「新卒エンジニアの初任給を引き上げ」
テック業界で、この見出しを目にする機会が加速度的に増えた。優秀人材の争奪戦の激化と、それに伴うエンジニアの報酬高騰。その波は、今や新卒採用市場をも飲み込もうとしている。
しかし、現場エンジニアたちが抱く感情は、果たして歓迎ムードだけだろうか?
「実力主義の加速は、既存社員の評価体系にどう波及するのか」
「初任給が上がる一方で、採用のハードルはどこまで高くなるのか」
「企業はエンジニアに何を期待して高い対価を支払おうとしているのか」
こうした、報酬高騰の背後にある“実態”こそが、真の論点になるべきだろう。今回は、初任給の改定をはじめ新卒の待遇に関するリリースを公開しているサイボウズ、LINEヤフー、LayerXの3社に直接取材。提示された数字の裏側に秘められた意図を浮き彫りにしていきたい。
各社の取り組み
【サイボウズ】
2027年度の新卒入社社員の初任給の下限引き上げを発表
・ビジネス職:月給40万円以上/年収560万円以上 (前年比25%増)
・エンジニア職:月給43万円以上/年収602万円以上 (前年比19.4%増)
【LINEヤフー】
2027年度の新卒採用者のうち、エンジニア職の初任給の下限引き上げを発表
・43万4000円以上/標準年収650万円以上(従来比30%増)
【LayerX】
新卒・既存社員を問わず、査定結果に応じて最大4ヶ月分(エンジニアの場合)の賞与を支給する制度を新設。
2025年10月以降の新卒採用において、初任給1000万円を超えるオファーを実施。
※各社ともに初任給金額は一律ではなく、スキルや期待値に応じたオファーを経て決定されます
【お話を伺った方】
サイボウズ
人事本部
Recruiting & Onboarding部 部長
武内友紀さん
サイボウズ
人事本部
Recruiting & Onboarding部 新卒採用チーム
藤 七海さん
LINEヤフー
新卒採用ディビジョンリード
田中崚也さん
LayerX
コーポレート本部 HR Enabling部
新卒採用・育成グループ
大谷 耕一郎さん
「一律型報酬」終焉の足音
各社はどのような思想を持って報酬を再定義したのか。サイボウズの話からは、労働市場の変化に迎合するのではなく、自社の事業成長を加速させるための「経営の意思」がうかがえた。
サイボウズ
現在、売上は順調に推移しており、利益が出やすい体質が整ってきました。とはいえ、事業成長を加速させていく上で、まだ理想とのギャップがあるのも事実です。それを埋めるためには、今こそ『人』に投資していくフェーズだと判断しました。初任給の引き上げはその手段の一つです。
採用競争力を高めたいという背景もありますが、何よりも組織全体のギアを一段上げるきっかけになればと考えています。つまりこれは、社内のメンバーに対しても『より生産性を高め、事業を加速させていく』という意思表示でもあるわけです。育成体制の強化も含め、改めて人材への投資を経営の軸に据えていきます。
特徴的なのは、初任給引き上げを単なる採用施策としてではなく、組織全体に対するメッセージとして位置付けている点である。
加えて興味深いのが、採用ターゲットそのものは「極端には引き上げない」という判断だ。
サイボウズ
初任給の見直しに際して、『採用基準は上げるのか』という議論も行ったのですが、私たちはこれまでも優秀なエンジニアを厳選して採用してきたこともあり、今回の見直しにあたっては明確なターゲットの引き上げは行わない方針としました。
私たちが重視しているのは、単に技術力の高さだけではありません。昨今のAIの進化に代表されるような激しい変化に柔軟に対応できるか。より良いプロダクト開発のために何が必要か考え、主体的に実行に移せるか。こうした柔軟性や実行力の重要性が高まっていると考えています。
そのため面接でも、単に技術的な経験を問うだけでなく、これらの資質もより深く掘り下げるようにしています。
