――。それこそが、欧米の教育現場では思考の共通OSとして叩き込まれる「言語技術(Language Arts:ランゲージ・アーツ)」だ。この事実は、まだあまり知られてはいないだろう。
今回は、日本における言語技術教育の第一人者であり、日本サッカー協会(JFA)や日本オリンピック委員会(JOC)のナショナルコーチアカデミーなどで世界の頂点を目指す指導者たちにレクチャーを続けてきた三森ゆりかさんにインタビューを敢行。
ITの世界における「技術」ではなく、人間の思考と組織を根底から変える「言語の“技術”」の価値について、現代のエンジニアやマネジャーにこそ必要な理由とともに聞いた。
つくば言語技術教育研究所所長
三森ゆりか(さんもり・ゆりか)さん
東京都生まれ。中高の4年間を旧西ドイツで過ごす。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒業。1984年〜88年、外交官の子どもを対象とするドイツ式作文教室を主宰。90年、「つくば言語技術教室」(現「つくば言語技術教育研究所」)開設。これまでに日本サッカー協会、日本オリンピック委員会、企業各社、全国の小・中・高校などで言語技術教育・研修を手がける。著書に『ビジネスパーソンのための「言語技術」超入門』(中公新書ラクレ)、『子どものための論理トレーニング・プリント』(PHP研究所)など多数
目次
世界で勝つための最強OS「言語技術」
――一般的に「言語化力」や「コミュニケーション能力」というと、単なる話し方のテクニックや「ロジカルシンキング」のようなビジネススキルを思い浮かべがちです。そもそも「言語技術」とは何が違うのでしょうか?
そこが日本における最大の誤解ですね。日本だとロジカルシンキングやディベート、ストーリーテリングがそれぞれ独立したノウハウとして独立しています。アメリカ人に「これからロジカルシンキングの勉強をします」なんて言ったら笑われますよ。「そんなの、全ての言葉の根底にいつも入っているものであって、わざわざ取り出して名前をつけるものじゃない」と。
言語技術とは、それらがバラバラに存在しているものではなく、文字、語彙、文法といった基礎から、聞き方、話し方、読み方、書き方まで、言葉を操るためのあらゆるスキルが体系化された「母語教育のフレームワーク」そのものなんです。いわば、全ての学問や思考のベースとなる「OS」ですね。
――欧米では、それを学校教育で普通に習うのですか?
ええ、小学校やそれ以前の段階から当たり前のように叩き込まれます。ドイツの教科書を開くと、たとえば中学1年生(7年生)の段階で、文字がびっしりと詰まった短編小説や、作文を記述するための設計図が並んでいます。日本の教科書みたいに「優しくてかわいいイラスト」なんてほとんどありません(笑)。彼らはそれを丸ごと1冊読み解き、課題に作文で応える演習を日常的にやっている。
ドイツ(左上)と日本(右下)の中学1年生の教科書を比較
【言語技術の概念とドイツ母語教育の体系】左図は基本的な思考・表現プロセス、右図はそのプロセスを習得させるためにドイツで構築された教育体系を示している。 ※三森ゆりか著『ビジネスパーソンのための「言語技術」超入門』(中公新書ラクレ)をもとに編集部作成
だから、ロジカルに考えることも仮説を立てることも、特別なことではないんです。学校教育における日常的な言葉のスキルトレーニングに最初から組み込まれている。これに対して、日本の国語教育は「気持ち」や「情緒」を重視しすぎていて、世界のスタンダードである「論理的に言葉を運用する技術」を学ぶ機会が圧倒的に不足しています。
――かつてサッカー日本代表を率いたイビチャ・オシム監督が「日本人は言われた通りにしか動かない」「自立して考えられない」と激しく怒っていましたが、これもつながってくる話でしょうか。
完全にそれです。オシムさんはユーゴスラビア人ですから、ヨーロッパ人同様「言語技術」を幼い頃から受けて育った人です。だから彼が求める「自立して考える」とは、単なる精神論ではありません。「論理的な思考フレームワークに基づいて状況を分析し、主体的に判断を下す」という、極めて具体的な“技術”を指しているんです。
それを日本の選手は習っていない。だから「言われた通りにやる」か、あるいは「言われたこと以外のことをやっていいと言われたことがない」から動けなくなる。これは選手のせいではなく、仕組みを作っていない環境のせいなんです。
なぜ、東大を出ても文章が書けないのか
――日本人が世界に出たときに突き当たる壁の本質は、英語力の不足ではなく、その手前にある「言語技術の欠如」であると。
その通りです。だから日本では、どれだけ学歴が高くても、東大を卒業していようとも、「論理的な読み書きや議論ができない」という事態がごく普通に起こります。
実は、私の研究所には「学生があまりにも論文や報告書を書けないから、あそこへ行って習ってこい」と、東大や筑波大の教授から直々に送り込まれてくる学生や研究者が少なくありません。国立の研究所で土砂災害の研究をしていた私の夫も、結婚したときにこの言語技術の存在を知って「こんな学び方を知っていたら、俺は今頃こんなところ(国内の研究コミュニティー)にはいなかった!」と衝撃を受けていました(笑)。日本の最高学府であっても「見て学べ」だけで、文章を組み立てる具体的な方法論は指導されていないのです。
――それはITエンジニアの世界でも同じです。システムの仕様書やマニュアルを作る際、「処理の順番(フローチャート)は図で描けるのに、いざそれを文章にしようとすると、なぜか論理的な構造やシステム同士の関係性をうまく言語化できない」と悩むエンジニアは少なくありません。
フローチャートのように「時系列」で順番に流していくことは分かっていても、それを言葉に落とし込もうとした途端に、対象の論理的なつながりが分からなくなってしまう。マニュアルを作成してはいるけれども、どうやって文章そのものを組み立てるかを習ったことがないという人が、実は大半なんです。
これはスポーツ界の「伸び悩み」にもそっくりそのまま現れます。かつてJリーグが始まって以降、天才的なポテンシャルを持ちながらも、ヨーロッパへ渡った途端に通用せず、苦しんだ選手たちがいましたよね。
――ピッチ外でのコミュニケーションや、文化の壁にぶつかってしまったと言われるような……。
サッカーは1人で行うものではなく、極めて緻密なチームスポーツです。チーム全体でものを考えて、チームのために組織的に動かなきゃいけない。つまり「サッカーの場面だけ動ければいい、それ以外は口も利かない」では、プロの厳しい世界では絶対に通用しないんです。
普段の生活やミーティングの段階から、密度の高い意見交換(考えの交換)というベースがあるからこそ、一瞬の判断が求められるピッチ上で完璧に連携できる。これが欠けていると、どれだけ個人の技術が高くても、組織の戦術としては機能しなくなってしまいます。
――その「ピッチ上での連携」の差が、まさに論理の有無だと。
興味深いシーンがありました。中田英寿さんがイタリアに行く前、ある国際試合でテレビの解説から「中田、パスミス!」って何度も連呼されていたことがありました。
でも、本当に中田さんの単純な技術不足によるパスミスだったら、世界最高峰のクラブにスカウトされるはずがないですよね。あれはパスミスではなくて、本当は「論理的につじつまを合わせるなら、そこに人が走っていなきゃいけない空間」に中田さんは的確にボールを出したのに、周りの選手がそれを十分に理解できずボールが抜けた。つまり、チームのコミュニケーション(論理の共有)のバグだった。海外のスカウトは、そこまでちゃんと見ていた、と私は思っていました。
――中田さんの頭の中の論理に、周りがついていけなかった。
ワールドカップ予選の、あの歴史的な大一番でも象徴的なシーンがありました。ゴール前で中田さんが後ろから絶妙なスルーパスを出したのに、ボールを受けた選手が目の前に誰もいないフリーの状態なのにシュートを打たず、なぜか後ろにボールを戻してしまったシーンです。
中田さんはまさか戻ってくるなんて思っていなかったのでしょう、対応できなくて慌てて。あれは、完全に「論理の共有」ができていない典型例でした。「ここでパスをもらった、目の前に敵は誰もいない、だったら流し込むのが論理的だ」という判断の方法論を共有できておらず、恐らく前にいた選手はどうしていいか分からなくなって戻してしまったのでしょう。
――才能や身体能力で戦ってきた日本のスポーツ界が、世界との差を埋めるために必要としたものこそが、その「理屈で考え、組織で言語化する力」だったのですね。
そうだと私は思っています。実際にドイツのケルン体育大学に留学していた指導者(※元日本サッカー協会会長・田嶋幸三さん)が、現地の10歳ほどの子どもたちが練習中に「今の判断は論理的だった。なぜなら、これこれこういう理由だからだ」と、当たり前のように言葉で説明し合う姿を見て衝撃を受けたそうなんです。
それで日本に帰ってきてから「論理」に関する本を必死に探して、私の本にたどり着いて連絡をくださった。勝てない原因が「論理的に考えられないこと」にあると、彼はいち早く気がついたわけです。そしてこれは、グローバルビジネスの現場でも、まったく同じ構造の壁として存在してるのではないでしょうか。
言語技術が欠ける組織の「致命的なリスク」
――言語技術という「思考の共通OS」がチームに欠けていると、組織には具体的にどのような「バグ」やリスクが起きるのでしょうか?