一方で、採用ターゲットそのものを引き上げた企業も存在する。LINEヤフーだ。
LINEヤフー
昨今のAI技術の急速な進展を鑑みると、ポテンシャル層に留まらず、技術的なベースメントが備わっている人材を確実に仲間にしていく必要があります。
そのため、今回の初任給引き上げは単なる賃上げではなく、採用要件そのものを大幅に引き上げたことによる必然的な変化なのです。
さらにLINEヤフーでは、その変化に合わせて選考プロセス自体も進化させている。
LINEヤフー
全選考官で共通の問いを設定するのはもちろん、例えば、ライブコーディングツールを活用した構造化面接を導入することで、技術的な土台が備わっているかをリアルタイムかつ丁寧に評価する体制を整えました。
また、インターンシップを通じたワークサンプルの活用も推進しており、実践を通じて相互理解を深めながらマッチングしていくことに注力します。学生と現場のミスマッチを減らし、入社後の立ち上がりをスムーズにするためのプロセスです。
LayerXでは、昨年10月にAI等の利活用によって高まった生産性に報いる新報酬制度を発表し、新たに賞与制度を導入。それによって新卒・既存社員を問わず年収の下限も引き上げられた形だ。
新卒採用に関しては、2026年4月に「新卒エンジニアに1,000万円超のオファーを実現」という発表があり、SNSでも話題になった。本リリースを公開した背景には「AIによって変化するビジネス環境の劇的な変化を受けて、AIネイティブな若手人材に向けたアプローチをよりいっそう強化していくため」だと説明する。
LayerX
LayerXでは昨年、『Bet technology』という全社の行動指針を『Bet AI』に変更しました。お客様の業務をAIエージェントによって自動化していく上で、まずは我々自身がAIネイティブな働き方をして生産性を何倍・何十倍にも上げ、これまで以上のアウトカム(成果)を創出していく必要があると考えているからです。
そこで、必要となるのが AI人材です。AIを活用することで、1人あたりの生産性とチームの生産性を伸ばしてくれる人材には、それが新卒であってもこれまで以上に高い報酬をお支払いするべきだと考えています。
各社が実感する採用難易度の高まり
採用ターゲットを引き上げるということは、必然的に採用競争がよりシビアになることを意味する。実際、各社ともその難易度は「上がり続けている」と口を揃える。
LINEヤフー
私たちは、実務経験や思考力に長けているなど、より多くの優秀な学生にアプローチしたいと考えています。そういった学生にとっても収入や待遇は無視できない要素ですが、実際に彼らと向き合っていると、企業選びの判断軸は報酬の先にあると感じます。
自分がLINEヤフーで何ができるのか。どんな挑戦ができて、いかに新しい価値を創出できるのか。結局のところ、自らの介在価値を最大限に発揮できる環境があるかどうかが、彼らに選ばれるための決定打になるのです。
サイボウズも同様に「入社を決める際の決定打として『成長環境』への期待はよく挙がる」と語る。優秀な新卒エンジニアにとって、報酬は意思決定の本質ではないという傾向が伺えた。
LayerXは、その背景にある価値観の変化を具体的に捉えている。
LayerX
インターンや採用面接の場でお話しする学生さんたちから見受けられるのは、『AIを自らの武器として使いこなしたい』という意欲を持っている点です。
そのため、入社後にどれだけスキルアップできる環境があるか、という点は非常に重視されていますね。特にテクノロジー領域は変化が激しく、入社する頃には状況が一変している可能性すらあります。
そうした変化に対し、会社としてどう適応しているのか、あるいは個人としてどれだけ密度の濃い経験を積めるのか。学生の皆さんも、そうした目線で就職先を選んでいるように見えます。
「給与逆転」の可能性に既存社員から懸念は?
初任給の引き上げは、当然ながら既存社員にとってもインパクトのある施策だ。焦点となるのは、既存社員との給与バランスだろう。
新卒の給与が上がることで「逆転現象」への懸念や不満が生じることが想像できるが、その反応は企業ごとに大きく分かれる結果となった。LINEヤフーはこうだ。
LINEヤフー
先にお話しした通り、今回の初任給引き上げの前提には、採用基準の抜本的な引き上げがあります。
求める人材のターゲット水準を上げたからこそ、それに紐付く対価として初任給が引き上がった。この因果関係を明確にし、『今回の新卒採用は、これまでとは根本的に異なるのだ』という事実を説明しました。あくまで『基準の向上と報酬はセットである』ということです。
LINEヤフーでは、「給与」ではなく「採用の本質」に論点を引き上げることで、社内の納得感を醸成しているのだ。
一方、サイボウズでは、若手層やメンバーを持つマネジャーから「既存社員の給与を追い越してしまうのではないか」といった、現行の評価制度との整合性を懸念する声も少なからずあったと明かす。それに対して同社は、次のような方針を打ち立てた。
サイボウズ
新卒の初任給のみならず、社内の給与水準を見直していく方針です。サイボウズでは毎年年末に給与の見直しを実施しているので、このサイクルの中で、社内の給与レンジ自体の調整を進めていく計画です。
具体的には、2027年度の新卒初任給アップを踏まえた水準調整を、年末の給与改定に合わせて実施予定です。加えて、高い成果を出しているメンバーの貢献を適切に報酬へ反映できるよう、給与レンジの上限の引き上げも検討しています。
つまりサイボウズでは、単に「新卒だけ上げる」のではなく、組織全体の給与構造を再設計しているというわけだ。
人件費は「コスト」から「投資」へ
初任給や報酬の改新にあたって避けて通れないのが、人件費の問題だ。単純に考えれば、給与水準の上昇はコスト増に直結する。
しかし、今回の取材で浮かび上がったのは、その前提自体が変わりつつあるという事実だった。
2025年、報酬資源を最大10%拡充する方針を発表したLayerXは、人件費を「コスト」として捉える考え方を明確に否定する。
LayerX
AI等の利活用によってもたらされる高い生産性、そしてそこから創出されたアウトカムは、従業員へ適切に還元していくべきだと考えています。
待遇の見直しは、単なる給与の底上げではなく、AIを武器に高い生産性を発揮し、確かなアウトカムを生み出せる人材に対する、期待を込めたオファーなのです。
では、エンジニアが生み出す価値をどのように測定し、報酬へと反映させていくのだろうか。
LayerX
シンプルに、どんなアウトカムを創出したかという一点に集約されます。単に仕様書通りに機能を作るのではなく、お客様の業務を効率化し、経営にどれだけ貢献できたか。
あるいは、通常は遅れがちな開発スケジュールを、AI等を活用することでどれくらい短縮できたか。受注の障壁となっていた機能面の課題を、いかに解消して利益創出に繋げたか。
アウトプットの多さではなく、課題解決に直接つながるアウトカムが多い人に、よりいっそう高い報酬を提示していけたらと思っています。
LINEヤフーも、報酬引き上げの正当性として「利益の最大化」を挙げる。
LINEヤフー
例えば、これまで10人で回していた業務を半分のリソースで完結させる。それによって浮いた人件費やツールコストを最適化し、より付加価値の高い領域へ再投資する。こうした生産性の変革を実現し、確実に利益へとつなげていくこと。それが、経営が現場に寄せている期待の本質です。
エンジニアに寄せられる期待値の変容
採用を取り巻く環境が変わっていく中、企業がエンジニアに寄せる期待値もまた変容している。AIが実務の多くを担う時代、エンジニアにしかできない役割をどこに見出しているのだろうか。
LINEヤフーは、テクノロジーの進化を背景としたエンジニア像の変遷を次のように説く。
LINEヤフー