分かりやすい例があります。ある日本企業が、ドイツのグローバル企業に統合された際のエピソードです。
統合してしばらく経った頃、その企業の人事部の方から相談を受けました。日本人の社員たちが「ドイツ人のボスにいつも叱責されている、詰問されている」と非常に大きなストレスを抱えて泣きついてきたというんです。ところが、私が研修の依頼を受け、実態を尋ねてみると全く違いました。
――何が起きていたんですか?
ドイツ人側は、ビジネスとして当然の質問を重ねていただけだったんです。「あなたの主張の根拠(エビデンス)は何ですか?」「具体的なデータはどこですか?」と。
でも日本人の側は、自分のものの言い方が曖昧で、論理の筋道が通っていないから質問されているのだという事態に気付かなかった。質問されたこと自体を「人格否定」や「攻撃」と捉えて、勝手に傷ついてしまっていたようでした。言語技術という共通のフレームワーク(仕様)を持たないために、不必要な衝突が起き、チームが決裂しかけたわけですね。
その後、彼らに言語技術を6時間ほどトレーニングしたところ、「あ、ドイツ人たちが今言っていることは、彼らが学校で習ってきたことなのだ。ただ質問に答えればいいだけなんだ」と気付いて、彼らの肩の荷が下りた。それからは恐れることなく、ちゃんと対等に働けるようになったということでした。
――似たような話として、海外のコーチが就任した日本のスポーツチームでも、同じように選手たちとコミュニケーションの衝突が起きた事例があるそうですね。
全く一緒でした。選手たちから「いじめられているから、あのコーチを辞めさせてくれ」と泣きが入ったチームがありました。そこで私は、練習のたびに何人かずつ、相手の質問に答える「問答ゲーム」という言語技術のトレーニングを実施してみることを勧めました。
すると1年後、チームの日本人コーチから「すっかり揉めなくなって、和気あいあいと練習できるようになりました。海外のコーチを解雇する必要もなくなりました」と報告がありました。
もともと、海外のコーチ側は「なんで日本人は、質問すると逃げるんだ?」くらいにしか思っていなかったはずなんです。日本人の側が、自分たちの言い方が曖昧だからただ質問されていただけで、「質問には単に答えればいい、攻撃されているわけじゃない」と気がついたら、彼らは質問を受け入れられるようになった。質問されること自体に慣れたんですね。
問答ゲームの実施例。三森ゆりか著「大学生・社会人のための言語技術トレーニング」(大修館書店)P33をもとに編集部作成
――実力や高いスキルがあっても、お互いの考えや監督の意図を正確に「認知・分析」できなければ、決して結果には結びつかない。
そう、男子バレーボール日本代表の監督(フィリップ・ブラン氏)も、かつて雑誌のインタビューで同じようなことを仰っていました。
彼が日本に来た当初、何を言っても、何を質問しても選手たちは答えない。「分かったか?」と聞くとうんとうなずくのに、「それ以上の質問はないか?」と聞くと沈黙が流れる。そこで監督が「じゃあ、分かったならやってみなさい」とコートに出すと、実態は全くできていなかった、と。
――「分かったつもり」になって、試合や本番に向かってしまうということなのでしょうか。
そうです。チームや組織の現場では、「1人が分かっているだけ」では戦術は成り立ちません。かつて海外の強豪クラブでキャプテンマークをつけてゲームを完璧に引っ張るほどの頭脳を持った日本人選手が、日本代表に入ると、後ろから前までずっと1人で行ったり来たりして動き回っているように見えた時期がありました。
あれは、周りが動けていなかったことが原因だと私は思っていました。その選手の頭の中の中身(論理)と、周りの選手が連携できていない。たった1人だけが卓越した仕様を持っていても、戦術としては成り立たないんです。メンバー全員が同じ思考の方法論を共有していなければ、ボールはつながりを欠いて零れ落ちます。開発現場であれば、致命的なバグや、終わりなき手戻り(やり直し)が発生し続けることになります。
表面的な小手先の実践は無駄
――ビジネスパーソンやエンジニアからよく「前提を疑う力や、問いを立てる力を身につけるための『思考の型』を教えてほしい」という質問を受けます。まず何から始めればいいでしょうか?
厳しいことを言うようですが、表面的なTipsをいくつか真似したところで、できるようにはなりません。言語技術は「スキル」です。車の運転やスポーツの型と同じように、体系的な方法論のもとでトレーニングを積まなければ絶対に身に付きません。
本を読んだだけで「分かったつもり」になるのが一番危険。意識の高い大人であっても、一度これまでの思考の癖を崩して、やり直す必要があります。ただ、頭の良い方たちですから、5〜6時間かけてでも正しい方法論をプロから学んでしまえば、習得は圧倒的に早いです。「こんな簡単なことだったのか」と驚くはずですよ。
――実際のトレーニングでは、どのようなことを行うのですか?
大人を対象としたトレーニングの初期段階で導入する代表的な手法が、「問答ゲーム」「空間配列」「絵の分析」です。
【1】問答ゲーム
これは答える時の形式(文型)を決めて行う、対話のトレーニングです。特定の対象について、相手から大量の質問を受け、また自分からも質問を投げかける。これをあえて徹底的に繰り返すことで、相手の話を耳で聞いて正確に「認知」し、「どこが足りないか、どこが曖昧か」を一瞬で「分析」した上で、即座に的確な質問(問い)を立てる力が養われます。
欧米人がビジネスの場で四六時中、鋭い質問を繰り出せるのは、彼らの人種的な特性でも何でもありません。子どもの頃から家庭や学校の言語環境の中で、そうやって質問されて育っているからです。
【2】空間配列のトレーニング
例えば、ある学校の敷地地図を「図を見せていない相手」に対して言葉だけで正確に説明する、というワークを行います。
三森さんが所長を務めるつくば言語技術教育研究所が作成し、生徒達に使用させている実際のテキストの一部
技術がない人は、対象をぼんやりと眺め、思いつきで目に入った細かい部分(茶室がある、など)から話し始めるため、相手の頭には何も浮かびません。一方で、技術がある人は「全体から部分へ」というフレームワーク(構造化)を瞬時に適用します。
上記の図であれば、まずは大きな枠組み(敷地面積や全体の輪郭)を言葉で規定した上で、正門から伸びる中央の歩道を「基準軸」とし、右側、左側、突き当たり、と要素を整理・分類して説明していくのです。
――なるほど。この「全体から部分へ」という空間配列のノウハウは、システム開発における「全体設計から詳細設計への落とし込み」そのものですね。
まさに同じなのではないでしょうか。そしてサッカーにおいては、ピッチ全体を瞬時に俯瞰し、敵味方の位置関係を構造化して「どこにスペースがあるか」を戦術として共有する能力に直結していると私は考えています。
何もないゼロの状態から新しいものを生み出すとき、このフレームワークを持って考えている人と、思いつきで考えている人とでは、アウトプットの質がまるで違います。できない人は、対象をただずっと「眺めて」いるだけで、思考が先に進まないんです。
【3】絵の分析(エビデンスベースの読解)
もう一つ、スポーツや科学の現場で非常に重要になるのが「絵の分析」です。例えば、人物が奇妙な姿勢で横たわっている1枚の絵画を見て、「この人物は生きているか、死んでいるか、あるいは寝ているだけか」を徹底的に議論します。
「絵の分析」で題材として用いられる絵画の一つ、ヘンリー・ウォリス『チャタートンの死』。参照元:「ビジネスパーソンのための『言語技術』超入門」(中公新書ラクレ)P190
アメリカの名門イエール大学の医学部でも、1年生の必修科目にこの「絵の分析」をObservational skillsとして取り入れ、今では全米の医学部に広がっているようです。彼らはそこでの議論を通じて、医師に必要な徹底的な「観察眼」を育てるわけです。
ここで大切なのは、「寝ているように見える」という主観だけでは絶対に認められないということ。必ず絵の中から「この関節のねじれ方は、生存していれば痛みに耐えられないはずだ。顔が青ざめている。胸に爪で引っ搔いたような跡がある」といった、客観的な「証拠(エビデンス)」を拾い集め、論理を組み立てていく必要があります。