AIを使うことはもはや特別なスキルではなく、非エンジニアでも当たり前に活用できる時代になりました。だからこそ、テクノロジーの先にある『ユーザーに対してどんな価値を提供するのか』という、原理原則の部分に立ち返ることが求められています。
今後は『少数精鋭でバリューを最大化させること』が重要なキーワードになります。ユーザーへいち早く価値を届けていく姿勢が、これからの時代には不可欠です。
サイボウズも、手段としての技術力以上に、個人のスタンスが重要視される時代になったと考えているようだ。
サイボウズ
開発プロセスのあらゆる場面にAIが入り込む中で、より本質的な判断力や、変化し続ける市場・組織への対応力が問われるようになりました。
だからこそ今、私たちが求めているのは、自ら役割を限定しない柔軟な姿勢です。より良いプロダクト開発のための課題に真っ向から向き合い、主体的に考え、周囲を巻き込んで動かしていく。そうしたスタンスの重要性は、今後さらに高まっていくでしょう。
LayerXは、「エンジニアという職種の枠に閉じず、あらゆる領域で力を発揮してほしいという期待値が高まっています」と話す。
LayerX
エンジニアが創り出すアウトプットの先には、常に『お客さまに届けるべき価値』があります。
新卒かどうかにかかわらず、どれだけ早い段階からこの視点を持ち、主体的に動けるか。チームを巻き込み、アウトカムに対して積極的にコミットできるかどうかが大事です。
しかし、こうした高い期待値の中で入社する新卒のプレッシャーも想像に難くない。LayerXに、現場での実感を聞いた。
LayerX
社内に優秀なエンジニアが多いため、新卒が活躍する場がないのではないか……といった不安を持つ方も中にはいらっしゃるかもしれません。
ただ、実際には新卒から新規プロダクトの立ち上げに挑戦する人、経験を積んでマネージャーとなってチームを率いる人、様々な事例が生まれています。
LayerX
さらに、新規プロダクトが続々と生まれ、事業領域も広がっていく中で、若手のエンジニアが責任あるポジションに抜擢されることも多く、ビジネスの最前線で意思決定ができる“打席”もますます増えています。
そういった環境の中で、自ら道を切り開いていく若手の皆さんの姿には、私たちも大きな手応えを感じています。
若き才能を迎え入れるフィールドは、かつてないほど刺激的なものへと進化している。サイボウズは自社の現状をこう表現する。
サイボウズ
これまでのサイボウズは、新しいプロダクトを次々と世に送り出すようなスタイルではありませんでしたし、主力製品である『kintone』もリリースから10年以上経ちました。今後はより新しい領域への挑戦を加速させるフェーズへと移行していきます。
築き上げてきた盤石な基盤を活かしながら、同時に新しいチャレンジにも打って出る。こうしたフェーズは、エンジニアにとっても刺激的だと思います
LINEヤフーも、圧倒的なアセットと多様性がもたらす可能性を提示した。
LINEヤフー
LINEとヤフーという巨大な二社が合併したことで、社内には多様な組織が共存しています。かつ、ユーザーに密接したプロダクトが数多くあるため、エンジニアが活躍できるフィールドが無限に広がっています。
新卒の場合は、インターンシップを通じてプロダクトの多様性、圧倒的なデータの質と量、そして組織規模の幅広さを体感することが可能です。実際の開発現場にジョインする就業型、プロダクト開発に挑戦するハッカソン型があり、自身の興味に合わせてLINEヤフーで働くリアルを感じられる機会を用意しています。
自分に合った挑戦の場が必ず見つかる環境だと、自信をもってお伝えできます。
初任給の変動は、単なる人件費の上昇を巡るニュースではない。これは、日本企業が「年功序列」という慣習を疑い、プロフェッショナルとしての個人の実力に真摯に向き合い始めた転換点なのかもしれない。
各社の戦略は、これからの日本のエンジニアの価値や求められる成果を再定義するための試みの一つといえるだろう。