――主観を排し、事実だけで状況を解き明かす。いわばデバッグにも似た客観的な分析力があるからこそ、状況判断のスピードが圧倒的に変わるわけですね。
その通りです。そして面白いことに、この「エビデンスベースで物事を解き明かす」というアプローチは、理系やエンジニアの感性と極めて親和性が高いんです。感情ではなく論理で組み立てる一種の「コーディング」ですから、国語が嫌いだった理系の人たちほど「あ、これなら理解できる」と、驚くほどのスピードで言語技術を吸収し、爆発的に伸びていきます。
絵の分析における観察から言語化への段階。三森ゆりか著「ビジネスパーソンのための『言語技術』超入門」(中公新書ラクレ)P179をもとに編集部作成
AI時代、システムを動かす鍵は「言葉」になる
――現代は生成AIの台頭によって、エンジニアを取り巻く環境が激変しています。コードを書くこと自体はAIが代替しつつあり、これからのエンジニアには「どんな前提や仕様でAIを動かすか」という、論理的で正確な言葉による指示(プロンプト)のスキルや、システム全体の構造化が求められています。テクノロジーが進むほど、最後にシステムを動かす鍵は「言葉」になるのではないかと感じているのですが、三森さんの目にはどう映っていますか?
まさに、よりいっそう言語技術が求められる時代になっていくと私は思います。先ほど「図は得意だけれど文章の論理構造になると書けなくなるエンジニアが多い」とお話ししましたが、実は私がIT関係の学会や、システムのマニュアル作成者の集まりに呼ばれて講義をしたときも、まさにその課題が浮き彫りになりました。
――やはり、現場の多くの方が同じ壁にぶつかっていたのですね。
そのようです。何もないゼロの状態から新しいプロダクトを組み立てていくとき、方法論を持たずに思いつきや阿吽の呼吸で進めていては、複雑なものになればなるほど、必ずどこかに抜け漏れが発生します。
――いわゆる、システムの「考慮漏れ」や「バグ」につながってしまうわけですね。
ええ。でも、もしチーム全員が言語技術という「共通の方法論(フレームワーク)」を共有していたらどうでしょうか。
実際に講座でエンジニアの方々にグループワークをやってもらうと、抜け漏れが劇的に減るんです。「ここが抜けているよ」「この構造は違うんじゃない?」と、お互いが共通のフレームワークに照らし合わせてチェックし合えるので、誰かが必ず漏れに気が付く。
しかも素晴らしいのは、違う意見が出たときに誰も怒ったり不機嫌になったりしないことです。それが人格否定ではなく、純粋に構造を良くするための話し合い(デバッグ)だと全員が理解しているから、ディスカッションが恐ろしく建設的になるんです。
――「コードを見れば分かる」といった職人文化や暗黙知に頼るのではなく、共通の言語技術を持つことで、開発のバグも減り、チームのディスカッションの質も劇的に変わると。
その通りです。私の息子も外資系企業で管理職として働いていますが、いつも言っていますよ。「この世界で働くには言語技術が必須」だと。
言葉が変われば、認知が変わります。認知が変われば、対象をただぼんやりと眺めるのではなく、分析的に捉えられるようになり、結果として下される判断と実行の質が圧倒的に高まる。
サッカー日本代表がピッチ上で、ゴール前に集まり、一瞬で戦術を共有できるようになったのも、彼らが地道に言葉を交わし、論理を共有する技術を培ってきたからではないでしょうか。
これは生まれ持った才能ではありません。ただの「やり方」であり「スキル」です。やり方を習っていないからできないだけであって、大人は正しい方法論さえ学べば、驚くほど早く習得できます。
小手先のテクニックに頼るのではなく、自分たちの「思考のOS」そのものを世界標準へとアップデートしていく。その一歩を踏み出すことで、エンジニア個人としての景色も、チームが創り出すプロダクトの価値も、まったく違う次元へ変わっていくのだと私は思います。
撮影/赤松洋太
文・編集/玉城智子(編集部)
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